講談社電子文庫    宮本武蔵(四) [#地から2字上げ]吉川 英治   目 次  風の巻(つづき)   |悲《ひ》|母《ぼ》|悲《ひ》|心《しん》   |鍬《くわ》   町 人   春の雪   雪響き   今様六歌仙   |牡《ぼ》|丹《たん》を|焚《た》く   |断《だん》 |絃《げん》   |春《はる》を|病《や》む|人《ひと》   |伽《きゃ》|羅《ら》の|君《きみ》   門   |明《あ》|日《す》|待《まち》|酒《ざけ》   |必《ひっ》|殺《さつ》の|地《ち》   月一つ   |木《こ》 |魂《だま》   はぐれた|雁《かり》   |生死一路《しょうしいちろ》   |霧《む》 |風《ふう》    風の巻(つづき)     |悲《ひ》|母《ぼ》|悲《ひ》|心《しん》      一  滝の音がする——水かさ[#「かさ」に傍点]が増すわけでもないが夜は大きく耳へひびく。 「|地《じ》|主《しゅ》|権《ごん》|現《げん》というのは確かこれじゃろが。……|地主桜《じぬしのさくら》と、この樹の立札にも書いてある」  清水寺のわきの山道をかなり登って来たのである。しかし婆は、息が|喘《き》れたともいわない。 「——|伜《せがれ》、伜」  そこの堂の前に立つと、すぐ闇へこう呼ぶ。  顔つきにも、声にも、真実の愛情がふるえていた。後ろに立っているお|通《つう》には、べつな老婆のように思えた。 「お通、|提燈《あかり》を消すなよ」 「はい……」 「いない、いない」  婆は、口のうちで|呟《つぶや》きながら、そこらを|繞《めぐ》り歩いて、 「手紙には、地主権現まで来てくれとあったが」 「今夜と書いてございましたか」 「きょうとも|明日《あす》ともしてないのじゃ、|幾歳《いくつ》になってもあの子ときては子供じゃでのう。……それより自分で|旅宿《やど》へ来ればよいに、住吉のこともあるので、|間《ま》がわるいのじゃろ」  お通は|袂《たもと》を引っぱって、 「お婆様、又八さんではありませんか。——誰か下から登って来るようです」 「エ、いたか」  崖の道をさし覗いて、 「伜——」  やがて登って来た者は、そういうお杉婆には目もくれないで、地主権現の裏へ廻り、またそこへ戻って来ると、立ちどまって、提燈の明りの上に浮いているお通の白い顔を、不遠慮な眼でじっと見る。  ——お通は、はっと思ったが、先は何も感じない顔つきである。この元旦、五条大橋のそばでお互いに見かけているはずであるが、佐々木小次郎のほうには、覚えがなかったであろう。 「|女《おな》|子《ご》、そこのおばば。お前たちは今ここへ登って来たのか」 「…………」  |訊《たず》ね方が唐突なので、お通もお杉婆も、ただ小次郎の|派《は》|手《で》派手しいすがたへ眼をみはっていた。  すると小次郎は、いきなりお通の顔を指さして、 「ちょうど、これくらいな年ごろの女だ。名は|朱《あけ》|実《み》といって、もちっと丸顔、がらはこの|女《おな》|子《ご》より小つぶだが、茶屋そだちの|都会娘《みやこむすめ》、どこかもそっと|大人《おとな》びている風がある……。見かけないか、この辺りで」 「…………」  黙って、二人が顔を振ると、 「おかしいな? 三年坂の辺りで、見た者があると訊いたのだが、さすれば、この辺の御堂で夜を明かすつもりにちがいないし……」  初めは相手を置いていた言葉であったが、途中から独り言のようになって、それ以上は問いようもなく、なにかまだ、ふたことみこと呟きながら、小次郎はどこともなく立ち去ってしまった。  婆は、舌打ちして、 「なんじゃあの若者は、刀を負うているところを見れば、あれでも侍じゃろが、これ見よがしの|伊達《だて》すがたして、夜まで女のしりを追うていくさる。……ええ、こちらはそれどころじゃない」  お通は、お通でまた、 (そうだ、さっき|旅籠《はたご》へ迷って来たあの女——あの女に違いない)  |武蔵《むさし》と——朱実と——小次郎と——そう三人の関係を、いくら考えても解せない想像の中にのぼせて、ぼんやり見送っていた。 「……もどろう」  婆は、がっかりしたように、|諦《あきら》めの言葉を投げて歩き出した。たしかに地主権現と書いてあったのに、又八は来ないし、滝の音の寒さは毛穴をよだたせる。      二  すこし道を降りてゆくと、本願堂の門前で、また、さっきの小次郎に二人は出会った。 「…………」  顔を見あわせただけで、どっちも黙って通りすぎた。お杉が振向いて見ていると、小次郎の影は子安堂から三年坂のほうへ、まっ|直《すぐ》に降りてゆく様子—— 「|険《けわ》しい眼づかいをするよのう。……武蔵のようじゃ」  つぶやいているうちに、婆の視線がなにへ触れたのか、ぎくと、背のまるい体に衝動を見せて、 「……ほう!」  |梟《ふくろ》の啼くような声を出した。  |巨《おお》きな杉の樹の蔭だ。——たれかその蔭に立って、手まねきしている。  婆の目にだけは、闇でもわかる人影だった。又八にちがいない。 (——来てくれ、こっち)  手で物をいっているのはその意味らしい。なにか、|憚《はばか》ることがあるとみえる。おお、いじらしい奴——というように婆のひとみはすぐ子の心持を読んだ。 「お通よ」  うしろを見ると、お通は十間ほど先に立って、婆を待っていた。 「——そなた、ひと足先へ行かっしゃれ。そうかというて、あまり遠くへ|去《い》んでもならぬぞよ、あの|塵《ちり》|間《ま》|塚《づか》のそばに立っていやい。すぐ後から行くほどに」  お通が、素直にうなずいて先へ行きかけると、 「これこれ、|他《ほか》へ|去《い》んだり、そのままどこぞへ走ろうとしても、婆の目がここから光っていることを知って置きゃい。よいか」  そして、すぐその体は、杉の|樹《こ》|蔭《かげ》へ走り寄っていた。 「又八ではないか」 「おばばっ」  暗がりから、待ちかねていたような手が出て、婆の手を固くつかんだ。 「なんじゃわれは、そんなところへ|竦《すく》みこんで。……オ、まあ、この子は、氷のようなつめたい手をして」  もうすぐ、そんな|些《さ》|細《さい》ないたわり心が、婆の目を意気地なくうるませてしまう。  そう叱られても、又八は|恟《おど》|々《おど》した眼で、 「……でもなおばば、今も、たった今もここを通ったろうが」 「誰がじゃ?」 「太刀を背中に|負《お》った、眼のするどい若衆だ」 「知っていやるのか」 「知らいでか、あいつが佐々木小次郎といって、つい先頃、六条の松原で、小っぴどい目にあわされた」 「——なに、佐々木小次郎? ……佐々木小次郎というのは、わがみのことではないのか」 「ど、どうして」 「いつであったか、大坂表でわがみが、わしに見せてくれた中条流の許し|書《がき》の巻物に、そう書いてあったじゃろうが。その時、わがみは佐々木小次郎というのは自分の別名じゃというたではないか」 「嘘だ、あれは嘘なんだ。——その|悪戯《いたずら》がバレてしまい、本物の佐々木小次郎|奴《め》にひどい|懲《こ》らしめに遭わされたのだぞ。——実は、おばばのところへ手紙をたのんでから、約束の場所へ出向こうとすると、またもここで|彼奴《あいつ》のすがたを見かけたので、眼にとまっては大変と、あっちこっちに隠れ廻って、様子をながめていたというわけ。——もう大丈夫かしら、またやって来ると面倒だが」 「…………」  呆れてものがいえないように、お杉は黙ってしまったが、ひと頃よりはまた|窶《やつ》れて、正直に自分の無力と小胆を顔にあらわしている挙動を見ると、婆は、よけいにこの子が|愛《いと》しくなってならないような様子だった。      三 「そんなことはどうなとよい」  婆はもう、わが子の弱音を、それ以上聞きたくもないという顔して、首を振った。 「それよりは又八、おぬしは、|権《ごん》叔父の死んだことを知っていやるか」 「えっ、叔父御が? ……ほんとですか」 「たれがそのような嘘をいおうぞ。住吉の浜で、おぬしと別れるとすぐあの浜で亡くなったのじゃ」 「知らなかった……」 「叔父御の|敢《あえ》ない死も、この婆がこの年して、こうした|憂《う》い|旅《たび》にさまようているのも、いったいなんのためか、おぬしは分っていやろうがの」 「いつか、大坂で会った折、|凍《い》てた大地にひきすえられ、おばばに存分叱られたことは、|胆《きも》に銘じて忘れてはいない」 「そうか……あの言葉を覚えているか。では、おぬしに|欣《よろこ》んでもらうことがあるぞよ」 「なんだ、おばば」 「お通のことよ」 「……あっ! じゃあ、おばばの側に添って、今|彼方《むこう》へ行った|女《おな》|子《ご》は」 「これっ——」  たしなめるように、又八の前へ立ちふさがって、 「|汝《わ》が身は、どこへおじゃるつもりじゃ」 「お通ならば……おばば……会わしてくれ、会わしてくれ」  うなずいて—— 「会わしてやろうと思えばこそ連れて来たのじゃ。——したが又八、おぬし、お通に会ってどういう気か」 「悪かった——済まなかった——ゆるしてくれといって、おれは謝るつもりだ」 「……そして」 「……そしてなあ、おばば……おばばからも、おれの一時の心得ちがいを|宥《なだ》めてくれ」 「……そして」 「元のように」 「なんじゃあ? ……」 「——元のように仲をもどして、お通と|夫婦《いっしょ》になりたいんだ。おばば、お通はおれを今でも思っていてくれてるだろうか」  皆までいわせず、 「——ばッ、ばかっ」  お杉は、又八の横顔を、ぴしゃりと打った。 「アッ……な、なにをするんだ、おばば」  |蹌《よろ》めきながら又八は顔をかかえた。そして乳を離れてから今日まで見たことのない怖ろしい母の顔を彼は見た。 「たった今、おぬしはなんというたぞ。わしがいつかいうて聞かせた言葉は、|胆《きも》に銘じているというたであろう」 「…………」 「いつ、このおばばが、お通のような|不《ふ》|埒《らち》な|女《おな》|子《ご》へ、|汝《わ》が身が手をついて謝れと教えたか。——本位田家の名に泥を塗って、あまっさえ、七生までの|仇《かたき》ぞと思うている武蔵と逃げた女子じゃぞよ」 「…………」 「|許嫁《いいなずけ》であった|汝《わ》が身を捨てて、汝が身とは、家名の|仇《あだ》の武蔵へ身をも心をもまかせている犬畜生のようなあのお通に、|汝《わ》れは、手をついて謝る所存か。……謝る所存かよ! これっ——」  又八の襟がみを|諸《もろ》|手《て》につかんで、婆は振りうごかすのであった。  又八は、首をがくがく動かしながら、眼を閉じて、母の|叱言《こごと》を甘受していた。閉じている眼からは涙がとまらなかった。  婆は、いよいよ歯がゆそうに、 「なにを泣くのじゃ。泣くほど犬畜生に未練があるのかっ。——ええ、もうおぬしという子はいのう!」  力まかせに、わが子を大地へ突き仆した。そして自分も|諸《もろ》|仆《だお》れに腰をついて、一緒になって泣き出した。      四 「これ」  厳しい母に返って、お杉は大地に坐り直した。 「今が、|汝《わ》が身にとっても、|性根《しょうね》のすえ時。——この婆とても、もう十年二十年先までは寿命も知れぬ。こういう声も、わしが死んでしもうた後は、二度と聞きたいと思うても聞けはせぬぞ」  ——分りきったことを——というように、又八は横を向いたままなのである。  お杉は、わが子の機嫌を損じてもならないと、心の隅ではまた、気がねするように、 「のう、これ。お通ばかりが|女《おな》|子《ご》ではなし、あのような者に未練をのこしゃるな。もしこの先、おぬしが、ほしいと望む女子があれば、この婆がその女子の家へお百度踏んで通うても——いやわしが|生命《いのち》を|結《ゆい》|納《のう》に進上しても、きっと貰うてやりまするがの」 「…………」 「——だがの、お通だけは、金輪際、本位田家の面目として、持たすことは相成らぬ。おぬしが、なんといおうが、まかりならぬ」 「…………」 「もし、飽くまでおぬしがお通と添う気なら、この婆が首打ってそれからどうなとしやるがよい。わしの生きているうちは——」 「おばば!」  突っかかって来たわが子の|権《けん》まくにお杉はまた、膝に角を立てて、 「なんじゃ、そのいいざまは」 「じゃあ訊くが……いったいおれの女房にする女は、おばばが持つのか、おれが持つのか」 「知れたことをいやる、わが身のもつ妻でのうてなんとする」 「……な、ならば、お、おれが選ぶのが、あたりまえじゃないか。それを」 「まだそのように聞きわけのないことばかり……。|汝《わ》が身はいったい|幾歳《いくつ》になるのか」 「だって……い、いくら親だってあんまりだっ、勝手すぎる」  この息子とこの母親とは、どっちも余り隔てを知らないために、ややともすると感情と感情ばかりが先に立って、感情を出した後から言語が出るという始末だった。そのためにかえって、お互いが理解をはぐらかし、すぐ|角《つの》突きあいになるくせがあった。それはたまたまの場合だけではなく、家庭にあったむかしから、そういう家風であったが、まだ習性となっているのだった。 「勝手とはなんじゃ、|汝《わ》が身はそもそも、たれの子か、たれの腹から、この世には生れて来たか」 「そんなこといったってむりだ。おばば……おれはどうしても、お通と添いたい。——お通が好きなんだっ」  さすがに、青ざめている母の顔へ向ってはいえずに、又八は、空へ向いてうめいた。  お杉の尖っている肩のほねが鳴るようにふるえ出した、——と思うと、やにわに、 「又八、本性か」  と、いって、いきなり自分の脇差を抜いて|喉《のど》へ突きたてようとした。 「あッ、おばばなにするっ——」 「ええもう、止めだてしやるな。それよりはなぜ、|介錯《かいしゃく》するといわぬか」 「ば、ばかなことを。……おばばが死ぬのを、おれが……子が見ていられるか」 「では、お通をあきらめて、性根を持ち直してたもるか」 「じゃあ、おばばは一体、なんのために、お通をこんなところへ連れて来たのだ。おれにお通のすがたを見せびらかすのだ。——おれには、おばばのその肚がわからぬ」 「わしの手で殺すは易いことじゃが、元々、|汝《わ》が身を裏切った不貞な女、汝が身の手で成敗させてやりたいと思う親ごころのそれも一つ、有難いとはなぜ思わぬか」      五 「それじゃあ、おばばは、おれの手でお通を斬れというのか」 「……嫌か!」  鬼のことばのようである。  又八は、自分の母の中に、こんな声を出す性質があったろうかと疑った。 「嫌なら嫌といえ。|猶《ゆう》|予《よ》はならぬことじゃ」 「だ……だって、おばば」 「まだ未練をいいおるか。エエ、もうおのれのような奴、子でない、母でない! ……。女の首は斬れまいが、母の首なら斬れるであろう。|介錯《かいしゃく》しやい」  元より|脅《おど》しに違いないが、脇差を取り直して、婆は自害のていを見せた。  子のわがままもずいぶん親をてこずらすが、親の駄々も随分子どもをてこずらす場合がある。  お杉のもその一例に過ぎないが、この年寄は|下手《へた》をすると、ほんとにやりかねまじき|血《けっ》|相《そう》なのだ。息子の眼から見ても、ただの仕ぐさ[#「ぐさ」に傍点]とは見えないのである。  又八はふるえ上がって、 「おばば! ……そ、そんな短気なことをしなくっても。……いいよ、わかった、おれは|諦《あきら》める」 「それだけか」 「|成《せい》|敗《ばい》してみせる。おれの手で……おれの手でお通を」 「|殺《や》るかよ?」 「ム。|殺《や》ってみせる」  婆は、うれし泣きに泣いて、脇差を捨てた手で、子の手を押しいただいた。 「よういやった、それでこそ本位田家の世継ぎ息子、あっぱれ者と御先祖さまも仰っしゃろう」 「……そうかなあ?」 「討って来い。お通は、すぐこの下の|塵《ちり》|間《ま》|塚《づか》の前に待たせてある」 「ウム……今行くよ」 「お通を首にして、添状付けて、先に七宝寺へ送りとどけてやろうぞ。村の者のうわさだけでも、わしらの面目が半分は立つ。——さて次には武蔵めじゃが、これも、お通を討たれたと聞けば、意地でもわしら|母子《おやこ》の前へ出て来るじゃろう。……又八、はよう行って来い」 「おばばは、ここで待っているか」 「いや、わしも|尾《つ》いて行くが、わしが姿を見せると、それでは話がちがうのなんのと、お通めがわめいてうるさかろう。わしは少し離れた物蔭から見ております」 「……女ひとりだ」  よろりと又八は立って—— 「おばば、きっとお通は首にして来るから、ここで待っていたらいいじゃないか。……女ひとりだ、大丈夫、逃がしゃあしない」 「でも、油断をしやるなよ、あれでも刃物を見れば、相当に|手抗《てむか》いはするぞ」 「いいよ……なにくそ」  自分をこう|叱《しっ》|咤《た》しながら、又八は歩きだした。不安そうにお杉婆もその後に|尾《つ》いて、 「よいか、油断するなよ」 「なんだおばば、尾いて来るのか。待っていろ」 「よいわ、|塵《ちり》|間《ま》|塚《づか》は、まだその下——」 「いいといったら!」  又八は、|癇《かん》を破って、 「二人でゆくくらいなら、おばば一人で行って来い。おれはここで待っている」 「なにを渋っていやるのじゃ、おぬしはまだ本心からお通を斬る気になっておらぬの」 「……あれだって人間だ、猫の子を斬るような気持じゃ斬れない」 「無理もない……たといどのように不貞の女でも、元はおぬしの|許嫁《いいなずけ》であったげな。……よいわ、ばばはここにいましょう、おぬし一人で行って見事にして来やれ」  又八は返辞もせず、腕ぐみをしたまま、ゆるい崖の道を降りて行った。      六  さっきからお通は、塵間塚のまえに|佇《たたず》んでお杉婆の来るのを待っていた。 (いっそ、こんな時に)  と逃げる隙を考えないでもなかったが、それでは|二十日《はつか》あまり|怺《こら》えてきた忍苦がなんの意味もなさなくなってしまう。 (もう少しの辛抱)  お通は、武蔵を思い、城太郎のことを考え——そしてぼんやり星を見ていた。  武蔵を胸に描いていると、彼女の胸には無数の星が輝いた。 (今に。今に……)  夢みるように、|将来《ゆくすえ》の希望をかぞえてみる。また国境の山でいった彼のことばを——花田橋のたもとでいった彼の誓いを——胸のうちで繰返してみるのだった。  たとい年月が経っても、それを裏切る武蔵ではないことを、彼女はかたく信じていた。  ——ただ|朱《あけ》|実《み》という女性を思いうかべると、ふと厭な気持がして、希望に暗いかげを|映《さ》してくるが、それとても、武蔵に対する強固な信頼にくらべれば物の数でもない、不安というほどな憂いでもない。 (花田橋で別れたきり、会えもしない、話せもしない……。それでも自分はなにかしら楽しい。|沢《たく》|庵《あん》さんは可哀そうなというけれど、こんな幸福でいるわたしが、どうして沢庵さんの眼には、不幸に見えるのかしら……)  針のむしろに坐って針の目を運んでいる間も——待ちたくない人を待って暗い淋しい中に佇んでいる間も——彼女はひとりで楽しむことに楽しんでいるのだった。そして他人には空虚に見える時が、いちばん彼女の生命の充実している時だった。 「……お通」  婆の声ではない。——誰かこう暗がりから呼ぶ者があった。お通はわれに返ったように、 「……え。どなたです」 「おれだよ」 「おれとは」 「本位田又八だ」 「えっ?」  |跳《と》び|退《の》いて—— 「又八さんですって」 「もう声まで忘れたかい」 「ほんに……ほんに又八さんの声ですね。婆様に会いましたか」 「お婆は、|彼方《むこう》に待たせておいた。……お通、おまえは変らないなあ。七宝寺にいた時分と——ちっとも変っていない」 「又八さん、あなたはどこにいるんですか。暗くてあなたの姿はわかりません」 「そばへ行ってもいいかい。……おれは面目ない気がして、|先刻《さ っ き》からここへ来ていたが、しばらく後ろの闇にかくれて、おまえの姿を見ていたんだ。……おまえはそこで今、なにを考えていたのか」 「べつに……なにも」 「おれのことを考えていてくれたのじゃないのか。おれは一日だって、おまえのことを思い出さない日はなかったぜ」  そろそろ歩み寄って来る又八の姿がお通の眼に映った。お通は婆がいてくれないので、不安に襲われた。 「又八さん、お婆様から、なにか話を聞きましたか」 「ア、今この上で」 「じゃあ、私のことを」 「うむ」  お通は、ほっとした。  かねて婆も約束してくれた通りに、自分の意思は、婆の口から又八へ通じてくれたものと思った。そして又八はその承諾を与えてくれるために、ここへ一人で来たのであろうと解釈していた。 「婆様からお聞きならば、私の気持はもう分ってくれたはずですが、私からもお願いいたします、又八さん、どうぞ以前のことは、縁のなかったものと思って、今夜かぎり忘れてくださいましね」      七  |老母《はは》とお通との間に、どんな約束が交わされていたのだろうか。元よりお婆のいい加減な子ども|騙《だま》しには違いない。そう考えられるので又八は、お通が今いったことばにも、 「いや、まあ、お待ち」  顔を先に振って、そのことばの底にある彼女の意思を問おうとしなかった。 「——以前のことなんかいわれると、おれは辛い。まったくおれが悪いのだ。今さら、おまえにあわせる顔もない次第で——おまえのいう通り、これが忘れられるものならば、忘れてしまいたいと山々思う。だが思うだけで、なんの因果か、おれはおまえを|諦《あきら》めきれない」  お通は、当惑して、 「又八さん、二人の心と心のあいだには、もう通うもののない深い谷間ができました」 「その谷間に、五年の年月が流れて行ったのだ」 「そうです、年月が返らぬように、私たちのむかしの心も、もう呼びもどすことは出来ません」 「で、できないことはないよ! お通、お通っ」 「いいえ。——できません」  お通のそういう|冷《ひや》やかな語尾と顔いろに驚いて、今さらのように眸をすえてしまう又八であった。  情熱が表にあらわれる時は、|真《しん》|紅《く》の花と太陽の狂いあう夏の日を思わせるような性質のあるお通の一面に——こんな冷やかな——まるで白い|蝋《ろう》|石《せき》を撫でるような感じのする——そして指を触れれば切れそうな厳しい性格が、どこに|潜《ひそ》んでいただろうか。  そういう冷たい|面《おもて》の彼女を見ていると、又八の頭にはふと、七宝寺の縁側が思い出された。  ——あの山寺の縁側で、なにか考えごとをしながら、うるみのある眼で、半日でも一日でも、空を見て黙っている時の孤児のすがたを。  母も雲——父も雲——|兄弟《はらから》も友達も雲よりしかないと思っているような——孤児の|生《お》い|立《た》ちの中に、いつのまにか、|育《はぐ》くまれていた、この冷たさに違いない。——又八はそう思った。  そう考えたので、彼は彼女のそばへそっと寄って、|棘《とげ》のある|白《しろ》|薔《ば》|薇《ら》へ|触《さわ》るように、 「……やり直そう」  頬へささやいた。 「……ね、お通。——返らない年月を呼んでみたって始まらないじゃないか。これから二人して、やり直そう」 「又八さん、あなたはどこまで考え違いをしているのですか。私のいっているのは、年月のことではありません、心のことです」 「だからさ、その心を、おれはこれから持ち直すよ。自分でいいわけしても変だけれど、おれがやった|過《あやま》ちぐらいは、若いうちは誰にだってあり勝ちな話じゃないか」 「どう仰っしゃっても、私の心はもうあなたの言葉を本気で聞こうといたしません」 「……わるかッたよ! こんなに男が謝っているのじゃないか……え、お通」 「およしなさい、又八さん、貴方もこれから男のなかへ生きてゆく男でしょう。こんなことに……」 「でも、おれには、生涯の重大事だ。手をつけというなら手をつく。おまえが、誓いを立てろというなら、どんな誓いでもきっと立てる」 「知りません!」 「そう……怒らないでさあ……ね、お通、ここじゃあ、しんみり話ができないから、どこか、ほかへ行こう」 「嫌です」 「おばばが来るとまずい。……早く行こう。おれには、とてもおまえを殺せない。どうして、おまえを殺せるものか」  手を取ると、その手は、又八の指をつよく振り切って、 「嫌ですッ。殺されても、あなたと一つの道を歩くのは嫌ですっ」      八 「嫌だと?」 「ええ」 「どうしても」 「ええ」 「お通、それではおまえは、今まで武蔵を思っていたのだな」 「お慕いしています——二世まで誓うお人はあのお方と心に決めて」 「ウウム……」  又八は身をふるわして、 「いったな、お通」 「そのことは、婆様の耳へも入れてあります。そして、婆様からあなたに告げ、この際、はっきりと話をつけた方がよいと仰っしゃるので、こういう折を今日まで待っていたのです」 「わかった……おれに会ってそういえと——それも武蔵の指図だろう。いいやそうに違いねえ」 「いいえ、いいえ。自分の生涯を決めること、武蔵様のお指図はうけません」 「おれも意地だ。——お通、男には意地があるぞ。てめえがそういう量見ならば……」 「なにするんですッ」 「おれも男だっ。おれの生涯を賭けても、武蔵と添わせてたまるものか。——許さぬっ! たれが許す!」 「許すの、許さぬのと、それは誰に向ってなんのことを仰っしゃるのですか」 「てめえにだ! また武蔵にだ! お通、貴様は武蔵と|許嫁《いいなずけ》ではなかったはずだぞ」 「そうです……、けれども、あなたがそう仰っしゃる筋はございますまい」 「いや、ある! お通というものは、もともと本位田又八の許嫁だ。又八がうんといわねえうちは、誰の妻になることも出来ないはずだ。ましてや……武……武蔵づれに!」 「卑怯です、未練です、今さらそんなことがよういえたもの。私はあなたとお甲という人との二人名前で、ずっと前に、縁切状をいただいてありました」 「知らないっ、そんな物をおれは出した覚えがない。お甲が勝手に出したのだろう」 「いいえ、その状には貴方が立派にない縁とあきらめて、他家へ|嫁《かたづ》いてくれと書いてありました」 「み、見せろ、それを」 「沢庵さんが見て、笑いながら鼻をかんで捨ててしまいました」 「証拠のないことをいっても世間へは通るまい。おれとお通とが許嫁だということは、|故郷《くに》へ行けば知らない者はない。こっちには幾らでも証人が立てられるが、そっちには証拠のない話だ。……なあお通、世間を狭くしてまで、無理に武蔵と添ってみたって、|倖《しあわ》せに暮せるはずはないぜ。おまえは、お甲のことをまだ疑っているかも知れねえが、あんな女とは、もうきれいに手を切っているのだ」 「伺ってもむだなこと、そんな話、お通の存じたことではありません」 「……じゃあこれ程に、おれが頭を下げても」 「又八さん、あなたは今、おれも男だと仰っしゃったではありませんか。恥を知らない男などへ、どうして女の心がうごきましょう。女の求めている男は、|女々《めめ》しくない男です」 「なんだと」 「お離しなさい、|袂《たもと》が切れますから」 「ち、ちくしょうっ」 「どうするんですっ——なにをなさるのです」 「もう……これまでいっても分らねえなら、破れかぶれだ」 「えっ……」 「|生命《いのち》が惜しいと思ったら、武蔵のことなど思いませんと、ここで誓え、さあ誓え」  袂を離したのは、刀を抜くためであった。|刃《やいば》を手に抜くと、刃が人間を持ったように、又八の人相はまるで変ってしまった。      九  刃物を持った人間はそう|怖《こわ》いものではないが——しかし、刃物に持たれている人間は怖い。  お通がとたんに、  ひいっ——と声をあげたのも、刃物の先よりも、又八の顔にあらわれたその|恐《こわ》さだった。 「よくも。——この|阿女《あま》」  又八の刀は、お通の帯の結び目をかすめていた。 (逃がしては)  と、|焦心《あせ》って来て、又八は、 「おばば、おばばっ」  と、お通を追いかけながら、一方へは呼び立てる。  声が届いたとみえる、お杉婆は|彼方《あなた》で、 「おう」  といった。  跫音を目あてに走って来ながら婆は、 「仕損じたか」  自分も小脇差を抜いて、うろうろ|慌《あわ》てまわる。  又八が|彼方《あなた》から、 「そっちだ、おばば、捕まえろっ」  呶鳴りながら駈けて来るのを見て、婆は眼を皿のようにし、 「ど、どこへ」  と、道を|塞《ふさ》いでいた。  しかし、お通の影は見えないで、又八のからだが|打《ぶ》つかるように眼の前へ来た。 「|斬《や》ったかよ」 「逃がした」 「阿呆っ」 「——下だ。あれがそうだ」  崖へ臨んで駈け降りていたお通は、崖の下の樹の枝に|袂《たもと》をとられて|もが[#「もが」は「足偏」+「宛」Unicode=8e20]《もが》いていた。  滝つぼに近いところとみえ、水音が闇を走ってゆく。足もとなどは見ようともしないのだ。お通は|綻《ほころ》びた袂をかかえ、転ぶようにまた駈け出した。  |母子《おやこ》の跫音はすぐ迫って来た。婆の声で、 「しめたぞよ」  というのが耳の後ろから聞える。お通はもう逃げても無駄な気がしてしまった。それに、前も横も壁で囲まれているように暗いそこは崖の低地でもある。 「又八っ、はよう斬れ。——それ、お通めが倒れくさったぞ」  婆に叱咤されて、今は完全に刃物に躍らされている人間の又八は、|豹《ひょう》のように前へ跳んで、 「——畜生っ」  と、|萱《かや》の枯れ穂や|灌《かん》|木《ぼく》の間へ|転《まろ》びこんだお通を目がけて、刀を振りおろした。  木の枝の折れる響きがしたと思うと、その下から——きゃっと、生きたものの絶命と血しおが|刎《は》ねあがった。 「この|阿女《あま》、この阿女」  三太刀、四太刀、まるで血に酔ったように眼をつりあげた又八は、灌木の枝や萱の穂もろとも、刀も折れよとばかり、幾度もそこを|撲《なぐ》りつづけた。 「…………」  撲りくたびれると、又八は血刀をさげたまま、茫然と、血の酔いから醒めかけた。  ——|掌《て》を見ると掌にも血。——顔を撫でると顔にも血。|温《ぬる》い、|粘《ねば》りのある液体が、|燐《りん》のように体じゅうへ|刎《は》ねているのである。  その一滴一滴が、お通の|生命《いのち》の分解されたものかと思うと、彼はふらふらと|眩《めま》いを感じ、見る|間《ま》に、顔が青ざめてきた。 「……ふ、ふ、ふ。……|伜《せがれ》よ、とうとう斬りおったのう」  お杉婆は、茫然としている息子の後ろから、そっと顔を突き出して、滅茶滅茶に|薙《な》ぎ伏せられている灌木と草むらの底をじっと見入った。 「よい気味! ……もうびく[#「びく」に傍点]ともせぬわ。——|出《で》|来《か》したぞよ伜。やれやれこれで胸のつかえが半分はさがったというもの。|故郷《くに》の衆へ幾分か面目が立つわいのう。……又八、これ、どうしたぞよ。はよう首を斬れ、お通の首を揚げい」      十 「ホ、ホ、ホ」  婆は、息子の小胆をわらいながら、 「——意気地ないやつ。人間ひとり斬ったくらいで、肩で息をつくようなことでどうするぞ。|汝《わ》が身に首が掻けぬなら、婆が首を揚げてくれる。——そこを|退《ど》きゃい」  前へ出ようとすると、自失したように棒立ちになっていた又八の手が、握っている刀の|柄頭《つかがしら》で、いきなり|老母《はは》の肩をどんと突いた。 「——わっ、な、なにしやる」  あぶなく、婆も底のわからない灌木の中へ腰をつこうとしたが、|辛《から》くも足元を支え止めた。 「又八、|汝《わ》が身は、気でもちごうたのか。|老母《はは》に向って——なんたることをしやる」 「おふくろ!」 「……なんじゃア?」 「…………」  異様な声を、鼻と|喉《のど》の境に呑みころしながら、又八は、血のついている手の甲で眼をこすった。 「……おら……おらあ……お通を斬った! お通を斬った」 「|賞《ほ》めてやっているではないかよ。——それをなんで|汝《わ》が身は|哭《な》くか」 「哭かずにいられるかっ。……馬鹿、馬鹿っ、馬鹿婆アめ!」 「かなしいのか」 「あたりまえだ! おばばのようなくたばり|損《そこな》いが生きていなければ、おれは、どんなことをしても、もいちど、お通の気持を取りもどして見せたんだ。くそっ、家名がなんだ、|故郷《くに》の奴らへの面目がなんだ。……だが、もう駄目だ……」 「知れた愚痴をいやる。それほど未練があるのなら、なぜ婆の首を打って、お通を助けなかったのじゃ」 「それが出来るくらいなら、おれは|哭《な》いたり愚痴をいったりしやしねえ。世の中に、分らずやの|老《とし》よりを持ったくらい、不倖せなことはねえ」 「よしたがよい、なんのざまじゃ、それは……。折角、|出《で》|来《か》しおったと|賞《ほ》めているのに」 「勝手にしろ。……おれはもう一生涯、やりたい放題のことをやって、出たら目に送ってやるぞ」 「それが|汝《わ》が身の悪い|気質《たち》じゃ。たんと駄々をいうて、この|年《とし》|老《と》った母を困らせるがよいわ」 「困らしてやるとも、くそったれ婆め、鬼婆め!」 「オオ、オオ。なんとでもいうがよいわい。さあさあ、そこを|退《の》きなされ。今、お通の首を掻き切って、それからとっくりと話して進ぜる」 「た、たれが、薄情婆の談義などを聞くかっ」 「そうでない、胴を離れたお通の首を見てからじっと考えてみるがよいわさ。|美貌《きれい》がなんじゃあ……美しい|女《おな》|子《ご》も死ねば白骨……|色《しき》|即《そく》|是《ぜ》|空《くう》を目に見せて進ぜよう」 「うるせえッ、うるせえッ」  又八は、狂わしげに、強くかぶりを振って、 「……アーア。考えてみると、おれの望みはやっぱりお通だった。時々、これじゃいけないと思って、なにか立身の|途《みち》を捜そう、なにか一つ励みを出そうと、真面目な奮発が起るのも、その時には、お通と添うことを考えているからだった。——家名でもねえし、こんなくそ婆アのためでもねえ。——お通が望みにあったればこそ」 「よしないことをいつまで嘆いておじゃるぞ。その口で念仏でもいうてやったがまだましじゃぞ。……なむあみだぶつ」  いつの間にか、婆は又八の前へ出て、血を|撒《ま》き散らしたような灌木や枯草を掻き分けていた。  ……その底に、黒い仏体が|俯《う》つ伏している。  婆は、草や枝を折り敷いて、いんぎんにその前へ坐った。 「……お通、わしを恨むな、仏となれば、わしもそなたに恨みはない、すべては約束ごと。|頓証菩提《とんしょうぼだい》」  手で探り寄りながら——探り当てた黒髪らしいものをぎゅっとつかんだ。 「——お通さん!」  その時、音羽の滝のうえの辺りで、こう誰か呼んだ声が、樹の声か、星の声かのように、暗い風の中をまわって、この低地へも聞えて来た。     |鍬《くわ》      一  どう巡りあわせて、こんな所へ、|宗彭沢庵《しゅうほうたくあん》が今頃やって来たわけか。  元より、偶然であろうはずはないが、いかにも唐突に似て、いつも自然である彼の姿が、今夜ばかりは不自然に思える。まずその|事情《わけ》がらを先に|糺《ただ》してみたいが、今はその由来因縁を彼に問うている|遑《いとま》もなさそうなのである。  ——なにしろ、あの|何時《いつ》も、のほほん[#「のほほん」に傍点]の沢庵坊にしては、めずらしいほど|慌《あわ》てていて、 「おオい、どうじゃい、宿屋さん、見つかったかい?」  彼とは、べつな方角を捜しまわって来た|旅籠《はたご》の手代が、彼の方へ駈けて来て、 「見当りませんよ、どこにも——」  と、あぐねたようにいって|額《ひたい》の汗を拭く。 「変だね」 「おかしゅうございますな」 「おまえの聞き違いじゃないのか」 「いいえ、確かに、夕方清水堂のお使いが見えてから、急に、|地《じ》|主《しゅ》|権《ごん》|現《げん》まで行ってくると仰っしゃって、手前どもの|提燈《ちょうちん》をお持ちになったのですから——」 「その地主権現というのが、おかしいじゃないか。この夜中に、なにしに行ったのだい」 「どなたか|其処《そこ》で待ち合っていらっしゃるようなお話でしたが」 「ならばまだいそうなものだが……」 「誰もいませんな」 「さあて?」  沢庵が、腕を|拱《く》むと旅籠の手代も共に頭をかかえて、独り言に、 「子安堂のそばの|燈明番《とうみょうばん》に聞いたら、あのご隠居と若い|女《おな》|子《ご》が、提燈を持って、登って行くすがたは見たといいましたね。……それから三年坂のほうへ降りたという者も誰もいないし」 「だから、心配になるんだよ。ひょっとすると、もっと山の奥か、もっと道のないような場所かも知れぬ」 「なぜでございます」 「どうやら、お通さんは、おばばのうまい口に乗せられて、いよいよ、あの世の門口まで、|攫《さら》われて行ったらしい……アア、こうしている間も心配になる」 「あのご隠居は、そんな恐ろしいお方ですか」 「なあに、いい人間だよ」 「でも、あなたのお話を伺うと……思い当ることがございますんで」 「どんなこと」 「きょうも、お通さんと仰っしゃる|女《おな》|子《ご》が、泣いておりました」 「あれはまた、泣虫でな、泣虫のお通さんというくらいなんだよ。……だが、この正月の|一日《ついたち》から側に引き寄せられていたといえば、だいぶチクチク|虐《いじ》められたろうな。かあいそうに」 「息子の嫁じゃ嫁じゃと仰っしゃっておいででしたから、お|姑《しゅうと》なれば、仕方がないと思っていましたが、……じゃあなにか恨み事があって、一寸だめし|五《ご》|分《ぶ》|試《だめ》しに|虐《いじ》めていたわけでございますね」 「さだめしお婆はたんのうしたろうが、|夜《や》|陰《いん》、山の中へ連れ込んだところを見ると、最後の思いをはらそうというつもりだろう。|恐《こわ》いのう女は」 「あの隠居様などは、女の部類へははいりませんよ。ほかの|女《おな》|子《ご》たちが大迷惑をしまさあ」 「そうではないな、どんな女たちにも、ちょっぴりずつはあるものらしい。お婆のは、それがつよいだけだ」 「お坊さんだから、やはり女子はきらいとみえますな、そのくせ|先刻《さ っ き》は、あの隠居様のことを、いい人間だといったりしたが」 「いい人間であることにまちがいはないのだよ。あのおばばでも、清水堂へ日参するというじゃあないか。観音さまへ|数《ず》|珠《ず》をさげている間は、観音さまに近いおばばになっているわけだからの」 「よくお念仏もいっておりますぜ」 「そうだろう、そういう信仰家という者は世間にたくさんあるものだよ。外では悪いことをしてきながら、家へはいるとすぐお念仏。眼では悪魔のすることを捜しながら、お寺へ来ればすぐお念仏。人を撲っても、後でお念仏さえいえば、|罪障《ざいしょう》消滅、極楽往生、うたがいなしと信じている信心家だ。こまるね、ああいうのは」  といって、沢庵はまたすぐ、そこらの闇をあるき出して、滝つぼのある山の沢へ、 「おーいっ、お通さあん」      二  又八は、ギョッとして、 「やっ? おばば!」  と、注意した。  お杉も、気づいていた。鏡のような眼を宙へ上げて、 「なんじゃろ? あの声は」  と、つぶやいた。  しかし、つかんでいる死骸の黒髪と——その死骸から首を斬り離そうとして持っている脇差は、びくとも手からゆるめていない。 「お通の名を呼んだようだぞ。オオ、また呼んでいる」 「いぶかしいことよの。——ここへお通をさがしに来る者があるとすれば、城太郎小僧よりほかにないが」 「|大人《おとな》の声だ……」 「どこかで聞いたような」 「あっ、いけねえ! ……おばば、もう首など斬って持ってゆくのは止せ。|提燈《ちょうちん》を持って、誰かこっちへ降りてくる」 「なに、降りてくると」 「二人づれだ。見つかるといけない、おばば、おばば!」  危急を感じると、|啀《いが》み合っていたこの|母子《おやこ》は、忽ち一体となって、又八は|急《せか》|々《せか》と、|老母《はは》の落着いているのを案じた。 「ええ、待ったがいい」  と、婆は、死骸の魅力にひきつけられていた。 「ここまでして、かんじんな|首級《しるし》を取らずに行ってよいものか。なにを証拠に、|故郷《くに》の衆へ、お通を成敗したと証拠だてることができよう。……待て、今わしが」 「あ」  又八は、眼をおおった。  お杉は木の小枝を膝で踏み敷いて、死骸の首へ|刃《やいば》を当てようとするのだった。又八には、見ていられなかった。  ——と、突然、婆の口から意味のわからない言葉が走った。よほど驚いたものらしかった。持ち上げていた死骸の首を手から離して、後ろへ|蹌《よろ》めくと共に腰をついて、 「ちごうた! ちごうた!」  手を振って、|起《た》とうとするのであったが、起てないのである。  又八も、顔を寄せて、 「何が? 何が?」  と、|吃《ども》った。 「これを見い」 「え」 「お通ではないわ! この死骸は乞食か、病人か、男であろが」 「あっ、牢人者だ」  じっと、死骸の横顔や|風《ふう》|体《てい》をながめて、又八はなおさら驚きを加えた。 「変だな、この人間をおれは知っているが」 「なんじゃ、|知《しり》|人《びと》じゃと」 「赤壁|八《や》|十《そ》|馬《ま》といって、おれはこいつに|騙《だま》されて、|持《もち》|金《がね》を巻き上げられたことがある。生き馬の眼を抜くようなあの八十馬が、どうしてこんなところにへたばっていたのだろうか」  これはいくら考えてみても、又八には考え当らないはずである。ここから程近い小松谷の|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》堂に住んでいる虚無僧の青木丹左衛門がいるか、でなければ、八十馬の毒牙にかかろうとして救われたことのある|朱《あけ》|実《み》でもおればだが——|他《ほか》にその説明をする者としては、宇宙あるのみであるが、こんな成れの果てを見るに至った虫けら同様な人間一個の解説を求めるには、宇宙は余りに大き過ぎて、また|森《しん》|厳《げん》であり過ぎる。 「——誰だっ。お通さんじゃないのか、そこにいるのは」  突然、二人の後ろへ、|沢《たく》|庵《あん》|坊《ぼう》の声と|提燈《あかり》の影がさした。 「——あッ」  逃げるだんになれば、又八の若い跳躍は、当然、お杉が腰をあげてから走るよりも遥かに|迅《はや》かった。  沢庵は、駈け寄りざま、 「おばばだな」  むずと、|襟《えり》がみをつかんだ。      三 「そこへ、逃げてゆくのは又八ではないかっ。——これっ、|老母《はは》をおいて、どこへ行くぞっ、卑怯者、不孝者、待たんかっ」  お杉の襟首を|捻《ね》じ抑えながら、沢庵は闇へ向って、なおこういっていた。  婆は、沢庵の膝の下に苦しげにもがきながら、 「たれじゃ、|何奴《どやつ》じゃ」  と、なお虚勢を失わない。  又八が引っ返してくる様子もないので、沢庵は手をゆるめて、 「わからぬか、おばば。やはりおぬしもどこか|耄《もう》|碌《ろく》したのう」 「オーッ、沢庵坊主じゃの」 「おどろいたか」 「なんの!」  |猛《たけ》|々《だけ》しく婆は|白髪《しらが》の光る首を横に振ってさけんだ。 「どこ暗くのう世間をうろついている物乞い坊主、今はこの京都に流れておじゃったか」 「そうそう」  沢庵はにこりと|酬《むく》いて、 「ばばのいう通り、さきごろまでは|柳生《やぎゅう》谷や泉州の辺りをうろついていたが、ついゆうべ、ぶらりと都へやって来てな、さるお方のお|館《やかた》で、ちらと|腑《ふ》に落ちぬ沙汰を耳にしたので、これはいかん——捨ておけぬ大事と思い、|黄昏《たそがれ》からおぬし達を捜しあるいていたのじゃよ」 「何の用で?」 「お通にも会おうと思って」 「ふーム」 「おばば」 「なにかや」 「お通はどこへ行った」 「知らん」 「知らんことはあるまい」 「このおばばは、お通に|紐《ひも》をつけて歩いてはおりませぬぞよ」  |提燈《ちょうちん》を持って後ろに立っている|旅籠《はたご》の手代が、 「……ヤ。お坊さま、血がこぼれております、生々しい血しおが」  明りへ|俯向《うつむ》いた沢庵の顔が、さすがに少し|硬《こわ》ばってみえた。  ——隙を見て、お杉婆は突然起ちあがって逃げだした。  振向いて、沢庵はそのまま、 「待たっしゃれ! おばば! おぬしは家名の泥をすすぐとて|故郷《くに》を出て、家名に泥をなすって帰るのかっ。子が可愛ゆうて家を出ながら、その子を不幸にして戻るのかっ」  実に大きな声なのだ。  沢庵の口から出ているようには聞えないのである。宇宙が呶鳴ったようにそれは婆の全身をつつんで聞えた。  ぎくと、婆は足をとめた。顔の|皺《しわ》がみな負けん気を顔に描いて、 「なんじゃと、わしが家名に泥のうわ塗りをし、又八をよけいに不幸にするとおいいやるか」 「そうだ」 「阿呆な」  せせら笑って——しかしなにをいわれたよりも真剣になって、 「|布《ふ》|施《せ》|飯《めし》くうて他人の寺に宿借して、野に|糞《くそ》してばかり歩く人間に、家名じゃとか、子の愛じゃとかいう、世間のほんとの苦しみがわかって|堪《たま》るものかいの。人なみな口をたたくなら、人なみに働いて食う米を食わッしゃれ」 「痛いことをいう。そういってやりたい坊主も世間にはあるから、わしにも少し痛い。七宝寺にいた頃から、口ではおばばに|敵《かな》わないと思っていたが、相変らずその口が達者だのう」 「オオさ、まだまだこの婆にはこの世に大望がある、達者は口ばかりと思うてか」 「まあいい。——済んだことは仕方がないとして話そうじゃないか」 「なにを」 「おばば、おぬしはここで、又八にお通を斬らしたな。|母子《おやこ》でお通を|殺《あや》めたであろうが」  そういうだろうと待っていたように、婆はとたんに首を突き伸ばして笑った。 「沢庵坊、提燈持ってあるいても、眼を持って歩かにゃ世の中は暗やみじゃぞ。おぬしの眼は、飾り物か、ふし穴か」      四  この婆に|翻《ほん》|弄《ろう》されることには、沢庵もどうしようがないらしい。  無智はいつでも、有智よりも優越する。相手の知識を、|恬《てん》として無視し去ってしまう場合に、無智が絶対につよい。|生《なま》|半《はん》|可《か》な有智は誇る無智へ向って、|施《ほどこ》すに|術《すべ》がないという恰好になってしまう。  ふし穴か、飾り物かと、婆に|罵《ののし》られた眼をもって、沢庵がその場をよくよく|検《あらた》めると、なるほど、死骸はお通ではなかった。  で——ほっとした顔を彼がするとすぐ、 「沢庵坊、ほっとしたであろうが。おぬしは、そもそも、武蔵とお通とをくッつけた不義の|媒人《なこうど》じゃほどにの」  と、多分に遺恨をふくんだ口ぶりでいう。  沢庵は、逆らわずに、 「そう考えているなら、そうしておくもよい。——だがおばば、おぬしの信心ぶかいことをわしは知っているが、この死骸をすててゆく法はあるまい」 「死に|損《そこ》のうていた行き仆れ、斬ったは又八じゃが、又八のせいじゃない。|抛《ほ》っておいても死ぬ人間であったじゃろ」  すると|旅籠《はたご》の手代が、 「そういえば、この牢人者は、すこし|頭脳《あたま》もおかしいようなあんばいで、先頃から|涎《よだれ》を垂らして町をふらふらしておりましてな、なにかでひどく打たれたような|大《おお》|疵《きず》を頭のてっぺんに持っておりましたよ」  と話す。  そんなことは、どうでもいいように、婆はもう先へ歩いて道を捜していた。沢庵は、死骸の始末を旅籠の手代にたのんで、婆の後から|尾《つ》いて行く。  気になるとみえ、婆は振り|顧《かえ》って、また毒口でも放ちたいような顔をしたが、 「——おばば、おばば」  |樹《こ》|蔭《かげ》から小声でよぶ者の影を見て、|欣《うれ》しそうにそこへ走り寄った。  又八だった。  さすがに子である、逃げたのかと思っていたら、やはり|老母《はは》の身を案じて様子を見ていたのかと、婆はたまらないほど、わが子の気持を欣しく買う。  沢庵の影を振向いて、|母子《おやこ》は何かささやき合っていたが、やはり沢庵のどこかを恐れるもののように、二人は急に足を早め出し、|麓《ふもと》のほうへ行くほど|迅《はや》く走っていた。 「だめだ……あの様子では、まだなにをいって聞かせても受けつけまい。世の中から、思い違いというものだけ除いたら、ずいぶん人間の苦労は少なくなるがなあ」  |母子《おやこ》の影を見送りながら、沢庵はつぶやいていた。彼の足は、急ごうともしないのだ。——お通を捜すことを急務としているから。  だがいったい、お通はどうしてしまったものだろう。  あの|母子《おやこ》の|刃《やいば》から、どうした|機《はず》みかで逃げ|終《お》おせたことは確実と見ていい。沢庵はこころの|裡《うち》で、|先刻《さ っ き》から大きな欣びを胸へ拾っていた。  けれど血を見たせいか、お通の生きている無事な顔を見ないうちは、なんとなく気が落着かない。夜が明けるまで、もひとつ捜してみようと思う。  そう決心していると、さっき崖を上がって行った旅籠の|提燈《ちょうちん》が、そこらの堂守たちでも狩りあつめて来たらしく、七つ八つの灯の数に|殖《ふ》えて、ふたたび崖を降りて来た。  行き仆れ牢人の赤壁|八《や》|十《そ》|馬《ま》の死骸を、そのまま崖の下に埋葬してしまうつもりらしく、早速かついで来た|鍬《くわ》や|鋤《すき》を振るって、ドスッ、ドスッ、と夜陰の底へ不気味なひびきを震わせる。  その穴があらかた掘れたかと思える頃、 「や、ここにも一人死んでるぞ、ここのは|美《き》れいな|女《おな》|子《ご》だ」  誰かが|喚《わめ》いた。  穴を掘っている場所からものの五間と離れていない場所なのだ。滝水の流れが|岐《わか》れて来て、小さな沼が木や草におおわれているその|淵《ふち》だった。 「これは、死んでない」 「死んでいるものか」 「気を失っているだけだ」  集まった|提燈《ちょうちん》が、がやがや騒いでいるのを見て、沢庵が駈けもどって来るのと同時に、旅籠の手代が、大声で沢庵を呼び返していた。     町 人      一  ここの家ほど「水」というものの性能を巧みに生活の中へ|活《い》かして使っている家は少ないだろう。  ——家を|繞《めぐ》るその水音の|快《こころよ》いせせらぎを、ふと耳にとめながら、武蔵はそう思った。  |本《ほん》|阿《あ》|弥《み》|光《こう》|悦《えつ》の家である。  所は、武蔵にとって記憶のふかい蓮台野からそう遠くない——|上京《かみぎょう》の|実《じっ》|相《そう》|院《いん》|址《あと》の東南にあたる辻の角。  その辻を、本阿弥の辻と町の者が呼ぶ|所以《いわれ》は、光悦の一軒があるのみでなく、彼の住む素朴な長屋門に隣りして、彼の|甥《おい》とか、同業の職人たちとか、一族の者がみなこの辻の表や裏に、仲よく、その昔の土豪時代の大家族制度のように軒をならべて穏やかに町家暮らしの|営《いとな》みをしているからだった。 (なるほど、こういうものか)  武蔵には、もの珍らかに見える世間なのである。下層部の町人たちの生活には、自分の生活も打ち混じって見て来ているが、この京都で誰それ[#「それ」に傍点]といわれるような大町人というものには、まったく縁のなかった彼である。  本阿弥家は、由緒のある|足《あし》|利《かが》|家《け》の武臣の末であるし、現在でも前田大納言家から年禄二百石が来ているし、宮家にも知遇をたまわっているし、伏見の徳川家康も眼をかけたがっているし、——というわけで、職業こそ、刀剣の|研《と》ぎ|拭《ぬぐ》いをして、純粋な職人にちがいないが、ではその光悦は侍か町人かというと、ちょっとどっちともいえないような家がらである。しかし、やはり職人であり、町人であろう。いったい「職人」という名称が、このごろひどく下落して来たが、それは職人が自分で品性を落して来たからで、上代の世には、百姓は、天皇のおおみたから、とさえいわれて職業の上級なものであったが、世の下るにつれて、「この百姓めが」といえば|侮《ぶ》|蔑《べつ》の代名詞になるように変ってしまったのと同じで、職人という名称も、元は決して、|下《げ》|賤《せん》の|業《わざ》の呼び名ではなかったのである。  また大町人の根を洗うと|角倉素庵《すみのくらそあん》でも、|茶《ちゃ》|屋《や》|四《し》|郎《ろ》|次《じ》|郎《ろう》でも、|灰屋紹由《はいやしょうゆう》でも、みな武家出であることも一致している。つまり室町幕府の臣下が、初めは商業方面の一役所としてやっていた実務が、いつのまにか幕府の手を離れ、幕府から|禄《ろく》をもらう必要もなくなって、個人の経営になり、経営の才や社交の必要が、武士という特権をも不必要にさせて、親から子へ孫へと身代のうつるうちに、いつとなく町人という者になり変ってしまったのが、今の京都の大町人であり、また金力の所有者なのであった。  だから、武家と武家との権力の|争《そう》|覇《は》が起っても、そういう大町人の門は、両方から保護されて、続くことも代々永く続いて来ているが、また御用立てを仰せつかることも、兵火で焼かれない税金のようになっているらしい。  実相院|址《あと》の一廓は、|水《みず》|落《おち》|寺《でら》の隣り地で、|有《あり》|栖《す》|川《がわ》の流れと、|上《かみ》|小《こ》|川《がわ》の流れと、ふた筋の水脈に挟まれていて、応仁の乱の折には、一帯に焼け野原となったところで、今でも庭木を植えなどする時は、赤い刀の折れや|兜《かぶと》の鉢が出てくるといわれているが、本阿弥家の住居がここにできたのは、勿論応仁以後で、それ以後の家としては古いほうであった。  水落寺の境内を通って、上小川へ落ちてゆく有栖川のきれいな水は、中途から光悦の宅地をせんかん[#「せんかん」に傍点]と通過してゆくのである。——その水はまず、三百坪ほどな菜園の間を走り、|一《ひと》|叢《むら》の林にすがたを隠すと、次には玄関の|噴《ふき》|井《い》|戸《ど》へ、千尺の地の底から出て来たような顔をして現われ、一部は台所へ走って、|炊《かし》ぎを手伝い、一部は風呂場へ入って|垢《あか》を持ち去り、また閑素な茶室のどこかに、岩清水のような|滴《てき》|々《てき》な音をさせているかと思うと、ここの家族がみな「|御《お》|研《とぎ》|小《ご》|屋《や》」と敬称して、常に入口には|注連《しめ》|縄《なわ》の張ってある仕事場へ|奔入《ほんにゅう》して——そこでは職人たちの手によって、諸侯からひきうけている正宗や村正や|長《おさ》|船《ふね》や——世に名だたる銘刀を始め、あらゆる|刃《やいば》が研ぎぬかれている。  武蔵は、この家へ来て、この|一《ひと》|間《ま》に旅装を解いて、今日でちょうど四日目か五日目になる。      二  |此家《ここ》の|主《あるじ》の光悦と|妙秀《みょうしゅう》|母子《おやこ》に、いつか野辺の茶の席で会ってから武蔵は、折もあらば、もいちど親しくしてみたいが——とは心のうちで思っていたことだった。  ところが、よくよく縁があったというものか、再会の機が、あれから幾日も|経《た》たないうちにまたあった。  ——というのは、この上小川から下小川の東寄りに、|羅《ら》|漢《かん》|寺《じ》という寺がある。その隣地はむかし、赤松氏の一族がいた|館《やかた》の|址《あと》なので室町将軍家の没落とともに、そういった旧大名の|宅《たく》|址《し》も、今はあとかたもなく変ってはいるが、とにかく一度そこを捜してみたい気持がして、武蔵は或る日、その辺を歩いてみたのであった。  武蔵は幼少の時、よく父の口から、 (わしは今でこそ、こんな|山《やま》|家《が》の郷士で朽ちているが、祖先の平田|将監《しょうげん》は、播州の豪族赤松の|支族《わかれ》で、おまえの血の中にはまさしく、建武の英傑の血もながれているのだ。それをおまえは自覚して、もっと自分を大事にしなければいかぬ)  といったようなことを常に聞かされていた。下小川の羅漢寺は、その赤松氏の宅地と隣り合っていた|菩《ぼ》|提《だい》|寺《じ》なので、そこを訪ねてみたら、祖先の平田氏の過去帳などもあるかも知れない。父の無二斎も、|京都《みやこ》へ出た折は、一度訪ねて、祖先の供養を営んだことがある、とか聞いてもいたし——またそんな古いことが知れないまでも、そういう|有《う》|縁《えん》の地に立って、時には、自分の血液につながる遠い過去の人々を|偲《しの》んでみることも無意味ではなかろうと——武蔵はしきりとその日、その羅漢寺をさがしていたのである。  下小川の流れに「らかん橋」というのが|架《か》かっていた。しかし、羅漢寺というのは、尋ねても知れなかった。 「変ったのかなあ、この辺りも」  武蔵は、らかん橋の|欄《らん》|干《かん》に立ちながら——父と自分とのわずか人間一代のうちにも、激しく推移している都会のすがたというものを考えていた。  らかん橋の下を流れてゆく浅いきれいな水が、時々、|粘《ねん》|土《ど》でも|溶《と》かすように白く濁って、しばらくすると、また、それがきれいに澄んでいた。  見ると、その橋から見える左がわの岸の草むらから、チョロチョロと濁り水が吐き出されて、それが川へ|注《そそ》ぎ込まれる度ごとに、白いささ濁りが拡がってゆくのであった。 (ははあ、刀を|研《と》いでいる家があるナ)  武蔵はそう思ったが、その家の客となって、それから四日も五日も泊ろうなどとは夢にも思っていなかった。 (武蔵どのじゃないか)  どこかへ出た戻りらしい|妙秀尼《みょうしゅうに》に、こう呼びとめられて、そこが|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》の辻の近所だったということも、後から初めて気がついたほどなのである。 (よう訪ねて来てくだされたのう——光悦もきょうはいるほどに、まあまあ、そう遠慮などせいで……)  と妙秀尼は、彼を路傍で見つけたことの偶然を|欣《よろこ》んで、武蔵がわざわざ自分の家へ来てくれたもののように思いこみ、長屋門の内へ連れて入って、下男をやってすぐ、光悦を呼んで来させる。  光悦といい、妙秀といい、いつぞや外で会った時も、こうして家庭で会う時も、少しも変らないよい人たちだった。 (私はただ今、大事なお|研《とぎ》|物《もの》を仕かけておりますので、しばらく母と話していて下さい。仕事をすませば、いくらでも|悠《ゆる》りと話しますから)  光悦がいうので、武蔵は妙秀尼を相手にくつろいでいたが、その晩がつい遅くなってしまうと、まあ今夜はということになり、|翌《あく》る日になるとまた武蔵のほうから光悦に、刀の|研《とぎ》や扱いについて教えを乞うと、光悦は自分の「御研小屋」へ彼を案内して、実際の上からいろいろ説いて聞かせるといったようなわけになって——いつか三晩も四晩もこの家の布団に武蔵は身を|馴《な》じませてしまったような次第であった。      三  ——しかし、人の好意に甘えるのも程度がある。武蔵は、きょうはもう|暇《いとま》を乞おうと考えていたが、それをいい出さない矢先に、今朝もまた、光悦のほうから、 「|碌《ろく》にかまいもしないで、引き留めるのも|異《い》なものですが、あなたさえ飽きなかったら、幾日でも泊って行ってください。私の書斎には少々ばかり、古書やつまらない|愛《あい》|玩《がん》|品《ひん》もありますから、何を引っ張り出してご覧くださるとも差しつかえございません。そのうちにまた、庭の隅にある|竈《かま》で、茶碗や皿を焼いてお目にかけましょう。刀剣も刀剣ですが、|陶器《やきもの》もなかなか興のあるものですから、あなたもなにか一つ、土を|捏《こ》ねて試みてごらんなさい」  などといわれ、武蔵はまた、つい彼の落ちついた生活の中に、自分の落ちつきを許してしまった。 「お飽きになるか、急にまた御用事でも思い立たれた節は、見らるる通りな無人の家、ご挨拶などには及びませぬから、いつでも気持の向いたまま、ご出立なさればよいではございませんか」  とも光悦はいってくれるのであった。  武蔵は、飽きるどころではなかった。彼の書斎をながめても、そこには和漢の書籍から、鎌倉期の絵巻だの、|舶《はく》|載《さい》の古法帖だの、そのうちの一つを繰りひろげても、思わず一日は暮れてしまうものが沢山ある。  わけても、武蔵が心を引かれたものの一つに、宋の|梁楷《りょうかい》の描いたという「栗の図」が床の間にあった。  たて二尺、横二尺四、五寸くらい、横幅で紙質も分らないほど古びた|懸《かけ》|物《もの》であったが、それを見ていると、武蔵はふしぎに半日でも飽くということを覚えない。 「御主人のお|描《か》きになるような絵は、とても|素人《しろうと》には及びもないという気がしますが、これを見ていると、これくらいなものなら素人の私にも描けるというような気がしますな」  武蔵が、ある時いうと、 「それは、あべこべでしょう」  と光悦が答えて、 「わたしの絵くらいな程度までは、誰にでも行き得る境地といってもかまいませんが、この辺になると、道高く、山深く、非凡過ぎて、ただ学べば行けるという境地ではありません」  といった。 「ははあ、そうでしょうか」  ——そういうものかと、武蔵はこれから折あるごとにこの絵を眺めていたのであったが、光悦にいわれて見てから、なるほど、それは一見単純な墨一色の粗画に過ぎないが、その中に持っている「単純なる複雑」に、彼もようやく少しずつ眼をひらいて来た。  二個の|落《おち》|栗《ぐり》がざっと描いてあって、一個は|殻《から》を破っており、一個はまだイガの針を立てて固く殻を閉じている。それへ|栗鼠《りす》が飛びついているだけの構図である。  |栗鼠《りす》の生態は、いかにも自由性に富んでいて、人間の若さと、若さの持つ欲望とを、そのまま、この小動物の姿態にあらわしている。——しかし、栗鼠の意欲のままに、その栗を食らおうとすれば、イガに鼻を刺され、イガを怖れていれば、殻の中の|実《み》は食うことができない。  作者は、そんな意図はなく描いたのかもしれないが、武蔵はそうした意味にもこれを眺めてみるのだった。絵画を見るのに、絵画以外の|諷《ふう》|意《い》とか、暗示とか、そんな考え方をして|煩《わずら》うのはよけいなことかも知れないが——と思いつつも、その絵は「単純なる複雑」のうちに、墨の美感や画面の音階のほかに、人をして思わず黙想に遊ばしめる無機的な作用を|種《さま》|々《ざま》に備えているのだから仕方がない。 「武蔵どの、また|梁楷《りょうかい》と睨めっこですか。よほど気に入ったとみえますな。何ならば、ご出立の時に巻いてお持ちなさい、差上げましょう」  無造作に、彼の姿を見ていいながら、光悦は今、何か用ありげに彼のそばへ坐った。      四  武蔵は、意外な顔して、 「え、拙者にこの梁楷の|幅《ふく》を下さるというのですか。もっての外のことです、数日御厄介に甘えた上こんな御家宝を戴いてよいものではありませぬ」  と固く辞退した。 「でも、お気に召したのでしょうが……」  と、光悦は彼の|律《りち》|義《ぎ》に恥らう|態《さま》を見やりながら、笑っていう。 「——かまいません、お気に召されたら、|外《はず》してお持ちくださるがよい。総じて、絵画などというものは、真にその作品を愛して、作中の真味を汲んでくれる人に持たれれば、その絵は|倖《しあわ》せであり、地下の作者も満足だろうと思われます。ですから、どうぞ」 「そう伺っては、なおのこと、私にはこの絵を頂戴する資格がございませぬ。——こうして拝見していると、頻りと、所有欲のようなものが動いて、自分も一つ、こんな名幅を持ってみたいという気持はして来ますが——持ったところで、家もなし、席も定まらぬ|流寓《りゅうぐう》の武者修行」 「なるほど、旅ばかりしているお体では、かえってお邪魔ですな。お若いから、まだそんなこころもちにおなりになるまいが、人間、どんなに小さくともよいが、わが家というものを持たない人は、いかに寂しかろうぞと、私は思いやられるのじゃが。——どうです、ひとつこの京都の隅あたりへ、ざっとした丸木で一庵をお拵えになっておいては」 「まだ家がほしいと思ったことはありません。それよりも、九州の果て、長崎の文明、また新しい都府と聞く|東《あずま》の江戸、|陸奥《みちのく》の|大《たい》|山《ざん》|大《たい》|川《せん》など——遠い方にばかり遊心が動いています。生れながら私には、放浪癖があるのかもわかりません」 「いや、あなたばかりでなく、誰でもでしょう、四畳半の茶室より、|蒼《あお》|空《ぞら》を好むのが若い人の当り前です。同時に、自分の希望の達成が、自分の身近にはない気がして、常に遠くにばかり道があると思ってしまう|弊《へい》もある。大事な若い日の空費はたいがい、その遠くにあこがれて居所に希望を誓わない——つまり境遇への不平に暮れてしまうのじゃないでしょうかな」  といって、ふと、 「ハハハハ、私のような|閑《ひま》|人《じん》が、若いお人へ、教訓めいて、こんなことをいうのはおかしい。……そうそう、ここへ来たのはそんなことではなく、あなたを今夜連れ出そうと思って来たのですが、どうですか武蔵殿、あなたは|遊廓《くるわ》を見たことがありますか」 「遊廓というと……遊女のいる|廓《さと》のことですか」 「そうです。私の友達に、|灰屋紹由《はいやしょうゆう》というて、気心のおけない人がいる。その紹由から、今誘い文が来たのですが、六条の遊び町を見にゆく気はありませんか」  武蔵は、彼の言葉のもとに、 「よしましょう」  といった。  光悦は、|強《し》いてすすめず、 「そうですか。お気持がすすまなければ、お誘いしても仕方がありませんが、時には、ああいう世界に|浸《ひた》ってみるのもおもしろいものですよ」  すると——音もなく——いつのまにかそこへ来て、ふたりの話を興ありげに聞いていた母の妙秀|尼《に》が、 「武蔵どの、よい折ではないか、一緒に行かれてはどうかの。灰屋の|主人《あるじ》とても、なんの気がねも|要《い》らぬお人、せがれも折角、お連れしたいのであろう。さあ、行って来なされ、行って来なされ」  と、これはまた、光悦の気分まかせと違って、いそいそと|衣裳箪笥《いしょうだんす》から小袖など出して来て、武蔵にもすすめ、わが子へも、遊びに出るのを励ましていう。      五  およそ、親と名のつく者なら、わが子が|遊廓《くるわ》へ行くなどと聞けば、それがたとい客の前であろうと、友達の前であろうと、|苦《にが》り切って、 (また、|極《ごく》|道《どう》か)  と、|嘯《うそぶ》いているか、もっと|厳《やか》ましい親の場合は、 (もってのほかな!)  と、親子のあいだに|一《ひと》|揉《も》めくらいはあるのが世間の通例なのに、この|母子《おやこ》はそうでない。  妙秀尼は、衣裳箪笥のそばへ寄って、 「帯はこれでよいか。小袖はどちらにしやるか?」  と、遊廓へ行くという息子の身仕度を、自分が遊山にでも出向くように、いそいそと気をくばる。  衣裳のみでなく、紙入れ、印籠、脇差なども派手やかなのを|選《よ》って揃え、わけても紙入れの中へは、男の中へ交わって恥かしい思いをせぬように、女の世界にはいって汚い仕方をせぬように、そっとべつな|金《かね》|箪《だん》|笥《す》の内から、|金《きん》|子《す》の音をしのばせて、心づかいをずッしりと入れておく。 「さあさあ、|行《い》て来なされ、遊廓は灯ともし頃の宵がよく、もそっとよいのは、|黄昏《たそが》れ|刻《どき》の|通《かよ》い|路《じ》というげな。武蔵どのも、|行《い》ておざれ」  そして、いつの間にか、武蔵の前にも、綿服ではあるが、肌着から上着まで、|垢《あか》のつかない|一《ひと》|襲《かさ》ねがそろえてある。  初めは、|腑《ふ》に落ちぬことと怪しまれたが、この母御がこれ程すすめるところなら、|悪《あく》|所《しょ》|通《がよ》いと世間でいうほど、行って悪い場所でもなさそうに思われる。  武蔵は考え直して、 「では、お言葉に甘えて、光悦どのに連れて行ってもらいます」 「オオ、そうなされ。——さ、衣裳もかえて」 「いや、拙者には、美服はかえって似合いませぬ。野に伏しても、どこへまいっても、この|袷《あわせ》一枚が、やはり自分らしくて気ままですから」 「それはいけません」  妙秀尼は、変なところで、厳格になって、武蔵をこうたしなめた。 「貴方はそれでよいじゃろが、|汚《むさ》い|身装《みなり》をしていては、|綺《き》|羅《ら》やかな|遊廓《さと》の席に、|雑《ぞう》|巾《きん》が置いてあるように見ゆるではないかの。世事の|憂《う》いこと|醜《むさ》いこと、すべてを忘れて、一|刻《とき》でも半夜でも、綺麗事につつまれて、さらりと屈託を捨てて来るのがあの|遊廓《さと》でござりまするがの。——そう思うてみれば、わが身の化粧や|伊達《だて》も、|廓《さと》|景《げ》|色《しき》の一つ、わが身だけの|見《み》|得《え》と思うが間違いであろが。……ホ、ホ、ホ、ホ、そういうたとて、|名《な》|古《ご》|屋《や》|山《さん》|三《ざ》や政宗どの程な晴れ着でもない、ただ|垢《あか》がついていぬというだけの|衣《もの》、さあ世話をやかせずに袖を通してみなされ」 「は、……それでは」  武蔵が素直に分って、着がえを済ますと、 「おお、よう似合う」  と妙秀尼は二人のさばさばした|身姿《みなり》をながめて、わけもなく喜ぶ。  光悦は、ちょっと仏間へはいって、そこへ小さい夕方の燈明を捧げていた。この|母子《おやこ》は日頃から厚い日蓮宗の信者であった。  そこから出て来て、待っている武蔵へ向い、 「さ、お供いたしましょう」  連れ立って、玄関まで歩いて来ると、母の妙秀尼は、もう先に出て二人の|穿《は》く新しい緒の草履を|沓石《くつぬぎ》へ揃え、その後で、長屋門を閉めかけていた下男と、門の蔭でなにか小声で立ち話をしていた。 「おそれ入ります」  光悦は、草履へ向って頭を下げながら、足を下ろした。 「では|母《はは》|者《じゃ》|人《びと》、行って参ります」  すると、妙秀尼は振り顧って、 「光悦や、ちょっとお待ち」  あわてて手を振って、二人の足を止め、自分は|潜《くぐ》り|門《もん》から外へ顔を出して、何事なのか、往来を見まわしているふうだった。      六 「——なんですか?」  光悦が、不審がると、妙秀尼は門の|潜《くぐ》りをそっと閉めて、戻って来た。 「光悦や、今のう、|強《きつ》いかたちをした侍衆が、三名づれで、ここの門前へ来て、不作法な言葉を吐いて行ったというが。……大事はあるまいかの」  まだ空は明るいが、|黄昏《たそが》れに向って出るわが子と客の身を、ふと案じるらしく、眉をひそめてそういった。 「……?」  光悦は、武蔵の顔を見た。  武蔵はすぐ、侍たちが、どういう者かを察したらしく、 「お案じなされますな、拙者へ危害を加えても、光悦どのへ害意のある者ではないと存じます」 「おとといも、そんなことがあったと誰かいうたの。おとといの侍は、一人であったらしいが、するどい|眼《まな》ざしして、門内まで案内ものうはいり込み、茶室の路地にかがみ込んで、武蔵どののいる奥の部屋を頻りとのぞいて立ち去ったそうな」 「吉岡の者でしょう」  武蔵がいうと、 「私もそう思う」  と、光悦もうなずいた。  そして下男へ、 「きょうの三人連れは、なんというて来たのか」  と、訊ねた。  それに答えて、わなわな|顫《ふる》えながら、下男がいうには、 「はい……今し方、お職人衆もみなお帰りになりましたので、ここの門を閉めようといたしますると、どこにいたのか、三人連れのお侍方が、いきなり手前を囲んで、中の一人が、|懐中《ふところ》から書状のような物を取出し——これを当家の客へ渡せ——と恐ろしい顔して申しまする」 「うむ……客といって、武蔵どのとはいわなかったのか」 「いいや、その後で申しました——宮本武蔵と申す者が、数日前から泊っているはずだと——」 「そしてお前はなんといった」 「わしは、かねて旦那様から口止めされてありましたで——どこまでも、そのようなお客様はおらぬと首を振りますと、いちどは怒って、偽りを申すな——と高声を張りかけましたが少し|年《とし》|老《と》った侍がそのお人を|宥《なだ》めて、皮肉な笑い方をしながら、それではよい、べつな仕方で、当人に会って渡すから——と、そういって|彼方《むこう》の辻へ行ってしまいましたが」  武蔵はそれを側で聞いて、 「光悦どの、それではこうして戴きましょう。万一のことでもあって、あなたへお怪我でもさせたり、|累《るい》を及ぼしては、申し訳がありませぬゆえ、一足先におひとりで」 「いや、何」  光悦は一笑に附して、 「そんなご|斟酌《しんしゃく》は要りません。吉岡の侍と分っていればなおさらのことです、私が怖がる意味は少しもありません。……さあまいりましょう」  武蔵を|促《うなが》して、門の外へ出たが、光悦はまた、ふと、|潜《くぐ》りの内へ顔を見せて、 「母御様、母御様」 「忘れ物か」 「いいえ、今のことですが、もしあなた様が気がかりに思し召すなら、灰屋どのへ使いをやって、今夜のお誘いは|断《ことわ》りまするが、……」 「なんの、わしが案じたのは、そなたの身より、武蔵どのに万一のことでもないかと懸念したのじゃ。——その武蔵どのがもう先へ出て待っているものを、止めてもかいはあるまいし、折角、灰屋様のお誘いでもある。機嫌よう、遊んで来なされ」  光悦は、母の閉めた潜り戸に、もうなんの心がかりもなかった。待っていた武蔵と肩を並べて、川ぞいの片側町を歩きながら、 「灰屋殿の|住居《すまい》は、この先の一条堀川なので、ちょうど途中、支度して待っているそうですから、ちょっと立ち寄って行きましょう」  と、断った。      七  まだ夕空は明るかった。水にそって歩くのはなんとなく心の|暢《の》びるものである。人の|忙《せわ》しがる|黄昏《たそが》れを、用もなげな顔をして歩くのはなおさらいい。 「灰屋|紹由《しょうゆう》どの——お名前はよく耳にするお方のようですが」  武蔵がいう。  ぶらりぶらり足をあわせながら、それに答えて、光悦がいう。 「聞いているでしょうとも、|連《れん》|歌《が》のほうでは|紹巴《しょうは》の門で、もう|一《いっ》|家《か》を成している人ですから」 「ハハア、連歌師ですか」 「いえ、紹巴や貞徳のように、連歌で|生活《たつき》を立てている人ではありません。——また私と同じような家がらで、この京都の古い町人です」 「灰屋という姓は」 「屋号ですよ」 「何を売る店なので」 「灰を売るのです」 「灰を? ——何の灰をですか」 「紺屋が紺染めに使う灰なので、|紺《こん》|灰《ぱい》といっております。諸国の染座へ|卸《おろ》すので、なかなか大きな商売です」 「アアなるほど、あの|灰汁《あく》|水《みず》を作る|原料《もと》ですな」 「それは莫大な金額にのぼる取引なので、室町の世の|初期《はじめ》ごろには、御所の|直轄《ちょっかつ》で、|紺《こん》|灰《ぱい》|座《ざ》|奉行《ぶぎょう》をやっておりましたが、|中期《なか》頃から民営になりまして、紺灰座問屋というのが、この京都に三軒とか許されていたものだそうです。その一軒が、灰屋紹由の先祖でした。——けれど今の紹由殿の代になってからは、もうその家業はやめて、この堀川で余生を穏やかに送っているわけですが」  と、光悦はそこで|彼方《あなた》を指さして—— 「見えましょう、此処から。あの見るからに|閑《かん》|雅《が》な門のある一構えが、灰屋どののお|住居《すまい》です」 「…………」  武蔵はうなずきながらふと、左の|袂《たもと》の先を、|袂《たもと》の外から握っていた。 (……はてな?)  と光悦の話を聞きながら考えているのであった。  ——何が入っているのだろうか、右の袂は夕風がふいても軽くうごくが、左の袂がすこし重い。  |懐《かい》|紙《し》はふところにある。|莨《たばこ》入れは持たないし——|他《ほか》にべつに何も入れてある覚えはないが——とそっと手を落して、袖口に出してみると、よく|鞣《なめ》してある|菖蒲色《しょうぶいろ》の|革《かわ》|紐《ひも》が、いつでも解けるように、蝶むすびに|束《たば》ねて入れてあったのである。 (……おお?)  光悦の母の妙秀尼が入れておいてくれた物にちがいない。これを|革襷《かわだすき》にと。 「…………」  袂の中の革襷をにぎりながら、武蔵は振向いて、思わず頬へのぼってくる微笑を後ろの者へ見せた。  ——その前からとく気がついていたことではあるが、本阿弥の辻を出るとすぐ、自分の後ろから一定の距離をおいて、のそのそと後を|尾行《つけ》て来る三人連れがあったのである。  それが、武蔵の微笑を見ると、はっとしたように一致して足を止め、なにか顔と顔を突き合せて|囁《ささや》いていたが、やがて遠方から身がまえを作って、|遽《にわ》かに大股を踏んでこっちへ近づいて来る様子——  光悦はその時から、灰屋の門の前に立って、そこの鳴子に訪れを通じ、|箒《ほうき》を持って出て来た|下僕《しもべ》に案内されて、|前《せん》|栽《ざい》の中へ入っていた。  ふと、後ろに見えない武蔵に気がつくと、光悦はまたもどって来て、 「武蔵どの、さあ、お入りください。遠慮はいらぬ家ですから」  と、何事もないつもりで門の外へいった。      八  いかつい大太刀の|柄《つか》がしらを|反《そり》|胸《むね》に突出して、|肱《ひじ》を張っている三名の侍が一人の武蔵を囲むように押し並んで、|傲《ごう》|岸《がん》に何かいい渡している様子を——光悦は門の外に見出した。 (先刻のだな)  光悦はすぐ思い当った。  相手の三名へ、なにか穏やかに答えておいてから、武蔵は光悦のほうを顧みていった。 「すぐ後から参りますゆえ——どうぞお先に」  光悦は、静かな|眸《ひとみ》で、彼の眸を読むように、|顎《あご》を内へ引いて、 「では、奥で待っておりますから、御用がおすみになりましたらば」  光悦が門のうちへ隠れると、待っていたように、三名の中の一人が、口を開いて、 「逃げ隠れしたの、いや逃げ隠れはせんのと、もうここでの論議は止そう。そんな用事で参ったのではない。——それがしは今もいったが、吉岡門下の身内で十剣の一人|太田黒兵助《おおたぐろひょうすけ》という者だが」  袂を払って|内《うち》|懐中《ぶところ》へ両手を突っこみ、一通の|書《かき》|付《つけ》を取り出すと、それを武蔵の眼さきへ突きつけた。 「御舎弟伝七郎どのから|其《そこ》|許《もと》への|手《しゅ》|翰《かん》、たしかに渡し申すぞ。——ここで一読いたして、すぐ返辞を承りたい」 「ははあ……」  無造作に武蔵は|披《ひら》いて読み下してからすぐ、 「承知した」  と、一言で答えた。  だがまだ、太田黒兵助は、|猜《さい》|疑《ぎ》ぶかい眼の光を消さないで、 「|確乎《しか》と?」  念を押して、武蔵の顔いろを|糺《ただ》すと、武蔵はさらにうなずいて、 「|確乎《しか》と承知」  やっと三名は合点したらしく、 「異約あるにおいては、天下へ向って、|嘲笑《わら》い申すぞ」 「…………」  武蔵は黙って、三名の|硬《こわ》ばっている体つきに|眼《まなこ》を遊ばせていた。「|笑而《わらって》|不答《こたえず》」で済ましているのであった。  その態度がまた太田黒兵助には怪しまれてきたものか、 「よろしいか、武蔵」  と、|執《しつ》こく—— 「時刻とても、これから|間《ま》のないことだぞ。場所は心得たか。支度はよいか」  と、釘を打つ。  くどいという顔つきはしなかったが、武蔵のことばは至って短い。 「よい」  ぽつりといって、 「——では後刻」  灰屋の門内へ入りかけると、兵助はまた追いかけにいい浴びせた。 「武蔵、それまでは、この灰屋にいるのだな」 「いや、宵には、六条の|遊廓《くるわ》を案内して下さるそうな。いずれかにいる」 「六条? よし。——六条かこの|家《や》かどっちかにいるのだな。刻限が遅れたら迎えをよこすぞ。よもや卑怯な振舞はなかろうが」  背中で聞きながら、武蔵は灰屋の|前《せん》|栽《ざい》へはいって、すぐ門を閉めていた。一歩そこへはいると騒音の世間は百里も後になったように、いとも静かな生活の天地をこの家の見えない塀が囲んでいた。  低い根笹と筆の|軸《じく》ほどな細竹とが、自然の小道のように配られてある石から石への通路を程よく|湿《しめ》らせている。歩むにつれて見えて来る母屋、表、|離室《はなれ》、|亭《ちん》、すべてが旧家の|燻《くす》みと大まか[#「まか」に傍点]な深さを持っていて、それを|繞《めぐ》る松はみな背が高く、|屋《おく》を越してこの家の富貴を|奏《かな》でてはいるが、下へかかって来る客へ対して、決して|尊《そん》|傲《ごう》なふうは見えない。      九  どこかで|蹴《け》|鞠《まり》を蹴る音がしていた。|公《く》|卿《げ》|屋《や》|敷《しき》だとよくその音を塀の外からも聞くが、町人の家にはめずらしいと武蔵は思った。 「すぐお支度してみえますが、どうぞしばらくここで」  と、茶や菓子を運んで来て、庭向きの座敷へ席をすすめた二人の小間使の|起《たち》|居《い》もしとやかで、家風のしつけを思わせる。 「陽が蔭ってきたせいか、急に寒くなって来た」  光悦はつぶやいて、開いている障子を閉めるように小間使へいいつけようとしたが、武蔵が、|鞠《まり》の音に聞き入りながら、庭の|彼方《あなた》に一段低くなっている梅林の花を見ているらしいので、自分も外へ眼をやって、 「|叡《えい》|山《ざん》のうえが、曇って来ましたな。あの上にかかる雲は、北国から来る北雲です。——お寒くはありませんか」 「いやべつに」  武蔵は正直にそういったまでで、ちっとも光悦がそこを閉めたいと思っている気持などは考えなかった。  彼の皮膚は気候に対して|革《かわ》のように強靭だった。光悦のきめ[#「きめ」に傍点]のこまかな皮膚とは、それだけ感度が違っていた。あながち気候に対してであるばかりでなく、すべての感触にも鑑賞にも、そのくらいな差が二人にはあった。ひと口にいえば、野人と都会人の差であった。  小間使が燭台を持って来たのを|機《しお》に——外もつるべ落しに暗くなっても来たし——光悦がそこを閉めかけると、 「小父さま、来ていたの」  |鞠《まり》を蹴っていた息子たちであろう、十四、五歳のが二、三人縁側からのぞいて、蹴鞠をそこへ|抛《ほう》り出したが、武蔵のすがたを見ると、急におとなしくなって、 「おじい様、呼んで来てあげようか」  光悦がいいといっても|肯《き》かないのである。先を争って奥へ駈けて行った。  障子を閉め、灯りがともると、この家のもつ和やかなものが、初めて坐った客にもよけいによくわかる。家族たちの遠い笑い声がかすかに洩れて来るのも居心地がいい。  もっともっと、武蔵が客として感じよく思えたことは、どこを眺めても、少しも金持くさくないことであった。むしろあらゆる素朴なもので、有る金のにおいを消そうとしているかのようにすら見える。どこか大きな|田舎《いなか》|家《や》の客間にいるような気持だった。 「いや、どうも、えろうお待たせして済まなんだ」  そこへ唐突に|磊《らい》|落《らく》な声がして、|主《あるじ》の灰屋|紹由《しょうゆう》がすがたを見せた。  光悦とはあべこべに、この人は鶴のように痩せていたが、声は、|低声《こごえ》の光悦よりも、ずっと若々しくて大きくひびく。年も光悦よりは一まわりくらい上かも知れない。とにかく、気さく[#「気さく」に傍点]な性分といったふうで、光悦が武蔵を|紹介《ひきあ》わせると、 「あ、そうか。そうでおざるか。|近衛《このえ》|家《け》の御用人松尾殿の|甥《おい》|御《ご》であらっしゃるか。松尾殿は、わしもよう存じ上げておる」  ここでも、叔父の名が出たので武蔵は、こういう大町人たちと、堂上の近衛家あたりとの関係をなんとはなくうっすら察することができた。 「さっそく行きましょうぞや。明るいうちに出て、そぞろ歩きと思うたが、もう暗うなったゆえ、|駕《かご》を呼ぼう。……武蔵どのも、もちろん|交際《つきあ》ってくださるじゃろうな」  年に似あわずせかせかしている紹由と、おっとり構えこむと|遊廓《くるわ》へ行くことも忘れているような光悦と、それも変っている対照であった。  その二人を乗せてゆく町駕の後から、武蔵も生れて初めて、駕という物に乗って、堀川のふちを揺られて行った。     春の雪      一 「ウウ、寒」 「風が|撲《な》ぐって来よった」 「鼻が|も[#「も」は「てへん」+「劣」Unicode=6318]《も》げそうだの」 「なにか降るぞ、今夜は」 「——春だというのに」  駕かき同士の高声だった。白い息をふいて柳の馬場へかかっていた。  三つの|提燈《あかり》はしきりに揺れ、しきりに明滅する。夕方、|比《ひ》|叡《えい》のうえに見えた笠雲はもういっぱいに洛内の天へ黒々とひろがって、|夜《よ》|半《なか》には何に変じるか、怖ろしい形相を|兆《きざ》している夜空だった。  ——だがそのかわりに、この広い馬場の|彼方《むこう》に見える一かたまりの地上の灯の美しさといったらない。空に星一つない晩だけに地上の灯がよけいに|燦《きら》めくのである。ちょうど蛍のかたまりを風が|磨《と》いでいるように。 「武蔵どの」  と、真ん中の駕のうちから後ろを|振《ふり》|顧《かえ》って光悦がいう—— 「あそこです。あれが六条の柳町で——この頃|町《まち》|家《や》が|殖《ふ》えてから、三筋町とも|称《よ》んでいますが」 「アア、あれですか」 「町中を出離れてから、またこんな広い馬場だの空地だのを通って、その彼方に|忽《こつ》|然《ねん》と、あんな灯の|聚落《しゅうらく》が現れるのもおもしろいでしょう」 「意外でした」 「|遊廓《くるわ》も以前には、二条にあったものですが、|大《だい》|内《だい》|裏《り》に近うて、|夜《よ》|半《なか》などには、民歌や俗曲が、|御《ぎょ》|苑《えん》のほとりに立つとかすかに耳にさわるというので、所司代の|板《いた》|倉《くら》|勝《かつ》|重《しげ》どのが、急にここへ移転させたものです。——それからまだやっと三年しか経ちませんのに、どうです。もうあの通りな町になって、なお拡がって行こうとしている」 「では、三年前には、まだこの辺は」 「ええ、もう夜などは、どっちを見ても真っ暗で、つくづく戦国の火の|禍《わざわ》いが嘆じられるばかりであったものです。——けれど今では、新しい流行は皆、あの灯の中から出ているし、大げさにいえば、一つの文化をさえ生むところとなっているので……」  といいかけて、しばらく、耳を澄ましてからまた—— 「かすかに聞えて来たでしょう……遊廓の絃歌が」 「なるほど、聞えます」 「あの音曲などにしても、新しく|琉球《りゅうきゅう》から|渡来《わた》ってきた三味線を工夫したり、またその三味線を基礎にして|今《いま》|様《よう》の歌謡ができて来たり、その派生から|隆達《りゅうたつ》ぶしだの上方唄だのが作られたり、そういったものは、すべてあそこが母胎といってよい。あそこで興ったものを後から一般の民衆が受けとるのですから、そういう文化のほうでは、一般の町と遊廓とも、ふかい因果関係があるわけですな。だから、遊廓だから、町の隔離してあるところだからといって、あそこがどんなに|穢《きた》ならしくてもよいということはいえません」  駕がその時、急に道を曲ったので、武蔵と光悦の話も、それなり打ち切られてしまった。  二条の遊廓も柳町とよび、六条の遊廓も柳町と|称《よ》ぶ。柳と遊廓とは、いつの頃からそう付き物のようになったものか、その柳並木に|綴《つづ》られた無数の灯が、もう近々と武蔵の眼に映ってきていた。      二  光悦も灰屋|紹由《しょうゆう》も、ここの|青楼《うち》は|馴《な》|染《じ》みとみえ、門の柳へ、駕が下りると、 「船ばし様」 「|水《みず》|落《おち》様も」  と、林屋|与《よ》|次《じ》|兵《べ》|衛《え》の店では、下へも置かないという迎えよう。  船ばし様というのは、堀川船橋に|住居《すまい》があるところから、紹由の|遊里《さと》|名《な》。また水落様というのも、同じく、光悦のここだけの遊び名前。  武蔵だけには、一定の住所もないし、従って隠し名もない。  名前の|詮《せん》|索《さく》ばかりするようであるが、この林屋与次兵衛というのも、楼主の表名前であって、遊女屋としての|暖《の》|簾《れん》|名《な》は、|扇屋《おうぎや》というのであった。  扇屋といえば、今この、六条柳町に嬌名のたかい初代吉野|太夫《だゆう》の名がすぐ思い出されるし、|桔梗屋《ききょうや》といえば、|室《むろ》|君《ぎみ》|太夫《だゆう》の名をもってひびいている。  一流とゆるされる|青楼《いえ》は、その二軒に限っていた。光悦、紹由、武蔵の三人が客となって坐ったのは扇屋のほうなのである。 (——これは、|絢《けん》|爛《らん》な、城郭のようなものだな)  武蔵は、なるべく眼をうごかすまいとしても、つい、|格天井《ごうてんじょう》や、|橋架《きょうか》の欄干や、|庭《にわ》|面《も》の様や、|欄《らん》|間《ま》の|彫刻《ほり》など、歩くたびに、眼を奪われてしまう気がする。 「おや、どこへ行かれてしもうたのか」  杉戸の絵に|見恍《みと》れているうちに、光悦や紹由を見失ってしまい、武蔵が廊下を迷っていると、 「こちらじゃ」  と、光悦が招いている。  遠州風の石組に、白砂を掃きならして、|赤《せき》|壁《へき》の景でも模した庭造り師のこころであろうか、北苑の画にでもありそうなそこの庭を抱いて、大きな二間の銀ぶすまが灯に濡れている。 「冷えるわい」  紹由は、猫背になって、ちょこなんと、もうその広い部屋の、一つの敷物に乗っかっている。  光悦も、先に坐り、 「さあ、武蔵どの」  と、真ん中に空いている敷物をすすめるのだった。 「いや、それは——」  と控えて、武蔵は下座に着いたまま、かたくなっていた。二人がすすめる座布団は、床の間の正面である。この物々しい建築と睨めッこして、そんな上座へ、殿様みたいに坐るのは、遠慮というよりも、武蔵はどうも嫌だった。しかし相手は、遠慮と取る。 「でも、こよいは、あなたがお客じゃから……」  紹由はすすめて、 「わしと、光悦どのとは、いつもいつも、まあ、こんなあんばいに、飽きもせで、飽かれもせで、日をつぶしている古友達。あなたとは初対面、まず、まず」  と、扱ってしまおうとする。  武蔵は、辞して、 「いや、それでは恐縮。わたくしのような若い者が」  すると、|紹由《しょうゆう》が、 「|遊廓《くるわ》で年をいうやつがあるか」  と、突然くだけた調子でいって、ワハハハハと猫背の肩をゆすぶって笑った。  もう茶や菓子を持った女たちがうしろへ来ていた。席のきまるのを待っているのである。光悦は、武蔵の気持を救うつもりで、 「では、わしが」  と床の間へ直った。  武蔵は、光悦のあとへ坐って、幾分かいる所を得た気もちがしたが、なにかしら、大事な時間を、つまらなく|費《つぶ》しているような気もしていた。      三  次の間の隅には、ふたりの|禿《かむろ》が仲よく炉のそばに並んで、 「——これ、なあに?」 「——|禽《とり》」 「じゃあ、これは」 「うさぎ」 「——こんどは?」 「……笠の人」  指と指を組みあわせて、|屏風《びょうぶ》へ影絵を映しながら、うしろ向きに遊んでいた。  炉はもちろん茶式のもの、釜口から昇る湯気は、部屋を暖めるに役立っている。いつのまにか隣には人が|殖《ふ》え、酒のかおりや人肌も、外の寒さを忘れさせていた。  いやそれよりは、そこにいる人たちの血管に、ほどよく酒がめぐって来たのが、この部屋が暖かくなったと感じられてきたなによりの原因であろう。 「わしはなあ、こういうと、息子どもへ意見ができぬことになるが、世の中に、酒ほどよいものはないと思うておる。酒——はよくないものと、|極《ごく》|道《どう》の毒水みたいにいうのは、あれや酒のせいじゃあるまいて。酒はよいものじゃが、飲み|人《て》がわるいのじゃ。何でも、人のせいにするのが人間のくせでな、|気《き》|狂《ちが》い水などといわるる酒こそよい迷惑よ」  この中で、誰の声より大きいのが、この中で誰よりもいちばん痩せている灰屋紹由の声だった。  武蔵が、一、二|献《こん》飲んだだけで後は辞退しているところから、紹由老人の——これは度々発表している持論らしい酒談義がはじまったのである。  いつ聞いても、それがいっこう「新説」でない|蒸《む》し|返《かえ》しである証拠には、席に|侍《じ》している|唐《から》|琴《こと》太夫も墨菊太夫も|小《こ》|菩《ぼ》|薩《さつ》太夫も、またほかの酌人や、物運びする女たちまでが、 (船ばし様が、また始まった)  といわないばかりに、皆同じ表情のものを唇に持って、くすぐッたそうに聞いている顔つきを見ても分るのである。  だが、船ばし様の紹由は、そんなことにはすこしも頓着なく、 「酒がわるいものなら、神様はお嫌いなはずだが、酒は悪魔よりも神様のほうがお好きじゃった。だから、酒ほど清浄なものはない。神代には、酒を造る時、純清の|処女《おとめ》|子《ご》たちの|白《しら》|珠《たま》のような歯で|米《よね》を噛ませて酒を|醸《かも》したという。それほど清らかなものだった」 「ホホホ、まあ、きたない」  誰か笑うと、 「なにが、きたないか」 「お米を歯で噛んだりして造ったお酒が、なんできれいなことがあるものですか」 「ばかをいえ。おまえ達の歯で噛みつぶしたら、それや汚いどころじゃない、誰も飲み|人《て》はありはせぬが、まだ、春も芽ばえのなんの|穢《けが》れにもそまぬ、|処女《おとめ》が噛むのじゃ。花が蜜を吐くように噛んでは壺に|溜《た》めて|醸《かも》す酒。……ああわしはそのような酒に酔ってみたいがのう」  と、すでに酔っている船ばし様は、そばにいた十三、四の|禿《かむろ》の首へいきなり抱きついて、その唇へ肉の痩せた自分の頬を押しつける。 「——きゃアッ、いやあッ」  禿は悲鳴をあげて立つ。  すると、船ばし様は、にやにやと眼を右側へ転じて、 「ハハハ、怒るなよ、うちの女房——」  と、墨菊太夫の手をとって自分の膝の上に重ねて置く。それだけならよいが、顔と顔をつけて、一つ|杯《さかずき》を、半分ずつ飲んだり、しどけなく|凭《もた》れ合ったり、傍らに人間はいないようなまねをする。  光悦は、時折、杯に笑いをふくんで、女たちとも紹由とも、静かに|戯《たわむ》れたり話したりして同化しているが、ひとり武蔵は、ぽつねんとこの|雰《ふん》|囲《い》|気《き》から遊離していた。べつに自分だけが、|厳《いか》めしくなどしているつもりでは決してないが、恐いのか、女たちが第一彼のそばへ寄って来なかった。      四  光悦は|強《し》いないが、紹由は思い出したように時々、 「武蔵どの、飲まないか」  とすすめ、またしばらくすると、武蔵のまえにつめたくなっている杯が気になってならないように、 「どうじゃ武蔵どの、それを|空《あ》けて、熱いのを一|献《こん》ゆきましょう」  と、飲ませたがる。  それが、度重なってくると、だんだん言葉もぞんざいになって、 「|小《こ》|菩《ぼ》|薩《さつ》太夫、その息子に一つ飲ませてやってくれ。これ飲まぬか息子」 「いただいています」  と、武蔵は、そんな時に返辞でもするのでなければ、口をきく折が見出せなかった。 「すこしも杯があかないではないか。はてはて意気地のない」 「弱いのです」 「弱いのは、剣術じゃろう」  と、ひどい皮肉をいう。  武蔵は、笑って、 「そうかもしれません」 「酒をのむと、修行の|妨《さまた》げになる。酒をのむと、常の修養が乱れる。酒をのむと、意思が弱くなる。酒をのむと、立身がおぼつかない。——などと考えてござるなら、お前さんは、大したものになれない」 「そんなことは考えておりませぬが、ただ一つ、困ることがあるのです」 「なんじゃな、それは」 「眠くなってしまうことです」 「眠くなったら、ここでも、どこへでも、寝てしもうたがよいではないか。そんな義理を立てるすじは毛頭いらん沙汰じゃ」  といって、 「太夫」  と墨菊太夫へいった。 「この息子、飲むと眠くなるのが怖いというておる。それでもわしは飲ませてしまうから、眠くなったら、寝かせてやってくだされよ」 「はい」  と、太夫たちは皆、笹色に光る|唇《くち》を小さくして笑う。 「寝かせてやってくれるか」 「ようござります」 「ところで、介抱役はこの中の誰だな。のう光悦どの、誰がよいか、武蔵どのに、気に入りそうなのは」 「さあ?」 「墨菊太夫は、わが家の女房——小菩薩太夫は、光悦どのが苦々しかろう。——|唐《から》|琴《こと》太夫も……いけないな、ちと、さしあいが悪い」 「船ばし様、今に、吉野太夫がおみえなさりましょうが」 「それよ」  と、すっかり興に入っている|紹由《しょうゆう》は、膝を打って、 「吉野太夫、あの太夫なら、お客にもご不足はあるまい。……だがその吉野太夫は、まだ見えぬではないか。はやく、この息子どのに見せて上げてほしいなあ」  すると、墨菊太夫が、 「わたくし達とちがって、あの太夫様は、それはもう、引く手|数多《あまた》なお方、はやくと仰っしゃってもそうまいりませぬ」 「いいや、いいや、わしが来ていると告げれば、どんなお客も袖にして来るはずじゃ。誰か使い、使い」  のびあがって、紹由は次の間の炉のそばに遊んでいる|禿《かむろ》を見つけ、 「りん|弥《や》がおるの」 「おりまする」 「りん弥、ちょっとおいで、そなたは、吉野太夫つきの|禿《かむろ》であろうが、なぜ太夫をつれて来ぬのじゃ。船ばし様が、待ちわびているというて、吉野をこれへ連れて来ておくりゃれ。——つれてきたら褒美をやるぞよ」      五  その、りん弥という|禿《かむろ》は、まだ十か十一ぐらいだったが、もう人の目につく天麗の質を持っていて、やがての二代目吉野に|擬《ぎ》せられている|童女《こども》だった。 「よいか、分ったか」  紹由のいうことばを、分ったような分らないような顔をして聞いていたが、 「はい」  素直に、つぶらな眼でうなずいて、廊下へ出て行った。  後ろの障子を閉めて、廊下へ立つと、りん弥はすぐ大きな声を|弾《はず》ませて、手をたたいた。 「|采女《うねめ》さん、|珠《たま》|水《み》さん、糸之助さん。——ちょっと、ちょっと!」  部屋の中の禿はみな、 「なアに?」  ——明るい障子明りをうしろにして、そこに立ち並ぶと、禿たちは、りん弥といっしょに皆手を打ちたたいて、 「あら、あら」 「あら!」 「まあ!」  余りに部屋の外で、歓呼の足踏みが鳴るので、部屋の中で酒をのんでいる|大人《おとな》たちも、なにごとかと|羨《せん》|望《ぼう》に似た気持をおこして、 「なにを、はしゃいでいるのじゃ——開けてみなさい」  紹由のことばに、 「お開けいたしますか」  女たちが、そこの障子を左右へひろく開け放った。 「——あ、雪」  と皆、知らなかったように呟いた。 「寒いはず……」  と光悦は、もう白く見える自分の息へ杯を含ませ、武蔵も、 「オオ」  と、眼をそこへ移した。  |廂《ひさし》から外のふかい闇を、春にはめずらしい|牡《ぼ》|丹《たん》|雪《ゆき》が、ぼとぼとと音を立てて降りしきっている。その|黒《くろ》|繻《じゅ》|子《す》のような闇に光る雪の|縞《しま》の中に、|禿《かむろ》たちの姿が四つ、帯のうしろを見せて並んでいた。 「お|退《の》きなさい」  太夫が叱っても、 「うれしい」  と、禿たちはお客などを忘れて、不意に訪れた恋人のように、|沁《しみ》|々《じみ》、雪に見惚れていた。 「つもるかしら?」 「つもるでしょう」 「あしたの朝は、どんなかしら?」 「ひがし山が、真っ白になって——」 「|東《とう》|寺《じ》は」 「東寺の塔だって」 「金閣寺は」 「金閣寺も」 「|鴉《からす》は」 「鴉も——」 「嘘ばかり!」  |袂《たもと》で打つまねをすると、ひとりの|禿《かむろ》は、廊下から下へ転げた。  いつもなら、わっと泣き出して度々ある禿同士の喧嘩が始まったであろうに、思いがけなく、降りしきる雪を浴びたので、落ちた禿は、偶然な喜びでも拾ったように、起きあがると、もっと雪の身にあたる外へ出て行って、 [#ここから2字下げ] 大雪、小雪 |法《ほう》|然《ねん》さんは見えぬ 何してござろ |経誦《きょうよ》んでおざった 雪食べておざった [#ここで字下げ終わり]  突然、こう大声に歌いだして、口の中へ雪を吸いこむように身を|反《そ》らしながら、ふたつの|袂《たもと》で、舞い始めた。  その禿が、りん弥だった。  怪我でもしたのではないかと驚いて起ちかけた部屋の中の人々も、その勇壮活溌な舞を見て、 「もういい、もういい」 「上がれ上がれ」  笑いながらいたわった。  その代りに、りん弥はもう、|紹由《しょうゆう》にいいつけられて、吉野太夫を連れてくる使いをわすれていた。足がよごれたので、|下《しも》|部《べ》の女にかかえられて、|嬰《あか》ン|坊《ぼう》みたいに、どこかへ持って行かれてしまった。      六  かんじんなお使者がそんなことになってしまったので、船ばし様のご機嫌をそんじてはと、誰かが気転をきかして、吉野太夫の都合をうかがいに行ったとみえて、 「ご返辞を受けて参りました」  と、その女が、紹由のほうへ囁いた。  紹由はもう忘れていて、 「ご返辞?」  と、いぶかる。 「はい、吉野太夫様の」 「ああそうか、来るか」 「お越しになることは、どんなことをしてもお越しになると仰っしゃいましたが……」 「……ましたが……。なんじゃ」 「どうしても、今すぐとは、ただ今お見え遊ばしているお客様がご承知してくださいませぬ」 「——不見識な」  と紹由は、機嫌がわるくなった。 「ほかの太夫ならば、そういう挨拶も通るが、扇屋の吉野太夫ともある|傾《けい》|城《せい》が、買手どものわがままにまかせて、振り切って来られぬというのはどうしたものじゃ、吉野もいよいよ金で買われるようになったかな」 「いえ、そうではござりませぬが、こよいのお客様は、わけても、片意地で、太夫様が|去《い》ぬと仰っしゃれば、よけいに離してくれないのでござります」 「すべて、買手どもの心理は、みなそうしたものじゃろが。——いったいその意地のわるいお客とは誰じゃ」 「|寒《かん》|巌《がん》さまでございまする」 「寒巌さま?」  苦笑して、紹由が光悦のほうを見ると、光悦も苦笑して、 「かんがん様は、おひとりでお見えか」 「いいえ、あの」 「いつものお連れと? ……」 「ええ」  紹由は、膝をたたいて、 「いや、おもしろうなったぞ。雪はよし、酒はよし、これで吉野太夫が見えれば申し分のないところ。光悦どの、使いをやんなされ。——これ、これ女、そこの|硯筥《すずりばこ》、硯筥」  と、取り寄せて、光悦の前へ、|懐《かい》|紙《し》とそれを突きつけた。 「何を書きますか」 「歌でもよいし……文でもよいが……歌がよいな、先がなんせい当代の歌人じゃから」 「こまりましたな。……つまり吉野太夫をこちらへくれという歌でしょう」 「そうじゃ。その通り」 「名歌でなければ先の意をうごかすことはできません。名歌などがそう即吟でできるものではございません。あなた様が一つ、連歌を遊ばして」 「逃げたの。……よろしい面倒じゃから、こう書いてやろう」  紹由は筆を執って—— [#ここから2字下げ] わが|庵《いほ》へ うつせ吉野の ひと|本《もと》を [#ここで字下げ終わり]  それを見ると、光悦の吟興も、気が楽になったとみえて、 「じゃあ私が、下の句を書き添えてやりましょう」 [#ここから2字下げ] 花は|高《たか》|嶺《ね》の 雲さむからめ [#ここで字下げ終わり]  紹由はのぞき込んで、すっかり|欣《うれ》しがってしまい—— 「よしよし。花は高嶺の雲さむからめ……か。これはいい、|雲《くも》の|上《うえ》|人《びと》も、ぎゃふん[#「ぎゃふん」に傍点]であろう」  と、結び封にして、墨菊太夫の手へわたした。そしてしかつめらしく、 「|禿《かむろ》や、ほかの女どもでは、なんとのう権威がない。太夫、ご足労じゃが、かんがん様のところまで使者に行っておくれぬか」  といった。  かんがん様とは、|前《さきの》大納言の子烏丸参議光広のしのび名。いつものお連れというのは、おおかた徳大寺|実《さね》|久《ひさ》、花山院忠長、|大《おお》|炊《い》|御《み》|門《かど》頼国、|飛鳥《あすか》|井《い》|雅《まさ》|賢《かた》などというようなところの顔ぶれであろう。      七  墨菊太夫はやがて、先方から返辞をもろうて来て、ふたたびそこへ坐り、 「かんがん様からお返し」  といって、|紹由《しょうゆう》と光悦の前へ、うやうやしく|文《ふ》|箱《ばこ》をさしおいた。  こちらからは、軽い気もちで、戯れの結び文でやったのに、作法振った文箱の返し方に、 「改まったな」  と、紹由はまず苦笑する。  そして光悦と顔を見あわせ、 「まさかこよい、わしどもが来ておろうとは思わなかったろうから、連中も、きっと驚いたに違いないわさ」  と、遊戯的に何かこう、してやったりというような気持で、さて、文箱のふたを開き、返辞の手紙をひろげてみると、それはなにも書いてないただの白紙ではないか。 「……? おや」  紹由はほかにこぼれた紙でもあるかと、自分の膝をながめ、念のため、文箱の中をもういっぺん|覗《のぞ》いてみたりしたが、その白紙一枚のほか、何物もはいっていない。 「墨菊太夫」 「はい」 「これはなんじゃ」 「なんですかわたくしには分かりませぬ。ただ、返辞を持ってゆけと仰っしゃって、これを、かんがん様から渡されたので持って来ただけでござりまする」 「ひとを、小馬鹿に召されたな。……それともこちらの名歌に、すぐ筆をとってよこすほどの返歌もうかばで、あやまったという降参状かな」  なんでも自己のよいように解釈して、やたらに興がるのが紹由のもちまえらしい。だが、その独りぎめに何も自信があるわけではないから、すぐ光悦へそれを示して、 「のう、いったい、その返しは、どういう量見じゃろう」 「やはりなにか、読めという|意《こころ》でございましょうな」 「何も書いてない白紙を、どう読みようもなかろうではないか」 「いえ、読めば読めないことはありません」 「では光悦どのは、これをどう読む?」 「——雪。……いちめんの|白《しら》|雪《ゆき》とは読めましょう」 「ム、ウム、雪か。いやなるほど」 「吉野の花をこちらへ移してほしいという手紙の返しですから、これは、眺めて酒を|酌《く》むならば、花ならずとも——という意味でしょう。つまり折からこよいは雪のながめにも恵まれているのだからそんなに多情を起さずに、障子でも開け放して、雪だけでまあ飲んでいるがよろしい——と、こういう返辞と私は思いますが」 「ヤ、小憎いことを」と、紹由はくやしがって、 「そんな寒い飲み方をしていられるものではない。先様がそう出てござれば、こちらも黙ってひっこんではおられぬ。なんとしてでも、吉野太夫は、こちらの座敷に植えてながめねば納まらぬぞ」  紹由老人は、躍起になって、唇の乾きを|舐《な》め始めた。光悦よりはずっともう年とっていてこのくらいだから、若い時分にはずいぶんトラになって人に世話をやかせたものだろうと思われる。  光悦が、まあそのうちに、と|宥《なだ》めるほうに努めると、紹由は是が非でも吉野太夫をつれて来いと女たちを手こずらせる、それがまた、吉野太夫そのものよりは、酒の興をたすけるものとなって|禿《かむろ》たちも笑い転げ、遊びの座敷はようやく、外の降りしきる雪とともに今が|酣《たけなわ》の景色と見えた。  武蔵は、そっと席を立った。  |機《おり》がよかったので、誰も彼の席が|空《あ》いたのを気がつかなかった。     雪響き      一  何を思って、黙って酒席を抜けて来たのか、武蔵は廊下へ出ることは出たが、|扇屋《おうぎや》の奥の広さに、勝手がわからないで、独りでまごついていた。  明るい表座敷のほうには、遊客の声や音曲が賑わいたっているので、そこを避けると、当然、うす暗い|母《おも》|屋《や》の|布《ふ》|団《とん》部屋だの、道具部屋だのが目にふれて来る。台所に近いのであろう、|厨《くりや》の持つ特有なにおいが暗い壁や柱からむしむし湧いていた。 「——あら、お客さま。こんなほうへ来てはいけません」  そこらの暗い部屋からひょいと出て来て、|出合頭《であいがしら》に手をひろげ、こう、通せンぼをして立ちふさがった|禿《かむろ》がある。  座敷のあかりで見る時のあどけなさや可愛さはどこへかやって、ひどく自分たちの権利でも侵されたように、眼を|咎《とが》め立てて、 「いやなお人。こんなとこ、お客さまの来る所ではありません。はよう、あっちへ行ってください」  叱るように追い立てる。  美しく見せている自分たちの|穢《きたな》い生活の裏を、ちょっとでも他人に覗かれたのが、こんな小さい禿にも腹立たしかったのであろう。同時に、お客のたしなみを知らないお客と、武蔵を|蔑《さげす》んでそういったのであろう。 「ア、……こっちへ来てはいけなかったのか」  武蔵がいうと、 「いけません、いけません」  禿は、武蔵の腰を押して、自分も歩く。  武蔵はその禿を見て、 「お、そなたは、さっき縁がわから雪の中へ転げた、りん|弥《や》という子だな」 「え、そうです。お客さまは、お|後《こう》|架《か》へ行こうと思って迷子になったんでしょう。わたしが連れて行ってあげましょう」  と、りん弥は、彼の手と自分の手をつないで先へ引っ張った。 「いやいや、わしは酔っているのじゃない。すまないが、そこらの開いている座敷で、茶漬を一わん喰べさせてくれないか」 「御飯?」  眼をまるくして、 「御飯なら、お座敷へ持って行ってあげますのに」 「でも、せっかく皆が、ああやって愉快に酒を飲んでいるところだから——」  武蔵のことばに、りん弥も首をかしげて、 「それもそうですね。では、ここへ持って来てあげましょう。ご馳走は、何がいいんです」 「なにもいらない、握り飯を二つほど——」 「おにぎりでいいんですか」  りん弥は、奥へ駈けて行った。武蔵の望んだものはすぐそこへ来た。明りもない|空《あき》|部《べ》|屋《や》で、武蔵はそれを喰べ終ってしまうと、 「そこの裏庭から、外へ出られるだろうな」  と、訊く。  そしてすぐ、武蔵が立って縁の降り口へ歩み出したので、りん弥は驚いて、 「お客さま、どこへ行くのですか」 「すぐ戻って来る」 「すぐ戻って来るといっても、そんなところから……」 「表口から出るのも|億《おっ》|劫《くう》。それに、光悦どのや|紹由《しょうゆう》どのが気づくと、また、なにかとあの人たちの遊興を|妨《さまた》げるし、うるさくもあるからな」 「じゃあ、そこの木戸を開けてあげますから、すぐ帰っていらっしゃいね。もし帰って来ないと、わたしが叱られるかもしれません」 「よしよし、すぐ戻って来るよ。……もし光悦どのが訊ねたら、|蓮《れん》|華《げ》|王《おう》|院《いん》の近所まで、|知《しり》|人《びと》に会うために中座しましたが、間もなく帰ってくるつもりですといって出たと伝えてくれ」 「つもり[#「つもり」に傍点]ではいけません、きっと帰って来てください。あなたのおあいての太夫様は、わたしの付いている吉野太夫様ですからね」  雪の柴折戸を開けて、|禿《かむろ》のりん弥は、彼を外へ送り出した。      二  |遊廓《くるわ》の総門のすぐ外に、|編《あみ》|笠《がさ》茶屋というのがある。武蔵はそこを覗き、わらじはないかと訊ねたが、遊廓へ入る浮かれ男が、顔隠しの笠を求める店なので、元よりわらじを|鬻《ひさ》いでいるはずはない。 「すまないが、どこかで|購《あがの》うて来てくれまいか」  そこの娘にたのみ、その間、武蔵は|床几《しょうぎ》の端をかりて、帯、腰紐を締め直していた。  羽織を脱いで、ていねいに畳みつけ、筆と紙をかりうけて、なにか一筆しるした物を、結び文にして、その|袂《たもと》の中へしのばせ、 「ご亭主」  と、奥の|炬《こ》|燵《たつ》にうずくまっている年寄りへ、それを頼んだ。 「おそれいるがこの羽織を預かっておいてくれまいか。——もし拙者が、|亥《い》の下刻(十一時)までにここへ帰らなかったら、この羽織と添えてある一通とを、扇屋におられる光悦どのまで、お届けしてもらいたいが」 「はいはい、おやすいことでございます。たしかにお預かりしておきまする」 「時に、時刻は今、|酉《とり》の下刻(七時)か、|戌《いぬ》の刻(八時)ごろか」 「まだ、そうなりますまい。きょうは雪もようで、暗くなるのが早うござりましたからの」 「今、扇屋を出てくる前に、あそこの|土《と》|圭《けい》が鳴っていたが」 「ならば、それがおおかた、今、|柝《き》を打って廻っていた|酉《とり》の下刻でござりましょう」 「まだ、そんなものかのう」 「暮れたばかりでござりますもの。——往来の人通りを見ても知れまする」  そこへ娘が、わらじを買って来てくれた。武蔵は入念に、わらじの緒の|縒《より》を調べて、|革《かわ》|足袋《たび》のうえに|穿《は》いた。  彼の境遇としては多すぎる茶代をおいて、編笠を一つもらい、それはただ手に持って、頭のうえに|翳《かざ》しながら、散る花よりもやわらかな雪を払いながら雪の道をどこともなく立ち去った。  四条の河原近くには人家の灯もまばらに見えるが、|祇《ぎ》|園《おん》の樹立ちへ一歩入ると、そこらは雪も|斑《まだら》で、足もとも暗かった。  たまたま見える微かな明りは、祇園林に包まれた|燈《とう》|籠《ろう》や|神燈《みあかし》だった。神社の拝殿も社家の中も、人間はいないようにしんとしていて、ただ雪の音が、時折、樹々のこずえに響いて、その後をさらにしんとさせていた。 「さ、行こうか」  祇園神社の前に|額《ぬか》ずいて、なにか祈念していた一|群《むれ》の者が、今、どやどやと社殿の前から立ち上がった。  今し方、花頂山の寺々から、ちょうど|戌《いぬ》の刻——五ツの鐘がなりわたった。雪の夜のせいか今夜に限って、鐘の音は|腸《はらわた》に沁みるほど冴えて聞えた。 「御舎弟さま。わらじの緒はだいじょうぶでござるか。こう寒い——凍るような晩には、きつい緒も、ぷつりと切れ|易《やす》うござりますぞ」 「心配するな」  吉岡伝七郎だった。  親族の者や、門弟中の|重《おも》なる者、十七、八人が彼を取り巻いて、寒いせいもあろうが皆、そそけ立った顔つきを揃えていた。彼のまわりを取り囲みながら、|蓮《れん》|華《げ》|王《おう》|院《いん》のほうへ歩いてゆくのである。  今、起って来た祇園神社の拝殿のまえで、伝七郎はもう全身一点のすきもなく決闘の身仕度を済まして来ていた。鉢巻、革だすき、いうまでもないことである。 「わらじ? ……わらじは、こういう折には|布《ぬの》|緒《お》とかぎっているものだ。おまえ達も覚えておけ」  伝七郎は雪を踏みしめながら、白い息を大きく吐き捨てて、一同の中に歩いていた。      三  日暮れまえに、太田黒|兵助《ひょうすけ》たち三名の使いの者から、武蔵の手へ、|確乎《しか》とわたして承諾を取った果し合いの出合い状には、 [#ここから2字下げ] 場所 蓮華王院裏地 時刻 |戌《いぬ》の|下《げ》|刻《こく》(九時) [#ここで字下げ終わり]  と、してあったのである。  明日をも待たないで——今夜の|戌《いぬ》の刻という|遽《にわ》かな指定をしてやったのは、伝七郎もそれがよいと考えたし、親族や門下の者も、 (猶予を与えて、もし逃げ出されては、ふたたび京都で彼をつかまえることは出来ないから)  という想定のもとに一致した作戦であって、その使いに行った太田黒兵助が、この群れの中に見えないところをみると、彼だけは、あのまま堀川船橋の灰屋|紹由《しょうゆう》の家の附近にうろついていて、その後の武蔵を、ひそかに尾行しているのかもしれない。 「……誰だ? 誰か先へ来ているようだな」  伝七郎はそういって、蓮華王院の裏の|廂《ひさし》の下に、赤々と、雪の中に火を|焚《た》いている者を、遠くから見つめた。 「|御《み》|池《いけ》十郎左と、植田良平でしょう」 「なに、御池や植田良平まで来ているのか」  伝七郎は、むしろ、うるさいといいたげな顔をして、 「武蔵ひとりを討つのに、仰山すぎる。たとえ、仕果しても、あれは大勢で討ったのだといわれてはおれの|沽《こ》|券《けん》にもかかわるからな」 「いや、時刻が来たら、われわれは立ち|退《の》きますから」  蓮華王院の長い|御《み》|堂《どう》の|廊《ろう》|架《か》は、俗に|三十三間堂《さんじゅうさんげんどう》ともよばれているところである。長い廊架は、矢を放つ距離といい、|的《まと》|場《ば》を置くところといい、弓を射るには絶好の場所だとされて、いつのころからともなく、射具をたずさえて来て、独りで練技を試している者がぼつぼつ増えていた。  ——そんなことからふとこの場所を思いついて、こよいの試合場として、武蔵へいってやったのであるが、来てみると、弓以上、果し合いにはなおさら足場がよい。  何千坪かの雪の地域には、雑草や根笹の|凸《でこ》|凹《ぼこ》も見えず、きれいに|淡《あわ》|雪《ゆき》が積っている。ところどころに、松の樹はあるが、それも密生した林ではなく、極めて|疎《まば》らに、この寺院の風致を添えている程度なのである。 「——やあ」  先に来て、そこで火を焚いて待っていた門人が、伝七郎を迎えるとすぐ火のそばから立って、 「お寒かったでございましょう。まだ時刻はよほどあります。十分、お体を暖めて、御用意にかかっても遅くはありません」  御池十郎左衛門と、植田良平のふたりだった。  良平の腰かけていたあとへ、伝七郎はだまって腰をおろした。支度はもう祇園神社のまえですっかり済まして来たのである。伝七郎は、|焚《たき》|火《び》の|焔《ほのお》に手をかざして、両手の指の節を、一本一本ぽきぽきと鳴らしながら|揉《も》んでいた。 「——ちと早すぎたかな」  |煙《けぶり》に顔をいぶしながら、もうそろそろ殺気を帯びて来ている顔を|顰《しか》め、 「いま来た途中に、腰かけ茶屋があったなあ」 「この雪で、もう戸を閉めておりましたが」 「たたき起せば起きるだろう。——誰かそこへ行って、酒を|提《さ》げて来ないか」 「え、酒をですか」 「そうだ、酒がなくっちゃあ……とても寒いわ」  伝七郎はそういって、火を抱くようにかがみ込んだ。  朝でも晩でも、道場に出ている時でも、伝七郎の体から酒のにおいの消えたことがないことは知っているが、こん夜のような場合——やがて一族一門の浮沈を賭して当ろうとする敵を待つ今のわずかな間に、その酒が、伝七郎の戦闘力に、利となるか、不利となるかを、門弟たちは、いつもの酒とちがって、熟考せずにいられなかった。      四  この雪に、|凍《こご》えた|手《て》|肢《あし》をして、太刀を持つよりは、少しぐらいの酒ならば、体に|容《い》れたほうが、かえってよかろうと考える者のほうが多かった。 「それに、御舎弟が、ああいいだしたものを、その気持をこじらせるのは、なおよろしくない」  こういう|尤《もっと》もな意見もあって、門弟の中の二、三が駈け出して行って、間もなく酒を買って来た。 「やあ来たな、どんな味方よりも、以上の味方は、これだ」  焚火のぬく[#「ぬく」に傍点]灰にあたためた酒を、伝七郎は茶碗につがせ、こころよげに飲んでは、争気に満ちた息を吐く。  いつものように、量をたくさんに参られてはよくないがと、側にいてはらはらしている者もあったが、そんな心配までに及ばず、伝七郎は心得ていつもより少なくしか飲まなかった。自己の生命にかかわる大事を、すぐ前にひかえているので、豪放には|装《よそお》っていても、ここにいる誰よりも肚の底から緊張しているのは、やはり彼自身だった。 「——や、武蔵?」  不用意に、誰かがこう放った一声に、 「来たか」  焚火を囲んでいた面々が、腰を蹴られたように、一度にどっと立って、その|袂《たもと》やその裾から、火の粉の|塵《ちり》が雪の空へ赤く散った。  三十三間堂の長い建物の角に現われた黒い人影は、遠くから手をあげて、 「わしじゃ、わしじゃ」  と、断りながら近づいて来た。  |袴《はかま》を短くからげて、かいがいしい支度はしているが、腰から背はもう弓になりかけている老武士なのである。門弟たちはそれを見ると、源左衛門様だ、|壬《み》|生《ぶ》の御老人だといい合って、ひそまり返った。  壬生の源左衛門というこの老武士は、先代吉岡拳法の実弟にあたる人で、つまり拳法の子の清十郎や、ここにいる伝七郎にとっては実の叔父にあたる者だった。 「おう、これは壬生の叔父上、どうしてこれへ」  伝七郎も、この人が今夜ここへ来るなどとは思ってもいなかったらしく、意外な|態《てい》で迎えると、源左衛門は火のそばに来て、 「伝七郎、おぬしほんとに、やるのじゃなあ。……いや、おぬしのその姿を見て、ほっと|安《あん》|堵《ど》いたした」 「叔父上にも、一応ご相談にあがろうと思っていましたが」 「相談、なんの、相談などに及ぼうか。吉岡の名に、泥をぬられ、兄を片輪にされて、黙っているようだったら、わしが|其方《そち》を責めに出向こうと思っていたくらいじゃ」 「ご安心ください。柔弱な兄とはちがうつもりですから」 「そこはわしも信頼しておる。そちが負けようとは思わんが、|一《ひと》|言《こと》、励ましてくれようと思って、壬生から駈けつけて来たのじゃ。——だが伝七郎、あまり敵を軽視して臨むなよ、武蔵という者も、うわさを聞けば、なかなかな男らしい」 「心得ています」 「勝とう勝とうと|焦心《あせ》らぬがよいぞ。天命にまかせろ。万一のことがあったら、骨は源左衛門がひろってやる」 「ハハハハ」  伝七郎はわらって、 「叔父上、寒さ|防《よ》けに」  と、酒の茶碗を出した。  源左衛門はだまって、それを一杯飲んでしまうと、門弟たちを見まわして、 「各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]は、何しに来ているのか。よもや、助太刀ではあるまいな。——助太刀でなかったら、もうこの場所から引き揚げたほうがよかろう。こう物々しくかたまっているのは、一人と一人の試合に何やらこっちに弱味があるようでいかん。勝っても、人の口がうるさいものだ。……さ、そろそろ時刻も近づいたろうから、わしと共に、どこか遠くに|退《ひ》いていることにしよう」      五  すぐ耳元で大きく鐘が鳴ったのは、もう、だいぶ前のような気がする——  あれは確かに|戌《いぬ》の刻であった。そうすると、約束の戌の下刻は、もうやがて迫っているところだが——と思う。 (出遅れたな、武蔵は)  伝七郎は、白い夜を見まわしながら、ただ独り、燃え残りの|焚《たき》|火《び》をかかえている。  |壬《み》|生《ぶ》の源左衛門叔父の注意で、門弟たちはみな立ち去ってしまった。|足《あし》|痕《あと》だけが、その後の雪に|際《きわ》だって黒く数えられる。  ——ぽきっと、時々、凄じい音がした。三十三間堂の|廂《ひさし》の|氷柱《つらら》が折れて落ちるのである。また何処かで、雪の重さに樹の枝が裂けるのであった。その度ごとに、伝七郎の眼は鷹のようにうごいた。  その鷹の影にも似た男がひとり、その時雪を蹴って、|彼方《むこう》の樹の|間《ま》から敏速に、伝七郎のそばへ馳せて来た。  武蔵の行動を監視しつつ、宵のうちからここと連絡をとって報告していた数名の中の最後の一人太田黒兵助だった。  今夜の大事が、もう|眉《まゆ》を|焦《や》く所まで迫って来たことは、その兵助の顔つきだけでも、訊かないうちに分った。  足も地につかない様子で、|喘《あえ》いで来た息の|弾《はず》みを、 「来ましたぞッ!」  と、そのまま告げた。  伝七郎は、これを聞く前に、|疾《と》く察して、火の側から立ち上がっていたのである。——そして、彼のことばを聞くとすぐ、 「来たか」  と、おうむ返しにいって、その足が無意識のように、燃え残りの焚火を踏みにじっていた。 「——六条柳町の編笠茶屋を出てから、雪がふるのに、武蔵め、牛のようにのそのそ歩いておりましたが、たった今、祇園神社の石垣をのぼって境内へはいりました。——拙者は、廻り道してここへ来ましたが、あののろい足つきでも、もう姿を見せるはずです、御用意を!」 「よしッ。……兵助」 「は」 「|彼方《あ っ ち》へ行っておれ」 「皆は」 「知らん。その辺にいては、眼ざわりだ、立ち去れ」 「はッ……」  といったが、兵助は、そこをはずして去る気にはなれなかった。伝七郎の足が、雪泥の中へ、火をすっかり踏みつぶし、武者ぶるいしながら|廂《ひさし》の下から出て行くのを見届けると、彼は反対に、御堂の床下へもぐって、闇の中に|屈《かが》み込んでいた。  床下にいると、外にはないと思っていた風が|冷《ひえ》|々《びえ》と動いていた。太田黒兵助は、自分の膝を抱えこんだまま、骨まで冷えてゆく体がわかった。ガチガチと奥歯が鳴るのをどうしようもなかった。それは寒さのせいであると、自分の観念を|強《し》いてうなずかせながら、時々、|尿《いばり》でもつかえたように、腰の下から顔の先までぶるぶると身ぶるいを走らせていた。 (……はてなあ?)  外は昼間よりもよく見えるのである。伝七郎の影は三十三間堂の下から約百歩ほど離れて、背のたかい|一《ひと》|幹《みき》の松の根かたに足場を踏みしめ、武蔵のすがたが見えるのを、いまやおそしと待ち構えているのだ。  ——だが、兵助が胸で計っていた頃あいは、とうに過ぎたのに、武蔵はまだここへ来なかった。宵のうちほどではないが、雪がまだチラチラとこぼれているし、寒さは肌に|咬《か》みつくようだし、火の気も酒の気もさめてくるし——伝七郎の|焦《いら》|々《いら》している|態《さま》が、遠くからでもよく分るのであった。  ——ざあッ、と突然伝七郎の神経を驚かしたものがあると思うと、それは、|梢《こずえ》から滝のように落ちて来た雪に過ぎなかった。      六  もっとも、こういう場合の|一瞬《ひととき》というものは、待つ方になると、わずかな間も、耐えきれない|焦躁《しょうそう》になるのは勿論である。  伝七郎の気持も、太田黒兵助の気持も、その例に洩れない。殊に兵助は、自分のした報告に責任を感じてくるし、寒さは体から霜が立つようだし——もう、|一瞬《ひととき》、もう一瞬と、その焦躁を抑えていても依然として武蔵の影は見えて来ないし——  たまらなくなって、彼は、 「どうしたのかなあ?」  床下から出て、|彼方《かなた》に立っている伝七郎へ何か呼びかけた。 「兵助、まだいたのか」  伝七郎も同じ気もちでこう声を返した。どっちからともなく二人は接近していた。そしてすべてがただ真っ白な雪の夜を見廻して、 「……見えぬ!」  と、|呻《うめ》きに似た|不審《いぶか》りを繰返していた。 「|彼奴《きゃつ》、逃げ|失《う》せたな」  伝七郎がつぶやくと、 「いや、そんなはずは……」  太田黒兵助はすぐ打消した。そして極力、自分の確かめて来たところをもって、自分で保証づけるように|喋舌《しゃべ》っていると—— 「や?」  聞いている伝七郎の眼が急に横へ反れた。  ——見ると、蓮華王院の|庫《く》|裡《り》のほうに、ポチと手燭の灯が揺らぎ出している。灯を持って来るのは一人の僧で、後から誰やら|尾《つ》いてくる人影もわかる。  その二つの人影と、一点の小さな灯は、やがて、境の|扉《と》を開けて、三十三間堂の永い縁の端へ立つと、こう低い声で話していた。 「——夜分は、どこもかしこも、閉め切っておりますので、よう存じませぬが、たしか宵の頃、この辺りで、暖を取っていたお武家方がございましたから、それが、あなたの尋ねているお方達かもわかりませんが、もう、誰もいないようでございますな」  それは、僧の言葉だった。  それに対して、ていねいに、なにか礼をのべているのは、案内されて来た方の者で—— 「いや、せっかくお休みのところを、お邪魔いたして申しわけありません。……あの|彼方《むこう》の樹の下に、二人ほど|佇《たたず》んでおるようですから、あの者が、蓮華王院で待つといってよこした当人かも知れません」 「では、たずねて御覧なさい」 「ご案内は、もうここまでで結構です、どうぞお引取りくださるように」 「なにか、雪見でもなさろうという御会合で?」 「まあ、そんなものです」  と、一方は軽く笑う。  僧は手燭を消して、 「いわでもがなのことではありますが、もしこの|廂《ひさし》のお近くで、さっきのように火でもお焚きになる場合は、どうぞ、後の残り火だけはご注意くださいますように」 「わかりました」 「では御免を」  僧は、そこの|扉《と》を閉めて、|庫《く》|裡《り》のほうへ立ち去ってしまう。  残っていた一方の者は、じっと伝七郎の方を見ながらしばらく|佇《たたず》んでいた。そこは|廂《ひさし》の蔭で、ほかの雪明りが眼を刺すように強いために、そこの暗いのが、よけいに濃く感じられるのであった。 「誰? 兵助」 「|庫《く》|裡《り》の方から出てきたようですが?」 「寺の者ではないらしいぞ」 「はてな」  歩むともなく、二人は三十三間堂の縁のほうへ、二十歩ほど近づいて行った。  すると、御堂の端のほうに見えた黒い人影も位置を移し、長い縁の中程あたりまで来ると、その足をぴたりと止めた。そして結びかけていた|革襷《かわだすき》の端を、左の|袂《たもと》のわきで、きびしく締めているような様子であった。その様子までを眼に受け取れる距離までは——何気なく進んで行った二人であったが、ぎくっと、足の方が先に雪の中から抜けなくなってしまった。  そして、ふた息か三息、間をおいてから、 「——あっ、武蔵!」  伝七郎が大きくいった。      七  互いに正視し合って、  武蔵!  と伝七郎が最初の声を発した途端から、こう二人の立場は、すでに武蔵の方が、絶対に有利な地を占めていることをこの場合見のがすことはできない。  なぜ、というまでもなかろうが、一応、二人の対立している地歩を見るならば、武蔵は自分の身を、敵よりも何尺か高い縁の上に置いている。反対に伝七郎は、敵から眼の下に|睥《へい》|睨《げい》されている地上にある。  それのみでなく、武蔵はまた絶対に|背後《うしろ》が安全だった。三十三間堂の長い壁を背にしているのであるから、たとえ、左右の横から挟撃しようとする者があっても、縁の高さが|自《おのずか》ら一つの防ぎをなしているし、後顧なく、一方の敵へ意力をそそぐことができる。  伝七郎の|背後《うしろ》はといえば、無限の|空《くう》|地《ち》と雪風であった。かりに相手方の武蔵には、助太刀は来ていないと承知していても、その広い背中の空地を、決して無関心でいるわけにはゆかなかった。  だが、|倖《さいわ》いなことには、彼のそばには太田黒兵助がいた。 「|退《の》けっ、|退《ど》いていろっ、兵助——」  こう、袖を払うように、伝七郎がいったのは、むしろ兵助が下手な手出しをしてくれるよりも、遠く離れて、一人と一人との絶対的なこの地域を、見守っていてくれた方が力に思われたに違いないのである。 「よいか」  これは、武蔵の言葉だった。  水をかぶせるような静かないいかただったのである。  伝七郎は、ひと目見るとともに武蔵の顔に対しても、その足の先までを、 (こいつか)  という憎念で見ずにいられなかった。肉親の意趣もある。|巷《ちまた》の取沙汰に比較されている|忌《いま》|々《いま》しさもある。また地方出の|駈《かけ》|出《だ》し剣客がという|蔑《さげす》みも頭へ先に入っている。 「だまれっ」  |刎《は》ね返すように出た語気は、彼としては自然だった。 「——よいかとは、何がよいかというぞ。武蔵! |戌《いぬ》の下刻は、もう過ぎておる」 「下刻の鐘と、きっちり、同時にとは約束していない」 「|詭《き》|弁《べん》を吐くなっ。こっちはとうに来て、この通り身支度して待ちぬいていた。——さっ、降りろ」  不利な立場のまま、|無《む》|碍《げ》に進んでゆくほど、伝七郎も相手を軽んじてはいない。当然こういって敵を誘った。 「今——」  と、軽く答えておいて、武蔵はその間に、機を|観《み》ているような眼ざしだった。  機を観るといえば、伝七郎は武蔵のすがたを眼の前にしてから、満身の肉に戦いの生理を起していたが、武蔵のほうでは、彼の肉眼に自分を示す前から、とうに戦いを開始しているつもりで、戦いの中身を持って臨んで来ている。  証拠だてて、彼のその心事をいってみるならば、彼はまず、わざと道でもない寺院の中を通過していた。もう|憩《やす》んでいる寺僧の世話までかけて、広い境内を歩かずに、この御堂の縁へ、いきなり建物伝いに来て立ったのでも分る。  |祇《ぎ》|園《おん》の石段をのぼった時、彼はもう多数の人間の足痕を雪の中に見たに違いない。あらゆる即智はそこで働いた。自分のうしろを|尾行《つけ》ていた者の影が自分から離れると、彼は、蓮華王院の裏地へ行くのに、わざとそこの表門へ入ってしまったのだった。  寺僧について、十分に、宵のうちからのこの附近の予備知識を得、そして茶ものみ、暖も取り、少し時刻が過ぎたのも承知しながら、唐突に、当の敵と面接するという策を取ったのである。  第一の機を、武蔵はこうして|掴《つか》んだ。第二の機は、しきりと今、伝七郎の方から誘うのであった。その誘いに乗せて出るのもまた戦法だし、|外《そ》らして自身から機を作るのもまた戦法である。勝敗の|相《そう》のわかれ目は、ちょうど水に映っている月影に似ている。理智や力を過信して的確にそれを掴もうとすればかえって生命を月に溺らせてしまうにきまっている。      八 「出遅れたうえ、まだ支度が整わぬのか。ここは、足場がわるい」  |焦立《いらだ》つ伝七郎へ、武蔵は飽くまで落着きはらって、 「今参る」  と、いった。  怒れば、必ず敗れる端をなすことを、伝七郎も知らないではない。だが、まるで故意のような武蔵の態度を見ていると、そういうふだんの修得と感情がばらばらにならずにいられないのである。 「来いっ! もっと広場のほうへ! お互いに、名はいさぎよくしておきたい。|姑《こ》|息《そく》な振舞い、卑怯な立ち合い、そんなものへ、|唾《つばき》して生きてきた吉岡伝七郎だっ。——武蔵っ、仕合わぬまえに、|怯《おじ》|気《け》を抱くようでは、伝七郎の前へ立つ資格はないぞっ、降りろそこを!」  ようやく彼が、|呶《ど》|鳴《な》りつづけ出すと、武蔵はニッと歯を少し見せた。 「なんの、吉岡伝七郎の如き、すでに去年の春、拙者が真二つに斬っている! きょう再び斬れば、おん身を斬ることこれで二度目だ!」 「なにっ! いつ、どこで」 「大和の国柳生の庄」 「大和の」 「綿屋という|旅籠《はたご》の風呂の中で」 「や、あの時?」 「どっちも、身に寸鉄も帯びていない風呂の中であったが、眼をもって、この男、斬れるかどうかを自分は心のうちで計っていた。そして、眼で斬った、見事に斬れたと思った。しかし、そちらの体には何の|形《かた》も現さないから、気づきもせずにおったろうが、おん身が、剣で世に立つ者と|傲《ごう》|語《ご》するならば、余人のまえでいうなら知らぬこと、この武蔵のまえでいうのは笑止だ」 「なにをいうかと思えば、愚にもつかぬ|吐《ほ》ざき|言《ごと》。だが、少しおもしろい、その独りよがりを|醒《さ》ましてやろう。来いっ。|彼方《むこう》へ立とう」 「して伝七郎、道具は、木太刀か、真剣か」 「木太刀も持たずに参って何をいう。真剣は覚悟のうえで来たのと違うか」 「相手が木太刀を望みとあれば、相手の木太刀を奪って打つ」 「広言、やめろッ」 「では」 「おっ」  ——伝七郎の|踵《かかと》は、雪の上に黒い斜線を一間半も描いて、さっと武蔵の通る空間を与えた。——しかし武蔵は、縁の上を横へ二、三間つつつつと歩いてから雪の中へ降りていた。  ふたりは、御堂の縁からそう何十間も先までは歩いて行かなかった。そこまで行く間が伝七郎にはもう待ちきれないものになっていた。やにわに、相手へ重圧を加えるような一|喝《かつ》を浴びせると、彼の体格に|均《つ》り合っている長刀が、いかにも軽いもののように、びゅっ——と微かな鳴りを発して、武蔵のあった位置を正確に|薙《な》ぎ払っていた。  だが、力点の正確さが、敵を両断する正確さとはあながちいえない。対象のうごき方は、|刀《とう》の速度よりも、もっと|迅《はや》かった。——いやそれ以上に迅速だったのは、その敵の|肋骨《あばら》の下から噴いて出た白刃であった。      九  きらっと、二すじの刀が、宇宙に|閃《ひら》めいたのを見て後は、降る雪の地へ落ちてくるさまは如何にものろいものに見えた。  けれど、その速度にも、楽器の音階のように、|徐《じょ》、|破《は》、|急《きゅう》があった。風が加われば急になり、地の雪を捲いて|旋風《つむじ》になると、破を起す。そしてまた、|白《はく》|鵞《が》の毛が舞うような静かな雪景色に返って降った。 「…………」 「…………」  武蔵と伝七郎との、ふたりの刀も、お互いの刀が|鞘《さや》を走ったと見えたその一瞬には、もうどっちかの肉体は、到底無事ではあり得ないと考えられるところまで迫り合い、同時に二つの刀の動き方にも複雑な光があったように見えたが、それが、ぱっとふたりの|踵《かかと》が雪煙を揚げ、|後方《うしろ》へ離れあうと——どちらの身もまだ健在であって、白雪の大地に、|一《ひと》|滴《たら》しの血しおもこぼれていないことが、なんだかあり得ない奇蹟のようにしか思われなかった。 「…………」 「…………」  それきり、ふたすじの刀は、さっきから切っ先と切っ先との間に約九尺ほどな距離をおいたまま、空間に固着しているのである。  伝七郎の眉毛に雪がたかっていた。その雪が解けると、露になって、眉毛からまつ[#「まつ」に傍点]毛の中へながれ込むらしいのである。ために時々、顔を|顰《しか》めると、その顔筋肉が無数の|瘤《こぶ》みたいに動き、そしては、くわっと大きな眼をひらき直していた。そこから飛び出しそうな眼孔は、まるで鉄を|熔《と》かしている炉の窓のようであり、それとともに|唇《くち》は、下腹からしている呼吸を、極めて平調に通わせているかのように見せていても、実は|鞴[#「鞴」はWinIBM拡張文字 Unicode=97b4]《ふいご》のような熱|臭《くさ》い|火《か》ッ|気《き》をもっていた。 (——|過《しま》った!)  伝七郎は、敵とこういう|対《たい》|峙《じ》になるとすぐ、胸のなかでそう悔いていた。 (なぜ、きょうに限って、|青《せい》|眼《がん》につけてしまったか。いつものように|頭《ず》|高《だか》に振りかぶってしまわなかったか)  頻りと、その後悔が頭のなかを往来する。といっても人間のふだんにする思考のように脳だけで物事をのん気に判断していられる状態ではない。体じゅうの血管のうちを、どっどっと、音をたてて駈けている血がみな思考力を持ってそう感ずるのだった。頭の毛も、眉毛も、全身の毛髪はいうまでもなく、足の爪までが、生理的に動員されて、敵へ向ってそそけ[#「そそけ」に傍点]立った戦闘の姿態を示しているのだった。  こう刀を構えて持つのは——|青《せい》|眼《がん》|身《しん》となって戦うのは——伝七郎は自分の不得手であることを知っていた。だから、|肱《ひじ》を上げ、真っ向に持ち直そうと、先程から幾度となく、切っ先を上げかけたが、どうしても上げられなかった。  ——武蔵の眼が、その機を、待っているからである。  その武蔵もまた、青眼に刀をぴたりと——やや肱をゆるめに構えていた。伝七郎の肱の屈曲しているところには、めりめりといいそうな力が見えるが、武蔵の肱には手で押せば下へも横へも動きそうな柔かさが見える。——そしてまた、伝七郎の刀が前にもいったように、時折、位置を改めようとして動いては止め動いては止めしているのと反対に、武蔵の手にある刀は、びくとも動かなかった。その細い|刀背《みね》から|鍔《つば》にかけて、微かに雪がつもるほど動かずにあった。      十  彼の|破《は》|綻《たん》を祈る、彼の隙をさがす、彼の呼吸を計る、彼に勝とうとする、飽くまで勝とうとする。八幡、ここぞ生死のわかれ目と思う。  そういう意識が、脳裡にちらついている間は、相手の伝七郎がまるで|巨《おお》きな|巌《いわお》のように見え、 (これは)  と、武蔵も、その豪壮な存在からうける一種の圧迫感を、はじめはどうしようもなかった。 (敵は、おれよりも|上《うわ》|手《て》だ)  正直に、武蔵は、そう思ったのである。  同じ|負《ひ》け|目《め》は、小柳生城のうちで柳生の四高弟に囲まれた時にもうけた。彼のその負け目に似た自覚というのは、柳生流とか吉岡流とかいう正法な剣に向ってみると、自分の剣がいかに野育ちの型も理もない|我《が》|法《ほう》であるかがよく分ることだった。  今——伝七郎の構えているさまを見ても、さすがに吉岡拳法というあれだけの先人が、一代を費やして工夫しただけのものが、単純のうちに複雑に、豪放なうちに賢密に、ひとつの整った剣のすがたを|作《な》していて、ただ力とか、精神とかいうだけのもので|圧《お》して行っても、決して破り得ないものがあった。  |生《なま》|半《はん》|可《か》、武蔵には、それが|観《み》えるだけに、手も、足も出ない心地がしてしまうのだった。  で当然、武蔵は無謀になれなかった。  彼のひそかに自負している|我《が》|法《ほう》も野人ぶりも振舞えなかった。こんなはずはないと思うくらい、こよいの|肱《ひじ》は伸びてゆかない。じっと、保守的に構えを持っているのが呼吸いっぱいであった。  その結果、心で払っても払っても、 (隙を)  と、眼に充血を来し、 (八幡)  と勝ちを祈り、 (勝たねば)  と、躍起な|焦《あせ》りが湧いて来て、心はいよいよ|躁《さわ》がしい。  多くの場合、たいがいな者が、ここで渦潮に巻込まれたように狼狽に|墜《お》ちて溺れるのであった。しかし武蔵は、なんの心機をつかむともなく、そのあぶない自分の昏迷からふと浮び上がっていた。これは彼が、一度も二度も、生死のさかい目を踏んで来た体験の賜物にほかならぬものであろう。——はっと眼を拭かれたように気が醒めていたのである。 「…………」 「…………」  依然として青眼と青眼との対峙のままだった。雪は武蔵の髪の毛に積り、伝七郎の肩にも積っていた。 「…………」 「…………」  |巌《いわお》のような敵はもう眼の前になかった。同時に、武蔵という自己もなくなっていた。そうなる前に必然、勝とうという気持すらどこかへ消え失せてしまっている武蔵であった。  伝七郎と自分との約九尺ほどな距離の空間をチラチラと静かに舞っている雪の白さ——その雪の心が自分の心かのように軽く、その空間が、自分の身のようにひろく、そして天地が自分か、自分が天地か、武蔵はあって、武蔵の身はなかった。  すると、いつのまにか、その雪の舞う空間を縮めて、伝七郎の足が前へ出ていた。そして刀の先に、彼の意思が、ビクとうごきかけた。  ——ぎゃっッ!  武蔵の刀は後ろを払っていたのである。その刃は、彼の背後から這い寄って来た太田黒兵助の頭を横に薙ぎ、ジャリッと、|小豆袋《あずきぶくろ》でも斬ったような音をさせた。  大きな|鬼燈《ほおずき》みたいな頭が、武蔵の側を勢いよくよろけて、伝七郎の方へ泳いで行った。その歩いて行った死骸につづいて、武蔵の体も咄嗟に——敵の胸を蹴飛ばしたかと思われるほど高く跳んでいた。      十一  四方の|静寂《しじま》を|劈《つんざ》いて「ア——ああっッ」と、|亀裂《ひび》のはいった声だった。伝七郎の口からである。満身から発した気合いが、途中でポッキと折れたように、宙へその一声が|掠《かす》れて行ったと思うと、彼の|巨《おお》きな体が、後ろへよろめき、どっ——と真っ白な雪しぶきに包まれた。 「まッ、まてッ」  大地へ伸びた体を無念そうに曲げ、雪の中へ顔を埋めながら、伝七郎がこう|呻《うめ》くようにいった時はもう、武蔵の影は、彼のそばにはいなかったのである。  俄然、それに答えたものは、遥か|彼方《かなた》で—— 「おうっ」 「御舎弟の方だ」 「た、たいへんだ」 「みんな来いっ」  どどどどと、|潮《うしお》の駈けて来るように、雪を蹴って、黒い人影がここへ集まって来る。  いうまでもなく、遠く離れて、かなり楽観的に、勝負のつくのを待っていた親類の|壬《み》|生《ぶ》源左衛門やその他の門人たちだった。 「ヤ! 太田黒まで」 「御舎弟っ」 「伝七郎様っ」  呼んでも、手当しても、もういけないことはすぐ分った。  太田黒兵助の方は、右の耳から横へかけられた太刀が口の中まで斬られているし、伝七郎の方は、頭の頂上からやや斜めに鼻ばしらを少し|外《はず》れて、眼の下の|顴《かん》|骨《こつ》まで斬られている。  ともに、たった一太刀だった。 「……だ、だからわしが、いわんことではない。敵を|侮《あなど》るからこんなことになったのじゃ。……伝、伝七郎っ、これっ、これっ、伝七……」  |壬《み》|生《ぶ》の源左衛門叔父は、|甥《おい》のからだを抱いて、愚を知りながら、死骸に向って悔やんでいた。  いつのまにかその人々の踏みつけている雪はいちめん桃色に変っていた。——自分も死者の方にばかり気をとられていたが、壬生の源左老人は、ただうろうろと度を失っている|他《ほか》の者に腹が立って、 「相手はどうしたっ」  と、呶鳴りつけた。  その相手の所在を、他の者も気にとめてないわけではなかったが、いくらキョロキョロしても、武蔵の影は、もう自分達の視野からは見出せなかったので、 「——いない」 「——おりません」  |痴呆《うつけ》のような返辞をすると、 「いない|理《わけ》があるかっ」  源左衛門は歯がみをしながら、 「わしらが駈け出すまで、たしかに突っ立っていた影がここに見えたのじゃ。まさか、翼のあるわけでもあるまい、一太刀、武蔵に|酬《むく》わんでは、吉岡の一族として、わ、わしの面目が立たぬ」  すると、そこにかたまっている大勢の中から一人があッといって、指さした。  自分たちの仲間から|発《だ》したあッという声であるのに、その衝動をうけて皆、どっと一歩ずつ|後方《うしろ》へ身を|退《ひ》き、そして、指さした者の指先へじっと視線をそろえた。 「武蔵」 「オオあれか」 「うーむ……」  一瞬、なんともいえない|寂寞《じゃくまく》の気が|漲《みなぎ》った。人のない天地の静かさよりも、人中の空気にふと湧いた寂寞のほうが不気味な霊魂をふくんでいた。|鼓《こ》|膜《まく》も頭の中も真空になって、物を見る眼が、物を映しているだけで、思考に|容《い》れることを忘れ果てたかのようになる。——  武蔵は、その時、伝七郎を倒した場所から最短距離の建物の|廂《ひさし》の下に立っていたのである。  ——それから。  相手方の様子を見つつ、壁を背にしたまま、徐々と横歩きにあるき、三十三間堂の西の端縁へのぼって、悠々とさいぜん立った所の縁の中ほどまで足を移していた。  そこから一応、 (|襲《く》るか?)  と、体の正面を、|彼方《かなた》にかたまっている群れへ向けたが、その気色もないと見定めたのであろう。ふたたび歩き出して、縁の北の角まで行ったかと思うと、|忽《こつ》|然《ぜん》、蓮華王院の横へと影を消してしまった。     今様六歌仙      一 「こちらの文のお返しに、白紙など|遣《よ》こされて、なんとも小憎い一座ではある。このまま黙って引っ込んでいては、|愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]《いよいよ》、あの|公《きん》|達《だち》|輩《ばら》をよい気にさせて置くようなもの。この上は、わしが行って|直《じか》|談《だん》|合《ごう》と出かけ、意地でも吉野太夫をこちらへ申しうけて来ねばならぬ」  遊びに|年齢《とし》はないものだそうであるが、酔うと興の乗じたまま、踏み止まりのない灰屋|紹由《しょうゆう》であった。こういい出すとどうしても、自分の思い通りにならないうちは、そのひたぶるな遊びのわがままが|納《おさ》まらないとみえる。 「案内しやい」  と、墨菊太夫の肩につかまって立ち上がり、側から光悦が、 「まあ、まあ」  と、引き止めても、 「いいや、わしが行って吉野を連れてまいる——旗本ども、あの方々の席へわしを案内しやれ、おん大将の御出馬に候ぞ、われと思わんものは、|尾《つ》け、尾け」  危なかしくってはらはらさせられるが、|放《ほ》っておいても決して危なくないのが酔っぱらいである。しかしそれを、危なくないからといって、見ている世の中では面白くない。やはり危ながったり、危なそうに見せたりするうちが、世の中の至妙でもあるし、遊戯の世界の滋味でもある。  わけてもまた、紹由老人のように、|酢《す》いも甘いも知り尽くし、遊びの裏も表も心得ぬいている客になると、同じ酔っぱらいでも、|扱《あつか》いいいようで大いに扱い|難《にく》い。遊ぶ心と、遊ばせる方の心とが|蹌《よろ》|々《よろ》、歩いている間も、不即不離、つまり|阿《あ》|吽[#「吽」は底本では「口」+「云」Unicode=544d]《うん》の呼吸というものである。 「船ばし様、おあぶのうございまする」  と|妓《おんな》たちが|庇《かば》えば、 「なんじゃ、馬鹿にするな。酔えば、足が、ひょろけるが、心は、ひょろけてはいないぞ」  と、むずかるし、 「では、おひとりでお歩き遊ばせ」  と離せば、廊下へ、ぺたと坐ってしまって、 「——すこし|草臥《くたび》れて候。わしを負ぶってくれい」  と、いう。  いくら広いにしたところで、同じ家のべつな部屋へ行くのに、廊下続きでこうさんざん手間どらせて道中しているのも、紹由にいわせれば、これも遊びの一つというに違いない。  なんでも知らない顔をしながら、なんでも知っているこの酔客様は、途中でこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]のようになって、|妓《おんな》たちを|手《て》|古《こ》ずらせていたが、その寒巌枯骨ともいえるような細ッこい老躯の中には、なかなか|利《き》かない気性が|潜《ひそ》んでいるらしく、さっき白紙の返書を|遣《よ》こしたり、あちらの別室で、吉野太夫を独占して、得意げに遊んでいるらしい烏丸光広卿などの一座に対して、 (青くさい|公《きん》|達《だち》|輩《ばら》が、なんの|猪《ちょ》|口《こ》|才《ざい》な——)  と、常々の剛毅が、酒に交じって、胸でむらむらしていることも事実であった。  |公《く》|卿《げ》といえば、武家も|憚《はば》かる厄介者であったが、今の京都の大町人は、そんな者を少しも厄介には思っていない。打割ったところをいえば、お人の良いどうにでもなる——ただいつも位階ばかり高くて金のない階級というだけのものである。従って、金をもって適当な満足を与え、風雅をもって上品に交わり、位階を認めて誇りを持たせておけば、それで彼らは自分たちの指人形のようにうごくことを——この船ばし様は十分に知りつくしている。 「どこじゃ、かんがん様の遊んでござるお座敷は。……ここか、こちらか」  奥まったところの、花やかな|灯《ひ》の|映《さ》している障子を撫でまわして、紹由がそこを開けようとすると、|出合頭《であいがしら》に、 「やあ、誰ぞと思えば」  こんな場所に似合わない僧の|沢《たく》|庵《あん》が、内からそこを開けて、顔を出した。      二 「あっ、ホウ?」  と、目をまろくし、かつ奇遇を|欣《よろこ》び合って、紹由の方から、 「坊主、おまえもいたのか」  沢庵の首すじへ抱きつくと、沢庵も口まねして、 「おやじ、おぬしも来ていたのか」  と紹由の首を抱えこみ、|出合頭《であいがしら》の酔っぱらい同士が、恋人のように汚い頬と頬とをこすり合い、 「達者か」 「達者じゃ」 「会いたかった」 「うれしい坊主め」  しまいには、ぽかぽか頭をたたいたり、一方がまた一方の鼻の頭を|舐《な》め出したり、何をやっているのか、酒飲みの気持は分らない。  今そこにいた沢庵が、次の部屋から出て行ったと思うと、廊下のあたりで、しきりと障子ががたがた鳴り、恋猫と恋猫とがじゃれ[#「じゃれ」に傍点]ているような鼻声が聞えるので、烏丸光広は、|対《むか》い合っている近衛|信《のぶ》|尹《ただ》と顔を見あわせ、 「ははあん、案の如く、うるさいのが、やって来たらしい」  そっと、苦笑をもらした。  光広はまだ若い、見るところ三十ぐらいな貴公子だった。裸にしても|堂上人《どうじょうびと》らしく|白《はく》|皙《せき》の美男であるから、実際の年はもっとよけいかも分らない。眉は濃く、唇は|朱《あか》く、才気煥発なところが|眸《ひとみ》に出ている。 (武家ばかりが人間のような世の中に、なんで|麿《まろ》を|公《く》|卿《げ》に生ましめたか)  というのがこの人の口癖であって、優しい容貌のうちに烈しい気性を|蔵《ぞう》し、武家政治の時流に、|鬱《うつ》|勃《ぼつ》たる不平を抱いているらしかった。 (|頭脳《あたま》がよくて若い公卿で、今の世態に悩みを持たぬ奴は、馬鹿である)  これも光広が、いって|憚《はばか》らない持論なのだ。それを換言するとつまり、 (武家は武門の一門を世職とするものだが、それが、政治の権を|戟《ほこ》に|翳《かざ》し、|右《ゆう》|文《ぶん》|左《さ》|武《ぶ》の融和もつりあいもこのごろではあったものではない。公卿は節句のかざり物、人形でも済むことだけを任されて、曲げてかぶれぬ|冠《かんむり》を載せられているのだ。——そんなところへ自分のような人間を生ませたのが|神《かみ》の|過《あやま》ちというもの、われ人臣たらんとすれば、今の世の中では、悩むか、飲むか二つしかない。——|如《し》かず、美人の膝を枕に、月を見、花を見、飲んで死のうか)  というような意味であるらしかった。  |蔵人《くろうどの》|頭《かみ》から|右《う》|大《だい》|弁《べん》に昇り、今も参議という現職にある|朝臣《あそん》であるが、そこでこの貴公子はさかんに六条柳町へ通ってくる。この世界にいる時だけ腹の立つのを忘れるというのである。  その若くて悩む仲間には、|飛鳥《あすか》|井《い》雅賢だの、徳大寺|実《さね》|久《ひさ》だの、花山院忠長だのというもっと溌剌としたものもあって、武家とちがって、めいめい貧乏のくせにどう金の工面をしてくるのか、いつも扇屋に来ては、 (ここへ来ると、人間らしい心がしてくるぞ)  とばかり飲んで騒ぐことを例としていたが、その顔ぶれとすこし違って、今夜の彼のお連れは、|寔《まこと》におとなしやかな人品だった。  そのお連れである近衛|信《のぶ》|尹《ただ》というのは、光広よりは年も十ほどは上であろう。どこか重々しい|風《ふう》|貌[#「貌」は底本では「蚌」から「虫」を外したもの。Unicode=4e30, DFパブリ外字=f14d]《ぼう》があり、眉も|秀《ひいで》ているが、豊かに浅黒いその頬に薄あばた[#「あばた」に傍点]のあるのが世間並にいえば|瑕《きず》である。  けれどその薄あばた[#「あばた」に傍点]なら、鎌倉一の男、|源実朝《みなもとのさねとも》ににもあったということだからこの人だけの|瑕《か》|瑾《きん》ではない。殊にこの人が、|前《さきの》関白|氏《うじ》の|長者《ちょうじゃ》という|厳《いかめ》しい身分などをどこにも見せず、ただ余技の書道において聞えている|近衛《このえ》|三藐院《さんみゃくいん》として、吉野太夫の側でにやにやしているところはかえってなかなか|床《ゆか》しい薄あばた[#「あばた」に傍点]であった。      三  顔じゅうを|笑靨《えくぼ》にして、近衛|信《のぶ》|尹《ただ》はその薄あばた[#「あばた」に傍点]を、吉野太夫の顔に向け、 「あの声は、|紹由《しょうゆう》だの」  と、いった。  吉野の紅梅よりも濃い唇がおかしさを噛みこらえながら、 「あれ、ここへお見え遊ばしたら、どうしたらようございましょう」  困ったような眼元をする。  烏丸光広は、 「起つな」  と、吉野の|裾《すそ》を抑えて、次の間越しに、廊下の境へ、 「沢庵坊、沢庵坊、そんな所で何をしておらるるか。寒いぞ、そこを閉めて出るなら出ろ、はいるならはいれ」  と、わざといい放ってみる。  するとその沢庵が、 「まあ、はいれ」  と障子の外から紹由老人を引っぱり込み、光広と信尹の前へ来て、ぺたりと坐った。 「よう、これは、思いがけぬお連れではあるぞ。いよいよ、おもしろい」  灰屋紹由は、こういうと、さすがにいくら酔っていても、少しも崩れない薄い膝の|角《かど》をそのままずいと進めて、すぐ信尹の前へ手をさし出し、 「——お流れを」  と、辞儀した。  信尹はにやにや、 「船ばしの|翁《おきな》、いつも元気でよいのう」 「かんがん様のお連れが、お|館《やかた》とは露だに知らず……」  と、杯を返す手からもうこの|古《ふる》|武士《つわもの》は、わざと酔いを誇張して|酩《めい》|酊《てい》した|太《た》|郎《ろう》|冠《か》|者《じゃ》のように細い|皺《しわ》|首《くび》を振りうごかした。 「……ゆ、ゆるされいお館。へ、平常の、ご無沙汰はご無沙汰、会った時は会った時、なんの……関白でおざろうと、参議でござろうと……ハハハハ、のう沢庵坊」  と、またそばの坊主頭を脇へかかえ込み、信尹と光広の顔を指した。 「——世の中に、気の毒なものは、こ、このお|公《く》|卿《げ》という人達じゃ。関白の、左大臣のと、よい名は貰うが、実はくれぬ。まだまだ町人が遥かまし[#「まし」に傍点]よ。……のう坊主、そう思わんかい」  沢庵も、この|酔《すい》|老《ろう》|人《じん》には、すこし|辟《へき》|易《えき》のていで、 「思う、思う」  と、彼の腕の中からやっと首を|外《はず》して、自分の物にすると、 「これ、御坊からは、まだ戴いておらぬが」  と杯をせがむ。  そしてその杯を顔に乗せるように傾けて、また—— 「なあ坊主、おぬしなどは|狡《ずる》い奴じゃぞ。——今の世の中で狡い人間は坊主、賢い者は町人、強い者は武家、おろかしき者は|堂上方《どうじょうがた》。……アハハハ、そじゃないか」 「そじゃ、そじゃ」 「好きなこともよう出来ず、さりとて|政事《まつりごと》からは|戸閉《とじ》めを喰い、せめて歌でも|詠《よ》むか、書でも書くか。そこより|他《ほか》に力の出し場がないなどということが……アハハハハ、のう坊主、あろかいな」  飲んで騒ぐことなら光広も負けないし、雅談や酒の量なら信尹もおくれを取っていまいが、こういきなり|捲《まく》し立てられたので、顔負けしたというか、さすがの二人も、この細ッこい|闖入者《ちんにゅうしゃ》のために、すっかり座興を|攫《さら》われてしまった形で沈黙していた。  その図に乗って紹由は、 「太夫。……太夫はなんと|思《おぼ》さるるな。たとえば、堂上方に惚れ召さるか、それとも町人に惚れ召さるか」 「ホ、ホ、ホ。まあ船ばし様が……」 「笑い事でない、真面目に|女《おな》|子《ご》の胸をたたいてみるのじゃ。ウウムそうか、いや読めた、やはり太夫も町人がよいというか。——さらばわしの部屋へ来い、さあ太夫は紹由が貰うて行く」  吉野太夫の手を自分の胸に納めて、この|古《ふる》|武者《つわもの》、抜からぬ顔して起ちかけた。      四  光広はおどろいて、手の杯をこぼしながら下へ置き、 「戯れもほどこそあれ」  と、紹由の手を|も[#「も」は「てへん」+「宛」Unicode="#6365"]《も》ぎ放して、吉野太夫を自分のそばへ抱え寄せた。 「なぜ、なぜ?」  紹由は、|躍《やっ》|起《き》となって、 「むりに連れて行くのではのうて、太夫が、来たそうな顔しているから連れて行くのじゃが。のう太夫」  間に挟まった吉野太夫は、ただ笑っているほかなかった。光広と紹由のふたりに左右の手を引っ張られて、 「まあ、なんとしようぞ」  と、困った顔をしていた。  ほん気な意地でも|鞘《さや》|当《あ》てでもないが、ほん気にも躍起にもなって困る者を困らせるのが遊びである。光広もなかなか|肯《き》かないし、紹由も決して|退《い》かない。そして吉野を両方の義理に挟んで、 「さあ太夫、どちらの座敷を勤めるか、この|伊達《たて》|引《ひき》は、太夫の胸次第、太夫がなびきたい方へ|靡《なび》くがよい」  と愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]、彼女を困るような破目へ|圧《お》して、|苛《いじ》めにかかる。 「これはおもしろい」  と沢庵は、事の納まりをながめていた。いや眺めているばかりでなく、 「太夫、どっちへ|随《つ》くのだ、どっちへ随くのだ」  と彼までが、側から気勢をケシかけて、この納まりを|肴《さかな》にして飲んでいた。  ただ温厚な近衛|信《のぶ》|尹《ただ》だけが、さすがにお人柄を見せて、 「さてさて、意地の悪い客どもよな。それでは吉野もいずれへともいえまいが、そう無理をいわずに、皆が仲よく一座してはどうじゃの」  と、助け舟を出し、 「そういえば、あちらの座敷には、光悦がただ一人で置き放しになっているというではないか。誰ぞ、光悦をここへ呼んで参れ」  と、ほかの女たちへいって、この場合を|紛《まぎ》らせてしまおうとした。  紹由は、吉野のそばへ坐り込んでしまったまま、 「いやいや、呼びに行くには及ばない。わしが唯今、吉野を連れてあちらへ行く」  手を振って止めると、 「なんのなんの」  と、光広もまた、吉野をかかえて離そうとしないのである。 「|小癪《こしゃく》な|公《きん》|達《だち》めが」  と紹由は開き直って、酔いに|燿《かがや》いている眼と杯を突きつけて、光広へいった。 「ではいずれが、花の吉野へわけいるか。この|女《じょ》の眼の前で、|酒《しゅ》|戦《せん》ないたそう」 「酒戦とな。ことも|可笑《おか》し」  光広はべつの大きな杯を|高《たか》|坏《つき》へ乗せて、ふたりの間へ置き、 「|実《さね》|盛《もり》どの、|白髪《しらが》を染めてござったか」 「なんのさ、骨細な公卿どのを相手にするに。——いざまいろう。勝負勝負」 「なんでまいるか。ただ|交々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]《こもごも》飲むだけでは、興もない」 「睨めッこ」 「やくたいもない」 「では貝合せ」 「あれは、|汚《むさ》い|爺《じじ》を相手にする|遊戯《あそ》びではない」 「憎いことを。しからば、じゃんけん!」 「よろしかろう。さあ」 「沢庵坊、行司行司」 「心得た」  ふたりは真顔になって、|拳《けん》を闘わせた。一勝一敗のつくたびに、どっちかが、杯をのみ乾し、その口惜しがりようを見て、みんなが笑い崩れるのだった。  吉野太夫はその間に、音もなく席を起って、松の位の|裳《すそ》を|楚《そ》|々《そ》と曳き、雪の廊下を奥ふかく姿を消してしまった。      五  これは相討ちとなるほかあるまい。どっちも酒にかけては一かどの|巧《こう》|者《しゃ》と|強者《つわもの》、酒戦の勝負はいつ果つべしとも見えなかった。  吉野が去ると間もなく、 「わしも……」  急に思い立ったように、近衛|信《のぶ》|尹《ただ》は|館《やかた》へ帰ってしまったし、行司の沢庵も眠くなったとみえ、無遠慮な|欠伸《あくび》を|発《だ》してしまう。  それでもまだ二人は酒戦をやめない。勝手にやらせておいて沢庵も勝手に寝ころぶ。そして、近くにいた墨菊太夫の膝を見つけて、そこへ断りなしに頭をのせてしまう。  そのまま、うつらうつらしているのは|快《よ》い気もちだったが、沢庵はふと、 (淋しがっているだろうな、早く帰ってやりたいが)  城太郎とお|通《つう》のことを思い出していた。  その二人は、いま烏丸光広の館に世話されているのだった。伊勢の荒木田|神《かん》|主《ぬし》から届け物を頼まれて来て、城太郎の方は|年暮《くれ》から——お通はつい先頃から。  その先頃といえば。  いつぞや清水観音の音羽谷で、お通がお杉|婆《ばば》のために追われた晩——不意に沢庵があの場へお通を捜しに行ったというのにも、前からあんな不安を予知して、彼をそこに|赴《おもむ》かせた理由のあったことなのである。  沢庵と烏丸光広とは、もう随分久しい交友であった。和歌に、禅に、酒に、悩みに、いわゆる道友の一人だった。  するとその友からこの間うち、 (どうだ、正月じゃないか、なにを好んで|田舎《いなか》の寺になどくすぶっていられるか。|灘《なだ》の銘酒、京の女、加茂の|川千禽《ち ど り》、都は恋しくないか。眠たいなら田舎で禅をなされ、生きた禅をなさるなら人中でなされ。その都を恋しく思ったら出て来られてはいかが)  と、そんな消息が来たので、沢庵はこの春|上洛《のぼ》って来たのだった。  偶然、そこで彼は、城太郎少年を見かけた。|館《やかた》の内で毎日飽かずによく遊んでいる。光広に聴いてみると、しかじかという|理《わけ》。そこで城太郎を呼びよせ、詳しく聞いてみると、お通だけは元日の朝からお杉婆と共に婆の家へ行って、それきり便りもないし帰って来ないという事情がわかった。 (それは、とんでもないことだ)  沢庵はおどろいて、その日のうちに、お杉婆の宿を捜しに出かけ、三年坂の|旅籠《はたご》をやっと突きとめたのがもう夜のことで——それからいよいよ不安を感じ、旅籠の者に|提燈《ちょうちん》を持たせて、清水堂へ捜しに出かけた|理《わけ》である。  あの晩、沢庵はお通を無事に連れて、烏丸の家へもどって来たが、お杉のために極度な恐怖を経験させられたお通は、翌日から熱を病んで、今もって枕が上がらない。城太郎少年は枕元につき|限《き》りで、彼女の|頭《つむり》を水手拭で冷やしたり薬の番をしたりして、いじらしい程、看護に努めている—— 「ふたりが、待っているだろうな」  だから沢庵は、なるべく早く帰ってやりたいと思っていたが、連れの光広は、帰るどころか、遊びはこれからだというように冴えている。  しかしさすがに、|拳《けん》や酒戦も、やがて飽いて、勝負なしに今度は飲み始めたと思うと、膝つき合せて、なにか議論だった。  武家政治がどうとか、公卿の存在価値とか、町人と海外発展とか、問題は大きいらしい。  女の膝から、床ばしらへ移転して沢庵は眼をつぶって聞いている。眠っているのかと思うと、時々、ふたりの議論の端を耳にしてにやりと笑う。  そのうちに光広が、 「やっ、近衛どのは、いつの間に帰ってしもうたのか」  と、不平に醒め、紹由もまた、興ざめたように顔を|革《あらた》めて、 「それよりも、吉野がおらぬ」  と、いい出した。 「|怪《け》しからぬこと」  光広は、隅の方で居眠っていた|禿《かむろ》のりん|弥《や》へ、 「吉野を呼んで来やい」  と、いいつけた。  りん弥は、眠たげな眼をまろくして、廊下を立って行った。そしてさっき光悦や紹由の通った座敷を何気なく覗くと、そこにたった一人、いつの間に戻って来たのか、武蔵が白い灯と顔を並べて、|寂然《じゃくねん》と坐っていた。      六 「あれ、いつの間に。……ちっとも知らなかった、お帰りなさいませ」  りん弥の声に、武蔵が、 「今戻って来ました」 「さっきの裏口から?」 「うむ」 「どこへ行って来たんですか」 「|廓外《そと》まで」 「いい人と、約束があったんでしょう、太夫様へいいつけて上げよう——」  ませた言葉に、武蔵は思わず笑って、 「皆様のすがたが見えぬが、皆様はどうなされたか」 「あちらで、かんがん様やお坊様と一緒になって、遊んでいらっしゃいます」 「光悦どのは」 「知りません」 「お帰りだろうか。光悦どのが帰られたら、拙者も帰りたいと思うが」 「いけません。ここへ来たら太夫様のおゆるしのないうちは帰られないんですよ。黙って帰ると、あなたも笑われますし、私も後で叱られます」  |禿《かむろ》の冗談さえ、武蔵は、真顔になって聞いていた。そういうものかと信じているのである。 「ですから黙って帰っては嫌ですよ。私が来るまで、ここに待っていらっしゃい」  りん弥が出てゆくと、しばらく経って、そのりん弥から聞いたのであろう、沢庵がはいって来て、 「武蔵、どうした」  と、肩をたたいた。 「あっ?」  これはあっと驚くほどな出来事に違いない。さっきりん弥が、お坊様が来ているとはいったが、まさか沢庵であろうとは武蔵も思っていなかったのである。 「——しばらくでした」  座を|辷《すべ》って、武蔵が、両手をつかえると、沢庵はその手を握って、 「ここは遊びの里だ、あいさつはざっとにしよう。……光悦どのも共に来ているという話だが、光悦どのは見えないじゃないか」 「どこへ参られたやら?」 「捜して、一緒になろう。おぬしにはいろいろ話したいこともあるが、それは後にして」  いいながら、ふと沢庵が隣の|襖《ふすま》を開けると、そこの|炬《こ》|燵《たつ》|布《ぶ》|団《とん》へ|小屏風《こびょうぶ》を囲い、雪の夜を心ゆくまで暖まりながら寝ている人がある。それが光悦だった。  あまり心地よげに寝ているので、揺り起すのも心なく思われたが、そっと顔を覗いているまに、光悦は自身から眼をさまし、沢庵と武蔵の顔を見くらべて、おや? と|不審《いぶか》るような様子だった。  |理《わけ》を聞くと光悦も、 「あなたと、光広卿だけのお席なら、あちらへお邪魔してもよい」  と、打揃って、光広の席へもどって来た。  しかしもう光広も紹由も、遊びの興は尽きた|態《てい》で、そろそろ歓楽の後の|白《しら》けた寂しさが、誰の|面《おもて》にもただよいかけている。  酒もそうなるとほろ苦いし、唇だけがやたらに乾き、水を飲めば家が思い出されて来る。殊に、あれなり吉野太夫が姿を見せないのが、なんとしてももの足らない。 「戻ろうではないか」 「帰りましょう」  一人がいう時は、誰の気もちもそこに一致していた。なんの未練もないというよりは、これ以上、折角のよい気持が醒めるのを|惧《おそ》れるように、皆すぐ立った。  ——すると。  |禿《かむろ》のりん弥を先に立たせ、後から吉野太夫付きの|引《ひき》|船《ふね》(しんぞの称)二人、小走りに来て、一同の前に手をつかえ、 「お待たせいたしました。太夫様からのお|言《こと》|伝《づ》てには、ようよう、お支度ができました程に、皆様をお通しせよとのおことばにござりまする。お帰りもさることながら、雪の夜は更けても明るうございますし、このお寒さ、せめてお駕籠のうちも暖かにお戻り遊ばすよう、どうぞ、も少しの間、こちらでお|飲《すご》しくださいませ」  と、思いがけない迎えである。 「はてな?」  ——お待たせいたしましたとは何のことか、光広も紹由も、いっこう|解《げ》せない顔つきで眼を見合わせた。      七  いちど|興醒《きょうざ》めた心は呼び戻しようもない気がする、それが遊びの世界であるがゆえに、よけいに気持の|妥協《だきょう》がつかないのである。 (どうしたものか?)  迷っているらしい一同の顔いろを見ると、二人の引船はまた口をそろえていった。 「太夫様が仰っしゃるには、先刻からお席を|外《はず》し、定めし|情《こころ》ない|女《おな》|子《ご》と皆様がお思いに違いない。けれどあのような困ったことはない。かんがん様の|御《ぎょ》|意《い》に任せれば、船ばし様のお心に|反《そむ》くし、船ばし様の仰せに従えば、かんがん様に済まないことになるし……。それゆえ黙ってお席を抜けて来たが、実は、おふた方ともにお顔の立つよう、こよいは改めて、吉野様が皆様をお客として迎え、自分のお部屋へお招きしたいという心組み。……どうぞそのお気持を|酌《く》んで上げて、もうしばらくお帰りをおのばし下さいませ」  こう聞いてみると、|無《む》|碍《げ》に断って帰るのも、なんだか狭量に思われるだろうし、吉野が主人となって、自分たちを招くという心意気にも、べつな感興が|唆《そそ》られないこともない。 「参ってみようか」 「せっかく、太夫がそういうものを」  そこで、禿や引船に案内されて|従《つ》いてゆくと、庭先へ|鄙《ひな》びた|藁《わら》|草履《ぞうり》を五名分そろえる。やわらかな春の雪はその人々の藁草履で|痕《あと》も残さず踏まれてゆく。  武蔵を除く以外の者は、すぐその趣向に、 (ははあ、招きは茶だな)  と、想像していた。  吉野が茶の道に|嗜《たしな》みのふかいことは今さらのことではない。また、こういう後で一わんの薄茶も悪くないなどと思いながら行くと、やがて茶室の側も素通りして、どうやら裏庭のずっと奥の|風《ふ》|情《ぜい》もない畑地まで来てしまった。  やや不安になって、 「これこれ、いったい|麿《まろ》たちをどこへ連れてゆくのじゃ。ここは桑畑ではないか」  光広が|咎《とが》めた。  すると引船は、 「ホホホ、桑畑ではございませぬ。春の末には、毎年ここで皆様が|床几《しょうぎ》でお遊びになる|牡丹畑《ぼたんばたけ》でございまする」  しかし、光広の不興げな顔は、寒さと|併《あわ》せて、いとど|苦《にが》|々《にが》しく、 「桑畑であろうと、牡丹畑であろうと、こう雪が降り積って、|蕭条《しょうじょう》とした有様では同じことじゃ。吉野は|麿《まろ》たちに|風邪《かぜ》を引かせる趣向か」 「おそれ入りました。その吉野様は先程から、そこでお待ちうけでございます。どうぞ、あれまでお|徒歩《ひろ》いを」  見れば畑の隅に一軒の|茅《かや》|葺《ぶき》|屋《や》|根《ね》が見える。この六条の里がまだ開けないうちからあったような純然たる百姓家だった。もちろん、後ろは冬木立に囲まれていて、扇屋の人工的な庭とは絶縁されているが、扇屋の地内であることは間違いない。 「さあ、こちらへ」  引船は、|煤《すす》で黒くなっているそこの土間へはいって、一同を導き入れ、 「お越しでござりまする」  と奥へ告げる。 「ようこそ。——さあ、ご遠慮のう」  吉野の声が、障子の内で聞え、その障子に|炉《ろ》の火が赤々と映っていた。 「まるで都を遠く離れてでも来たような……」  と、人々は、土間先の壁にかけてある|蓑《みの》|笠《がさ》など見まわしつつ、そも吉野太夫が、どんな亭主ぶりで|款待《もてな》すことやらと、順に部屋へはいって行った。     |牡《ぼ》|丹《たん》を|焚《た》く      一  浅黄無地の着物に、黒じゅすの帯をしめ、髪もつつましやかな|女房髷《にょうぼうまげ》に結い直し、薄化粧して、吉野は客を迎え入れた。 「ほう、これは」 「また、|艶《あで》やかな」  と、一同は彼女のすがたを見ていった。  |金屏《きんびょう》銀燭のまえに、桃山|刺繍《ぬい》のうちかけを着、玉虫色のくちびるを|嫣《えん》|然《ぜん》と誇示している時の吉野太夫よりも、この|煤《くす》んだ百姓家の壁と炉のそばで、あっさりと浅黄木綿を着ている彼女のほうが、百倍も美しく見えたのであった。 「ウウム、これはまた、がらりと、気が変ってよい」  あまり物を|賞《ほ》めない|紹由《しょうゆう》も、ちょっと毒舌を封じられた|態《てい》である。敷物もわざと用いず、吉野はただ|田舎《いなか》|炉《ろ》のそばへ一同を招じて、 「ごらんの通りな|山《やま》|家《が》のこと、何もおかまいはできませぬが、雪の夜の馳走には、|賤《しず》の|夫《お》から富者貴顕にいたるまで、火に|勝《まさ》る馳走はないかとぞんじまして、このように、|焚《たき》|火《び》の支度だけは沢山にしておきました。夜もすがら語り明そうとも、|薪《たきぎ》だけは、鉢の木を|燻《く》べずとも、尽きる気づかいはございませぬゆえ、お心やすくおあたり下さいまし」  と、いう。  なるほど——  寒い所を歩かせて来てここで|榾《ほた》|火《び》にあたらせる。馳走というのはそういう趣向であったのかと光悦もうなずき、紹由や光広や沢庵も膝をくつろぎ、めいめいが炉の榾火に手をかざしていると、 「さ、そちらのお方も」  と、吉野が少し席を|頒《わ》けて、うしろにいる武蔵を眼で招いた。  四角な炉を、六人して囲むので、自然|緩《ゆる》やかではあり得ない。  武蔵はさっきから、ひどく律義に|畏《かしこ》まっていた。日本の民衆の中では今、大閤秀吉や大御所の名に次いで、初代吉野の嬌名は鳴りひびいていた。出雲の|阿《お》|国《くに》よりも、高級な女性として敬愛を持っていたし、大坂城の淀君よりも、才色があって親しみもあるという点で、ずっと有名だった。  だから彼女に接する者は、買う客のほうが「|買《かい》|手《て》ども」と呼ばれ、才色を売る彼女のほうは「太夫様」と称されていた。風呂に入るにも七人の侍女に湯を汲ませ、爪を切るにも二人の引船を|侍《はべ》らせているという生活などもかねがね聞いていたことである。——けれど、そういう有名な女性を相手にして遊んでいる光悦や紹由や光広などの、ここにいる買手どもは、いったいなにがこれで面白いのだろうか? ——武蔵には、いくら眺めていても、まるで分らなかった。  しかしその、面白そうでもない遊びのうちにも、客の作法とか、女性の礼儀とか、双方の心意気とかいうようなものは、厳然とあるらしいので、まるで不勝手な武蔵は、いきおい固くなっているほかなく、殊に、|脂《し》|粉《ふん》の世界には初めて足を踏み入れたことでもあり、吉野の|明《めい》|眸《ぼう》にちらと射られても顔が熱くなって、胸の鼓動も怪しげに鳴るのだった。 「なぜ、あなただけ、そうご遠慮なさるのですか。ここへお出でなされませ」  吉野に幾度もいわれて、 「は。……では」  |恟《おど》|々《おど》と、武蔵は彼女のそばへ座を占め、一同に|倣《なら》って、ぎごちなく両手を炉へかざした。  彼が自分のそばへ坐る|機《しお》に、吉野は彼の|袂《たもと》の端をちらりと見ていたが、やがて人々が話に興じて|紛《まぎ》れ出したところを見はからい、そっと懐紙を持って、武蔵の袂の端をそれで|絞《しぼ》るように拭いていた。 「あ、恐れ入ります」  武蔵が澄ましていれば誰も気づかなかったのに、彼が、自分の袂をのぞいて、こう礼をいったので、皆の眼が、ふと吉野の手へ移った。  彼女の手に畳まれた懐紙には、べっとりと、赤いものが拭きとられていた。  光広は、眼をそばだてて、 「ヤ! 血ではないか」  と、口走った。  吉野はほほ笑んで、 「いいえ、|緋《ひ》|牡《ぼ》|丹《たん》の|一《ひと》|片《ひら》でございましょう」  と、澄ましていた。      二  めいめいが、一つずつ杯を持って、好む程度に、それを愛し合っていた。炉に燃える|榾《ほた》|火《び》は、炉をかこんでいる六名の|面《おもて》へ、やわらかな明滅となって揺らぎ、|戸外《そと》の雪をしのびながら、その焔を見つめ合って、みな、黙思に|耽《ふけ》っているのであった。 「…………」  |榾《ほた》の火が乏しくなると、吉野は傍らの炭籠のような物の中から、一尺ほどに揃えて切ってある細い|薪《まき》を取って|焚《く》べ足した。  ——ふと、そのうちに人々は、彼女の|焚《く》べている細い枯木が、ただの|松《まつ》|薪《まき》や雑木のようでなく、まことによく燃える木であることに気づいた。いや、燃えのよいばかりでなく、その焔の色が、実に美しいのに見惚れてしまった。 (おや、この薪は)  と、誰かが注意はしていたが、誰もが皆黙っているのは、その焔の|麗《うるわ》しさに|恍《こう》|惚《こつ》と心を奪われていたからであろう。  わずか四、五本の細い薪で、部屋中は白昼色になっていた。  その薪から立つやわらかな焔は、ちょうど|白《しろ》|牡《ぼ》|丹《たん》の風に吹かれているようで、時折、紫金色の光と鮮紅な炎とが入り交じって、めらめらと燃え狂うのであった。 「太夫」  ついに、一人が口を開いて、 「そなたが|焚《く》べておるその薪のう——それはいったい何の木じゃ、ただの|榾《ほた》とも思えぬが? ……」  光広が、こう訊ね出した時は、その光広も他の人々も、なにやら|薫《にお》わしいものが、この温かい部屋いっぱいに立籠めているのを感じ出していたのである。それもたしかに、この木の燃える匂いらしかった。 「|牡《ぼ》|丹《たん》の樹でございます」  と、吉野はいった。 「え、牡丹? ……」  これは誰しも意外らしかった。牡丹といえば草花のように思っているので、こんな薪になるほどな樹があろうかと疑えて来るのだった。吉野は、|焚《く》べかけたひと枝を、光広の手にわたして、 「ご|覧《ろう》じませ」  と、いう。  光広は、それを紹由や光悦の眼にも示して、 「なるほど、これは牡丹の枝だ。……道理で……」  と、|呻《うめ》いた。  そこで吉野が説明していうには、この|扇屋《おうぎや》の囲いの中にある牡丹畑は、扇屋の建つよりもずっと以前からあるもので、百年以上も経った牡丹の古株がたくさんある。その古株から新しい花を咲かせるには、毎年、冬にかかるころ、虫の|蝕《つ》いた古株を|截《き》って、新芽の育つように|剪《せん》|定《てい》してやる。——薪はその時に出来るのであるが、もちろん、雑木のように沢山は出来ない。  これを短く切って炉に|焚《く》べてみると、炎はやわらかいし眼には美しいし、また、|瞼《まぶた》にしみる|煙《けぶり》もなく、|薫《くん》|々《くん》とよい香りさえする。さすがに花の王者といわれるだけあって、枯れ木となって薪にされても、ただの雑木とは、この通り違うところを見ると、質の真価というものは、植物でも人間でも争えないもので、生きている間の花は咲かせても、死してから後まで、この牡丹の薪ぐらいな真価を持っている人間がどれほどありましょうか? ——  と、吉野は話し終って、 「そういう私なども、生きている間はおろか、ほんの、若いうちだけ見られて枯れて、後は|香《におい》もない白骨になる花ですけれど……」  と、淋しげに|微笑《ほほえ》んだ。      三  牡丹の火は、白々と燃えさかり、炉辺の人々は、|更《ふ》ける夜を、つい忘れていた。 「なにもありませぬが、ここに|灘《なだ》の銘酒と、牡丹の薪だけは、夜が尽きても尽きないほどございますから」  という吉野のもてなしぶりに、人々はすっかり満足して、 「なにもないどころか、これは王者の|奢《おご》りにも勝る」  と、どんな|贅《ぜい》|沢《たく》|事《ごと》にも飽いている灰屋紹由すらが、神妙に感嘆してしまう。 「その代りに、なんぞ、後の思い出となるように、これへ一筆ずつ、お残し下さいませ」  と吉野が、|硯《すずり》を寄せて、墨をおろしている間に、|禿《かむろ》は次の部屋へ|毛《もう》|氈《せん》をのべ、そこへ|唐《とう》|紙《し》を|展《ひろ》げて行った。 「沢庵坊、太夫がせっかくの求めじゃ。なんぞ書いてつかわされい」  光広が、吉野に代って|促《うなが》すと沢庵はうなずきながら、 「まず、光悦どのから」  といった。  光悦は、黙って、紙の前へ膝をすすめ、牡丹の花を一輪描いた。  沢庵はその上に、 [#ここから2字下げ] 色香なき身をば なにかは|惜《をし》ままし をしむ花さへ ちりてゆくよに [#ここで字下げ終わり]  彼が歌を書いたので、光広はわざと詩を書いた。その詩は、 [#ここから2字下げ] 忙裏 山|我《ワレ》ヲ|看《ミ》ル 閑中 我山ヲ看ル |相《アヒ》|看《ミ》レド相似ルニアラズ 忙ハ|総《スベ》テ閑ニ及バズ [#ここで字下げ終わり]  という|戴《たい》|文《ぶん》|公《こう》の詩であった。  吉野もすすめられて、沢庵の歌のすこし下へ、 [#ここから2字下げ] 咲きつつも 何やら花のさびしきは 散りなん|後《あと》を おもふ心か [#ここで字下げ終わり]  と、素直に書いて筆を|擱《お》いた。  紹由と武蔵とは、黙って見ていただけである。|悪《わる》|強《じ》いして無理に筆を持たせる者などがいなかったのは、武蔵にとっては幸いであった。  そのうちに紹由は、次の間の床わきに、一面の|琵《び》|琶《わ》が立てかけてあるのを見つけ、吉野に琵琶を所望した。彼女の|弾《だん》じる一曲を聞いて、それを|機《しお》に、今夜の散会としようではないかと提議する。  人々が、 「それこそ、是非に」  と求めると、吉野は悪びれぬ|態《てい》で、すぐ琵琶を抱えた。それが、芸のあるを誇るという風でもないし、また芸がありながらひどく謙譲ぶるといったような嫌味でもなかった。いかにも素直なのである。  炉を離れて、次の間の|仄《ほの》|暗《ぐら》い畳の中ほどに、彼女は、琵琶を抱いて坐った。炉辺の人々は、心をすまして、彼女の|弾《ひ》く平家の一節に、沈黙していた。  炉の炎が衰えて、暗くなりかけても、炉へ薪をくべ足すことを誰も皆忘れて聞き|恍《ほ》れていた。四絃のこまやかな音階が突として、急調になり破調に変ってくるかと思うと、消えかけていた炉の火もにわかに焔を上げて、人々の心を遠くから近くへ呼びもどした。  曲が終ると、吉野は、 「ふつつかな|技《わざ》を」  と、微笑しながら、琵琶を置いて、元の席へもどって来た。  それを|機《しお》に、みんな炉を立って、帰りかけた。武蔵はもちろん、空虚から救われたように、ほっとした顔つきで、誰よりも先に、土間へ降りていた。  吉野は、彼を除いた以外の客へは皆、いちいち帰りの挨拶を交わしたが、武蔵にだけは、なにもいわなかった。  そして、他の人々に|従《つ》いて、武蔵も一緒にそこから戻ろうとすると、吉野は、彼の|袂《たもと》をそっととらえて、 「武蔵さま、|貴方《あなた》は、ここへお泊りなさいませ。なんとのう、今夜はお帰し申しとうございませぬ」  とささやいた。      四  武蔵は、処女のように、顔を赤らめた。聞えない振りを|装《よそお》っても、どぎまぎして、答えに困っている様子が、側の人達の眼にも見えた。 「……ね、よろしいのでございましょう。このお方を、お泊め申しても」  吉野は、紹由へ向って、今度はそう訊いた。紹由は、 「よいともよいとも。たんと、可愛がってやって下され。わしらが、|無《む》|下《げ》に連れ戻る筋合いはない。のう光悦どの」  武蔵はあわてて、吉野の手を振り払い、 「いや、私も、帰ります。光悦どのとご一緒に」  戸の外へ、無理に出ようとすると、どういう考えか、光悦までが、 「武蔵どの、まあそう仰っしゃらずに、今夜はここへお泊まりになって、明日、よい|機《しお》にお引揚げになってはいかがですか。——太夫もせっかく、ああいって、心配しているのですから」  と一緒になって、彼一人を、ここへ残して行こうとするのである。  遊びの世界にも、女性というものにも、まったく|初心《うぶ》な未経験者を一人ぼっち残して置いて、後で笑いの種にしようという、この大人達の計画的な|悪《わる》|洒《じゃ》|落《れ》ではないかと、武蔵は邪推してみたが、吉野や光悦の真面目な顔を見ると、決して、そんな|戯《ざ》れごととも思えない。  もっとも、吉野と光悦以外の人達は、武蔵が困っている|態《てい》を興がって、 「日本随一の果報者よ」  とか、 「わしが身代りになってもよいが——」  などと|揶揄《からか》ったりしていたが、やがて、その人々の|戯《ざ》れ|口《ぐち》も、裏垣根の門から駈け込んで来た一人の男のことばに、冗談口を|塞《ふさ》がれて、 (さては)  と、今さらのように気づいたことであった。  ここへ駈けて来た男は、吉野のいいつけを受けて、|遊廓《くるわ》の外へ、様子を探りに行って来た扇屋の|雇人《やといにん》であった。いつの間に、吉野がそんな周到な気くばりを働かせていたのかと人々は驚いていたが、光悦だけは、昼間から武蔵と行動を共にしていたし、また、吉野がさっき炉の側で、武蔵の袂についていた血しおをそっと|拭《ふ》き|除《と》ってやっていた時に、すべてを、察知していたらしかった。 「ほかのお方はともかく、武蔵様だけは、|迂《う》かつに遊廓の外へ出られませぬぞ」  と、探って来たその男は、息を|弾《はず》ませて、吉野太夫へも、他の人々へも、目撃して来た事実を、多少誇張しているのではないかと思われるくらいな|口吻《くちぶり》で告げるのであった。 「——もうこの|遊廓《さと》の門は、一方口しか開いておりません。その総門を挟んで、編笠茶屋の辺にもあれから柳並木の物蔭にも、すごい身仕度をしたお武家たちが、眼を光らせ、あっちこっちに五人、十人ぐらいずつ、黒々とかたまって立っています。……それがみんな四条の吉岡道場の門人だといって、あの近所の酒屋でも|商人《あきんど》|家《や》でも、今になにが起るのかと、戸をおろして|顫《ふる》えているんで。……いや、もう大変なことですよ、なんでも遊廓から馬場の方にかけて、百名ぐらいは来ているだろうといううわさですぜ」  そう報告する男が、がちがちと奥歯を|顫《ふる》わせていうことであるから、話し半分として聞いても、事態の容易でないことは争えなかった。 「ご苦労だった。もうよいからお休み」  その男を退けると、吉野はまた武蔵へいった。 「今のようなことを聞けば、あなたはよけいに、卑怯者といわれたくないと思い、死んでも帰ると仰っしゃるかも知れませんが、そんな|逸《はや》り|気《ぎ》はやめて下さいませ。こん夜卑怯者といわれてもあした卑怯者でなければよいではございませんか。まして今夜はお遊びに来たはずでございましょう。遊ぶ時は遊び|限《き》るのがむしろ男の|余裕《ゆとり》というものではございますまいか。——相手方はあなたの帰るのを待ちうけて、闇討ちにしようとしているので、それを避けたからといって、なんの名折れでもありませぬ。そこへ進んで|打《ぶ》つかってゆくのは、かえって、思慮のない者といわれるばかりか、この|遊廓《くるわ》でも迷惑をしますし、ご一緒に出れば、お連れの方々にも、巻きぞえを受けて、どんなお|怪《け》|我《が》のない限りもございませぬ。そこをお考え遊ばして、こん夜は、この吉野に、あなたのお体を預けてくださいませ。……吉野がきっとお預かりいたしましたほどに、皆様には途中お気をつけて、お引揚げ下さいますように」     |断《だん》 |絃《げん》      一  もうこの世界でも起きている|青楼《うち》はないらしい。ばったりと|絃《げん》|歌《か》の|音《ね》もやんでしまった。|丑《うし》|満《みつ》の告げはさっき鳴ったように思う。一同が引揚げてからでもやや一|刻《とき》余りは経つ……  そのまま、夜明けを待つつもりなのか、武蔵は、ぽつねんと、土間の上がり|框《かまち》に腰をかけていた。  ——ただ一人、|擒人《とりこ》にでもなっているようにである。  吉野は、客がいた時も、去ってしまった今も、同じように同じ位置に坐って、炉へ、|牡《ぼ》|丹《たん》の木を|焚《く》べていた。 「そこでは、お寒うございましょうに。炉へお寄りなされませ」  この言葉は、彼女の口から幾度も繰返されていわれたが、武蔵はその都度、 「お|関《かま》いなく、先へお|寝《やす》み下さい。夜が明け次第に、拙者は自由に帰りますから」  と、固辞するばかりで、吉野の顔をよく見ないのである。  二人きりになると、吉野もまたなんとなく|羞恥《はにか》み勝ちになって、口も重くなった。異性を異性と感じるようでは|傾《けい》|城《せい》の勤めは出来まいが——などという考えは、安女郎の世界だけを知って、松の位の太夫というものの育ちも|躾《しつけ》も知らない低い買手どもの常識である。  とはいえ、|朝《あした》に|夕《ゆう》べに、異性を見ている吉野と、武蔵とでは、比較にならないほどな相違はある。実際の年齢からいっても、吉野のほうが、武蔵より一つか二つ上かも知れないが、情痴の見聞や、それを感じたり|弁《わきま》えたりしていることでは、当然、彼女のほうが遥かに年上の姉といえる。——しかし、そうした彼女にしても、たった二人きりな深夜の相手が、自分の顔を見るのも|眩《まばゆ》そうに、|動悸《ときめき》を抑えて、じっとそこに固くなっていると、自分もともに|処女心《おとめごころ》に返って、相手の者と同じような|初心《うぶ》な|動悸《ときめき》を覚えるのだった。  |事情《わけ》を知らない引船と|禿《かむろ》は、さっきここを出て行く前に、次の部屋へ、大名の姫君でも|臥《ふ》せるような豪奢な|夜《よる》の|具《もの》を敷いて行った。|繻子枕《しゅすまくら》に下がっている金の鈴が、ほの暗い|閨《ねや》の気配のうちに光っていた。——それもまた、ふたりの|寛《くつろ》ぎをかえって邪魔していた。  ときおり、屋根の雪や|梢《こずえ》の雪が落ちて、どさっと、地響きが耳を驚かせた。塀の上から人間でも跳び降りたように、その音は大きく聞えるのであった。 「……?」  吉野は、そっと武蔵を見た。——武蔵の影はその度に、|針鼠《はりねずみ》のように戦気で|膨《ふく》らむかと見えた。眸は|鷹《たか》のように澄みきっている。神経は、髪の毛の先まで働いているのだ。何物にもあれ、そんな時、彼の体に|触《ふ》れるものはみな斬れてしまわずにはいないであろうと思われた。 「…………」 「…………」  吉野は、なにかしら、ぞっとして来た。夜明け近くの寒さは骨の|髄《ずい》まで|沁《し》みる。しかしそれとはちがう戦慄である。  そういう戦慄と、異性へ|搏《う》つ|動悸《ときめき》と、ふたつの血の音が、沈黙の底を、こもごもに駆けていた。そのふたりの間に、|牡《ぼ》|丹《たん》の火はあくまで燃えつづけているのである。そして——彼女がその火の上にかけた釜の口から、やがて松風が|沸《たぎ》りだすと、吉野の心は、いつもの落着きに返って、静かに、茶の|点《て》|前《まえ》にかかっていた。 「もう程なく夜も明けましょう……武蔵さま。いっぷくあがって、|此方《こちら》で、手なりとお|焙《あぶ》りなされませ」      二 「ありがとう」  言葉だけで、ちょっと会釈したまま、武蔵は依然と、背を向けていた。 「……どうぞ」  と勧める方の吉野も、これ以上は、|諄《くど》くも当るので、ついにはまた黙ってしまうほかはない。  せっかく、心をこめて立てた茶も、|帛《ふく》|紗《さ》のうえで冷えてしまう。——吉野は、ふと、腹を立てたのか、それとも、よしなき田舎者に、無用のことをと考えたのか帛紗を引いて、茶碗の茶を、傍らの湯こぼしへ捨ててしまった。  ——そしてじっと、|愍《あわ》れむような眼を武蔵へ向けた。相変らず武蔵の姿は、背中から見ても身体じゅうを鉄の|鎧《よろい》で固めているように、一分の隙も見えなかった。 「もし、武蔵さま」 「なんですか」 「あなたはそうやって、誰に備えているのですか」 「誰にではない、自身の油断を|誡《いまし》めている」 「敵には」 「元よりのこと」 「それでは、もしここへ、吉岡様の門人衆が、大勢して、どっと|襲《よ》せて来た時には、あなたは立ちどころに、斬られてしまうに違いない。わたくしにはそう思えてなりませぬ。なんというお気の毒なお方であろ」 「……?」 「武蔵さま。女のわたくしには、兵法などという道は分りませぬが、宵の頃から、あなたの所作や眼ざしを|窺《うかが》っていると、今にも斬られて死ぬ人のように見えてならないのです。いわば、あなたの|面《おもて》には死相が満ちているといってよいかも知れません。いったい、武者修行とか、兵法者とかいって世に立ってゆくお方が、大勢の|刃《やいば》を前に控えながら、そんなことでよいものでございましょうか。そんなことでも人に勝てるものでございまするか」  |詰問《なじ》るように、吉野が、こう畳みかけて、言葉のうえで彼を|愍《びん》|殺《さつ》したばかりでなく、その小心さを|蔑《さげす》むように|微笑《ほほえ》んでいったので、 「なに」  武蔵は、土間から脚を上げて、彼女の坐っている炉前にぴたと坐り直した。 「吉野どの、この武蔵を未熟者だと笑うたな」 「お怒りなされましたか」 「いうた者が女だ。怒りもせぬが、拙者の所作が、今にも斬られる人間に見えてならぬとはどういう|理《わけ》か」  怒らぬといいながらも、武蔵の眼は、決して、生やさしい光ではなかった。こうして夜明けを待っていても、自分をつつむ吉岡門の|呪《じゅ》|咀《そ》や、策や刃ものを|磨《ま》している気配は、全身に感じている武蔵であった。それは何も、吉野が探りにやって知らせてくれないでも、その前からあらかじめ彼自身は覚悟に持っていたことである。  |蓮《れん》|華《げ》|王《おう》|院《いん》の境内から、あのまま他へ姿をかくすことも考えないでもなかったが、それでは、連れの光悦へ非礼に当るし、また|禿《かむろ》のりん|弥《や》へ、帰って来るといった言葉が嘘になる。同時に、吉岡方の仕返しを怖れて姿をかくしたと、沙汰されては心外とも考えたりして、再び扇屋へ戻って、なんのこともなかったように、あの人々と同席していたのだった。それは武蔵として、かなり苦痛な辛抱でもあったし、自分の余裕を示していたつもりであったのに、なんで吉野は、その|間《かん》の自分の挙止をながめて、未熟だと笑うのか、死相が|面《おもて》に見えるような——と|罵《ののし》るのか。  |傾《けい》|城《せい》の|戯《ざ》れ|口《ぐち》ならば咎めるまでもないが、なにか心得があっていうことならば、これも聞き捨てにならないことと彼は思う。たとえ今、この家を包む|剣《つるぎ》の林の中であっても、開き直って、その|理《わけ》を問い|究《きわ》めて見なければならないと、思わず真率な眼を輝かせて、武蔵は|強《きつ》く|詰問《なじ》ったのであった。      三  ただの眼ではない、そのまま刀の先へつけてもいい眼が、じいっと吉野の白い顔を正視して、彼女の答えを待っているのである。 「——|戯《たわむ》れか!」  容易に開かない|唇《くち》へ、武蔵がこう少し|激《げき》しかかると吉野は、消していた|笑靨《えくぼ》をまたちらと見せ、 「なんの——」  |嬌《にこ》やかに、|頭《かぶり》を振って、 「かりそめにも、兵法者の武蔵さまへ、今のような言葉、なんで|戯《ざ》れ|言《ごと》に申しましょうか」 「では、聴かせい。どうして拙者の身が、そなたの眼には、すぐ敵に斬られそうなと、そんな|脆《もろ》い未熟な|体《たい》に見えるのか。——その|理《わけ》を」 「それほどお訊ねならば、申してみましょう。武蔵さま、あなたは先刻、吉野が皆様へのお慰みに|弾《ひ》いた|琵《び》|琶《わ》の音を聴いておいで遊ばしましたか?」 「琵琶を。あれと拙者の身と、なんの|関《かか》わりがある」 「お訊ねしたのが愚かでした。終始何ものかへ、|張《は》り|緊《つ》めていたあなたのお耳には、あの一曲のうちに|奏《かな》でられた|複雑《こまや》かな音の|種《いろ》|々《いろ》も、恐らくお聴き分けはなかったかも知れませぬ」 「いや、聴いていた。それほど、うつつにはおらぬ」 「では、あの——大絃、中絃、清絃、遊絃のわずか四つしかない|絃《いと》から、どうしてあのように強い調子や、|緩《ゆる》やかな調子や、|種《さま》|々《ざま》な|音《ね》|色《いろ》が、自由自在に鳴り出るのでしょうか。そこまでお聴き分けなさいましたか」 「|要《い》らぬことであろう。拙者はただ、そなたの語る平曲の|熊野《ゆや》を聴いていただけのこと、それ以上なにを聴こう」 「仰せの通りです。それでよいのでございますが、わたくしは今ここで琵琶を一箇の人間として|喩《たと》えてみたいのでございます。——で、ざっとお考えなされても、わずか四つの|絃《いと》と板の胴とから、あのように数多い|音《ね》が鳴り出るというのは、不思議なことでございませぬか。その千変万化の音階を、|譜《ふ》の名で申し上げるよりも、あなたもご存じでございましょう、白楽天の『|琵《び》|琶《わ》|行《こう》』という詩のうちに、琵琶の音いろがよく形容されてありました。——それは」  吉野は、細い眉をちょっとひそめながら、詩を歌う節でもなく、そうかといって、ただの言葉でもない低声で、 [#ここから2字下げ] 大絃は|そう[#「そう」は「口偏」+「曹」Unicode=5608]々《さうさう》 急雨の如く 小絃は切々 私語の如し そう[#「そう」は「口偏」+「曹」Unicode=5608]々切々 |錯《さく》|雑《ざつ》に|弾《だん》ずれば 大珠小珠 玉盤に落つ |間関《かんくわん》たる|鶯《あう》|語《ご》 花底に|滑《なめら》か |幽《いう》|咽《えつ》 泉流 水 |灘《たん》を下る 水泉|冷《れい》|渋《じふ》 |絃凝絶《げんぎょうぜっ》し 凝絶して通ぜず 声暫し|歇《や》む 別に幽愁 暗恨の生ずる|有《あり》 |此《この》|時《とき》声なきは 声あるに|勝《まさ》る |銀ぺい[#「ぺい」は「缶」+「并」Unicode=7f3e]乍《ぎんぺいたちま》ち破れて |水漿迸《すゐしゃうほとばし》り 鉄騎|突出《とっしゅつ》して |刀《たう》|槍《さう》鳴る 曲終つて|撥《ばち》ををさめ |心《むね》に当てて|画《くわく》す 四絃一声 |裂《れっ》|帛《ぱく》のごとし [#ここで字下げ終わり] 「——このように一面の琵琶が|複雑《さまざま》な音を生みまする。わたくしは|禿《かむろ》の頃から、琵琶の体が、不思議で不思議でなりませんでした。そしてついには、自分で琵琶を|壊《こわ》し、また自分で琵琶を作ってみたりするうちに、おろかなわたくしにも、とうとう琵琶の体の|裡《うち》にある琵琶の心を見つけました」  そこで言葉を切ると、吉野はそっと立って、さっき|弾《ひ》いた琵琶をかかえて来て再びそこへ坐った。|海老《えび》|尾《お》を軽く持って、武蔵と自分の間に、それを立てて眺めやりながら、 「ふしぎな音色も、この板の体を割って、琵琶の心を覗いてみるとなんのふしぎでもないことがわかりまする。それをあなたへお目にかけましょう」  |薙刀《なぎなた》の折れでもあるような細い|鉈《なた》が、彼女の|嫋《しな》やかな手に振上げられた。あっと、武蔵が息を|嚥《の》む間に、はやその鉈の刃は、琵琶の|角《こば》へ深く入っていた。|袈《け》|裟《さ》|板《いた》のあたりから|桑《くわ》|胴《どう》の下まで、|丁々《ちょうちょう》と、三打ち四打ち、血の出るような刃音だった。武蔵は自分の骨へ鉈を加えられたような痛みを覚えた。  しかし、吉野は惜し気もなく、見る間に琵琶の体を|縦《たて》に|裂《さ》いてしまっていた。      四 「ご|覧《ろう》じませ」  吉野は、|鉈《なた》をうしろへかくすと、もうさり気ない微笑みを|泛《うか》べて武蔵へいった。  生々しい木肌を|剥《むき》|出《だ》して、裂かれた琵琶の胴は胴の中の構造を、明らさまに|燈《ひ》の下に|晒《さら》している。 「……?」  武蔵は、それと吉野の|面《おもて》とを見較べて、この女性のどこに、今のような烈しい気性があるのかと疑った。武蔵の|頭脳《あたま》にはまだ今の鉈の音が消えさらないで、どこかが痛いように|疼《うず》いているのに、吉野の頬は紅くもなっていなかった。 「この通り、琵琶の中は、|空虚《うつろ》も同じでございましょうが。では、あの|種《さま》|々《ざま》な|音《ね》の変化はどこから起るのかと思いますと、この胴の中に|架《わた》してある横木ひとつでございまする。この横木こそ、琵琶の体を持ち支えている骨であり、|臓《ぞう》でもあり、心でもありまする。——なれど、この横木とても、ただ頑丈に真っ直に、胴を|張《は》り|緊《し》めているだけでは、なんの曲もございませぬ。その変化を生むために横木には、このようにわざと抑揚の波を削りつけてあるのでございまする。——ところが、それでもまだ真の音色というものは出てまいりません。真の音色はどこからといえば——この横木の両端の力を、程よく|削《そ》ぎ取ってある|弛《ゆる》みから生れてくるのでございまする。——わたくしが、粗末ながらこの一面の琵琶を砕いて、あなたに分っていただきたいと思う点は——つまりわたくし達人間の生きてゆく心構えも、この琵琶と似たものではなかろうかと思うことでござりまする」 「…………」  武蔵の眸は、琵琶の胴からうごかなかった。 「それくらいなこと誰でも分りきっていることのようで、実はなかなか琵琶の横木ほども、お|肚《なか》に据えていられないのが人間でございますまいか。——四絃に|一《ひと》|撥《ばち》打てば、刀槍も鳴り、雲も裂けるような、あの強い調子を生む胴の裡には、こうした横木の|弛《ゆる》みと|緊《し》まりとが、程よく加減されてあるのを見て、わたくしは或る時、これを人の日常として、|沁《しみ》|々《じみ》、思い当ったことがあったのでございまする。……そのことを、ふと、今宵のあなたの身の上に寄せて考え合わせてみると……ああ、これは危ういお人、張り緊まっているだけで、|弛《ゆる》みといっては、|微《み》|塵《じん》もない。……もしこういう琵琶があったとして、それへ|撥《ばち》を当てるとしたら、音の自由とか変化はもとよりなく、無理に|弾《ひ》けば、きっと|絃《いと》は|断《き》れ、胴は裂けてしまうであろうに……、こうわたくしは、失礼ながらあなたのご様子を見て、|密《ひそか》にお案じ申していたわけなのでござりまする。決して、ただ|悪《あ》しざまに申したり、|戯《ざ》れ|口《ぐち》を|弄《もてあそ》んだ次第ではありませぬ。どうぞ、|烏《お》|滸《こ》がましい女の取越し苦労と、お聞き流し下さいませ」  ——|鶏《とり》の声が遠くでしていた。  戸の隙まから、雪のために強い朝の陽がもう|射《さ》していたのである。  白い木屑と|断《き》れた四絃の残骸を見つめたまま、武蔵は、|鶏《とり》の声も耳に覚えなかった。戸の隙まから陽の光がさしていたのにも気づかなかった。 「……お。いつの間にか」  吉野は、夜明けを惜しむように炉の火へ|焚《たき》|木《ぎ》を足そうとしたが、牡丹の木はもうなかった。  戸を開ける物音や、|小禽《ことり》のさえずりや、朝の気配が遠い世間のようにきこえる。  けれど吉野は、いつまでも、ここの雨戸を開けようとはしない。牡丹の木はなくなっても、彼女の血はまだ温かだった。  |禿《かむろ》や引船も、彼女が呼ばないうちは、ここの戸を無断で開けて入ってくるはずもなかった。     |春《はる》を|病《や》む|人《ひと》      一  あわただしく解け去った春の雪であった。おとといの降りはもう|痕《あと》かたもない。急につよく感じられる陽に、今日は綿の物は肌から皆捨ててしまいたくなった。|温《ぬる》い風に|騎《の》って、春はいっさんに駈けつけて来たかのように、すべての植物の芽を|鮮《あざ》らかに|膨《ふく》らませていた。 「たのもう。物もうす」  背まで|泥濘《ぬかるみ》の|刎《は》ねを上げている若い旅の禅坊主だった。  烏丸家の玄関に立ち、さっきから、大声でこう申し入れていたが、出て来る者がないので、|雑掌部屋《ざっしょうべや》の外へ廻り、そこの窓から背伸びして覗いていると、 「なんだい? お坊さん」  後ろからいう少年があった。  禅坊主は振向いたが、 (お前こそ何者だ?)  と問いたげな眼をして、その奇態な風態の子供を見まもった。  烏丸光広卿の|館《やかた》の中に、どうしてこんな|童《わらべ》がいるのか、その不調和に眼をみはったのであろう。禅坊主は変な顔したまま、じろじろと城太郎の姿ばかり見ていて物をいわないのである。  相変らず長い木剣を腰に横たえ、なにを入れているのか、|懐中《ふところ》を大きく膨らませて、その上を城太郎は手で抑えながら、 「お坊さん、お|施《せ》|米《まい》をもらうなら台所の方へ廻らなければだめだよ。裏門を知らないのかい」  と、いった。 「お施米。——そんな物をいただきに来たのじゃない」  若い禅坊主は、自分の胸にかけている|文《ふ》|筥《ばこ》を眼で示し、 「わしは、泉州の南宗寺の者だが、このお|館《やかた》へ来ている|宗彭沢庵《しゅうほうたくあん》どのへ、急な御書面をお届けするために出て来たのだ。おまえは、お台所へ出入りの小僧か」 「おいらか、ここに泊っている者だよ。沢庵様と同じお客様なんだ」 「ほうそうか、然らば沢庵どのへ告げてくれぬか。——お国元の|但馬《たじま》から寺中へ宛てて、なにか、火急なお手紙がまいりましたゆえ、南宗寺の者が持って伺いましたと」 「じゃあ待ッといで。今、沢庵さんを、呼んで来てやるから」  城太郎は玄関へ飛び上がった。汚い|踵《かかと》の|痕《あと》が式台にべたべた残る。そこの|衝《つい》|立《たて》の脚に|躓《つまず》いた|弾《はず》みに、彼が手で抑えていたふところの中から、小さい|蜜《み》|柑《かん》が幾つも転がり出した。  あわてて、蜜柑を掻きあつめ、城太郎は往来を飛ぶように奥へ駈けて行った。ややしばらく経って彼はまたそこへ戻って来て、 「いないよ」  と、待っている南宗寺の使いへいった。 「いるかと思ったら、きょうは、朝から大徳寺へ行ったんだとさ」 「お帰りは分りませぬか」 「もう帰って来るだろ」 「では、待たせて置いてもらいます。どこかお邪魔にならないお部屋はありませんか」 「あるよ」  城太郎は外へ出て来た。この館のことならなんでも|弁《わきま》えているように、心得顔して先に歩き、 「お坊さん、この中で待っているといいよ。ここの中なら邪魔にならないから」  と、牛小屋へ案内した。  |藁《わら》だの、|牛車《くるま》の輪だの、牛の糞だのが、いっぱいに散らかっている。南宗寺の使いは驚いた顔したが、城太郎はもう客を置いて|彼方《あなた》へ駈け出していた。  広い邸内を庭づたいに走り、「西の|屋《おく》」の陽あたりのよい|一《ひと》|間《ま》を覗いて、 「——お通さん、蜜柑買って来たよ」  と、さけんだ。      二  薬を|服《の》んでいるし、手当も十分なはずなのに、どうしたのか、こんどの|熱症《ねつ》はさがらない。  従って、食慾がなかった。  自分の|面《おもて》へ手が触れるたびに、お通は、 (ああ、こんなに痩せて)  と、ふと驚く。  病気というような病気は自分でもないと信じているし、見舞ってくれた烏丸家の医師も、心配はないと保証していたが、どうしてこう痩せてしまうのかしら——そこについ神経質な悩みと|熱症《ねつ》がからむ。しきりに、|唇《くち》が乾くので、 (蜜柑が喰べたい)  と、ふと洩らしたところ、この数日来、なんにも喰べないでいる彼女の容態をひどく心配していた城太郎は、 (蜜柑——)  と、問い返すと、早速、それを取りに、|先刻《さ っ き》ここを出て行ったのであった。  台所の役人に聞いたところが、蜜柑などはお|館《やかた》にもないという。それから外へ出て、青物店だの食べ物屋を見て歩いたが、どこにも蜜柑はなかった。  |京極《きょうごく》の原に、市が立っていた。彼はそこへも行って、 (蜜柑はないか、蜜柑はないか)  と、捜し歩いたが、絹糸だの、木綿だの、油だの、毛皮だの、そんな店ばかり出ていて、蜜柑など一つだって見つからなかった。  城太郎は、どうかして、彼女の喰べたいという蜜柑を手に入れたいと思った。よその屋敷の塀の上にたまたま、その蜜柑があったと思って、盗んでもほしい気がして寄って見ると、それは|橙《だいだい》であったり、喰べられない|花《か》|梨《りん》の|実《み》であった。  京都の町を、半分も捜してあるいた。すると、あるお|社《やしろ》の拝殿にその蜜柑が見つかった。|芋《いも》だの人参だのといっしょに、|三《さん》|方《ぼう》に載って、神前に上がっていたのである。城太郎は蜜柑だけ|懐中《ふところ》に詰めこんで逃げて来たのだった。うしろから神様が、 (泥棒、泥棒)  と追いかけて来るような気持がした。城太郎は、それが怖くなって、 (私は喰べませんから、|罰《ばち》をあてないでください)  と、烏丸家の門の中へ逃げ込むまで、胸の中で|謝《あやま》っていた。  けれど、お通には、そんなことは話せない。枕元へ坐って、懐中の蜜柑を出して一つずつならべて見せ、そのうちの一個を取ってさっそく、 「お通さん、うまそうだぜ、喰べてごらん」  皮を|剥《む》いて、彼女の手に持たせてやると、お通は、なにかつよい感情に|衝《つ》かれたとみえ、顔を横にかくしたまま、蜜柑は喰べようともしないのであった。 「どうしたのさ」  城太郎は、その顔をのぞきこんだ。  |厭《いと》うように、お通は、よけいに枕へ顔を|埋《うず》めてしまい、 「……どうもしやしない。どうもしやしない」  といった。  城太郎は、舌打ちして、 「また、泣虫が始まったね。|歓《よろこ》ぶかと思って蜜柑を買って来たら、泣いちまうんだもの——つまらねえなあ」 「ごめんよ。城太さん」 「喰べないの」 「……ええ後で」 「|剥《む》いたのだけ喰べてみなよ。ね……喰べてみれば、きっと、|美味《おい》しいよ」 「美味しいでしょう、城太さんの気持だけでも。……だけど喰べ物を見ると、もう|唇《くち》へ入れる気にならないんです。……|勿《もっ》|体《たい》ないけれど」 「泣くからさ。なにがそんなに悲しいの」 「城太さんが、あんまり親切にしてくれるから、|欣《うれ》しくって」 「泣いちゃ厭だなあ、おいらも泣きたくなっちまわあ」 「もう泣かない……もう泣かない……かんにんしてね」 「じゃ、それ喰べてくれる。なにか喰べないと、死んじまうぜ」 「わたし、後でいただきます。城太さんお喰べ」 「おいらは、喰べない」  神さまの眼を恐れて、城太郎はそういいながら|生《なま》|唾《つば》をのんだ。      三 「いつも、城太さん、蜜柑は好きじゃないの?」 「好きだけれど」 「どうして、きょうは、喰べないの」 「どうしてでも」 「わたしが喰べないから?」 「え。……ああ」 「じゃあ、わたしも喰べるから……城太さんも、おあがり」  お通は、顔を仰向けに直して、細い指で、蜜柑のふくろの|繊維《すじ》を|除《と》っている。城太郎は、困った顔して、 「ほんとはね、お通さん、おいら、途中でもう、たくさん喰べて来たんだよ」 「……そう」  乾いている|唇《くち》へ蜜柑の一ふさを含みながら、お通はうつつのようにいった。 「沢庵さんは?」 「きょうは、大徳寺へ行ったんだって」 「おととい、沢庵さんは、よその家で、武蔵様に会ったんですってね」 「アア。聞いた?」 「え。……その時、沢庵さんは、わたしがここにいることを、武蔵様へ話したかしら」 「話したろ、きっと」 「そのうちに、武蔵様をここへ呼んでやると、沢庵さんは、わたしにおっしゃったけれど、城太さんには、なんにもいっていなかった?」 「おいらには、なんにもそんなことはいわないよ」 「……忘れているのかしら」 「帰って来たら、そういってみようか」 「ええ」  と、彼女は初めて、ニコと、枕の上から|笑《え》みを向けて、 「……だけど、訊くならわたしがいないところでね」 「お通さんの前で訊いちゃいけないの」 「きまりが悪いから」 「そんなことないさ」 「でも、沢庵さんは、わたしの病気を、|武蔵病《むさしびょう》だなんていうんだもの」 「アラ、いつの間にか、喰べちゃったぞ」 「なに、蜜柑」 「も一つ喰べない」 「もう、たくさん、美味しかったわ」 「きっと、これから、なんでも食べられるよ。こんな時に、武蔵様が来れば、きっと、すぐ起きられてしまえるんだがな」 「城太さんまで、そんなことをいって」  城太郎とこんな話をしているうちは、|熱症《ねつ》も体の痛さも忘れている彼女であった。  そこへ、烏丸家の小侍が、 「城太どの、いますか」  と、縁の外からいう。 「はい、おります」  答えると、 「沢庵どのが、あちらでお呼びです。すぐおいでなさい」  と告げて去った。 「おや、沢庵さん、帰って来たのかしら」 「行ってごらんなさい」 「お通さん、さびしくない」 「いいえ」 「じゃあ、用がすんだら、すぐ来るからね」  枕元を、立ちかけると、 「城太さん……あのこと、忘れずに、訊いてね」 「あのことって?」 「もう忘れたの」 「あ、武蔵様が、いつここへ来るのかって、それを催促することだね」  お通の痩せている頬に、紅い血がかすかにさした。その顔を夜具の襟で半分かくしながら、 「いいこと、忘れてはだめですよ、きっとね、きっと訊いてね」  と、念を押した。      四  沢庵は光広の居間へ来て、光広と何か話している折だった。  そこの|襖《ふすま》を開けて、 「沢庵さん、なにか用?」  城太郎が後ろに立つと、 「まあ、坐りなさい」  と沢庵がいい、光広は、城太郎の不作法を|寛《ゆる》している眼元で、にやにや眺めていた。  側へ坐るとすぐ、城太郎は沢庵へ向っていった。 「あのね、沢庵さんとこへ、泉州の南宗寺から、沢庵さんみたいな坊さんが、急用の使いに来て待ってるよ。呼んで来てあげようか」 「いや、そのことなら、今聞いた」 「もう会ったの」 「ひどい小僧だと、あの使いがこぼしていたぞ」 「どうして」 「はるばる来た者を、牛小屋へ案内して、ここで待っておれといったまま、捨てておいたというじゃないか」 「でもあの人が、自分から、どこか邪魔にならないところへ置いてくれといったからさ」  光広は、膝を|揺《ゆ》すって、 「ハハハハハ、牛小屋へ入れておいたのか、それは|酷《ひど》い」  と、笑った。  しかし、すぐ真顔に返って、 「では御坊には、泉州へ戻らずに、ここからすぐ|但馬《たじま》へ御発足あるか」  と、沢庵へ向って訊く。  沢庵はうなずいて、なにぶん、気がかりな書面の内容であるから、ぜひそうしたいと答え、支度といってもべつだんない身でもあるし、|明日《あした》といわずに、今すぐお別れ申したいという。  ふたりの話の様子を、城太郎は|不審《いぶか》って、 「沢庵さん、旅へ立つの」 「急に国元へ行かねばならぬことになってな」 「なんの用?」 「|故郷《くに》にいる老母が寝ついて、今度はだいぶ|重態《おも》いという気がかりな|報《し》らせだから」 「沢庵さんにも、おっ|母《か》さんがあったの」 「わしだって、木の|股《また》から生れた子ではないよ」 「今度はいつ帰って来るつもり」 「母の|容《よう》|子《す》次第で」 「すると……困ったなあ……沢庵さんがいなくなっちゃうと」  と、城太郎はそこで、お通の気持を思い遣ったり、また彼女と、自分の行く先なども考え出して、心細くなったものか、 「じゃもう、沢庵さんとは会えなくなるの?」 「そんなことはない。またきっと会える。おまえ達二人のことは、お|館《やかた》へもようお頼みしてあるから、お通さんも、くよくよせずに、早く体を丈夫にするよう、おまえも勇気をつけてやってくれ。あの病人は薬よりも、心の力がほしいのだ」 「それが、おいらの力では駄目なんだよ。武蔵様が来てくれないと|癒《なお》らないぜ」 「困った病人だのう。おまえも飛んでもない者と、この世の道連れになったものだ」 「おとといの晩、沢庵さんは、どこかで武蔵様に会ったんだろ」 「ウム……」  光広と顔を見あわせて、沢庵は苦笑をながした。どこでと、突っ込んで場所を訊かれては困りそうな顔つきであったが、城太郎の質問は、そういう|枝《し》|葉《よう》には触れず、 「武蔵様は、いつここへ来るの。沢庵さんが、武蔵様をここへ呼んでやるといったもんだから、お通さんは、毎日、そればかり待ってるじゃないか。ねえ沢庵さん、おいらのお師匠さまは一体、今どこにいるのさ」  その|住所《ところ》さえ分れば、今すぐにでも、自分で迎えに行きたそうな城太郎の質問であった。 「ウム……あの武蔵のことか」  あいまいに、こういったが、沢庵もその武蔵とお通とを会わせてやろうという、親切を忘れてしまっているわけではさらさらない。今日もそれを心にかけて、大徳寺の帰り途に光悦の家へ立寄り、武蔵の在否を訊ねてみたところ、光悦が困った顔していうには、どういうものかおとといの晩以来武蔵はいまだに扇屋から戻って来ない。母の妙秀尼も案じるので早く帰してくれるように、今も吉野太夫へ手紙を|遣《つか》わして、頼んでやったところです——という彼の話なのである。      五 「ホ。……では武蔵とやらいうあの夜の男は、あれきり吉野太夫の|許《もと》から帰って来ぬのか」  光広は聞いて|眼《まなこ》をみはった。  半ばは、意外なこととして、半ばは軽い嫉妬も手伝って、|大仰《おおぎょう》にそういったのである。  沢庵は城太郎のてまえ、多くをいわなかったが、ただ、 「あれもやはり、平凡な、つまらん人間でしかないとみえる。とかく若いうち天才らしく見える者ほど、行く末当てにならないものだ」 「したが、吉野も変りものじゃなあ。——どこがようて、あんな|穢《きたな》い武骨者に」 「吉野にせよ、お通にせよ、女の気心のみは沢庵にも|解《げ》しかねる。わしの眼からは皆ひとしい病人としか思えぬが、武蔵にもそろそろ人間の春が訪れて来たのでござろう……これからがほんとの修行、危ないのは剣よりは女子の手だが、他人の力でどうなるものではなし、|抛《ほ》っておくしかあるまいて」  独り言のように呟いてから、沢庵はふと旅の空へ心を急ぎ、光広へ向って、改めて別れを告げた上、なお当分の間ではあるが、病中のお通と、城太郎の身とをくれぐれも|館《やかた》に託して、それから間もなく烏丸家の門を|飄然《ひょうぜん》と出て行った。旅を朝立つものと決めているのは、普通の旅行者のことであって、沢庵には朝立ちも夕立ちもさしたる問題ではないらしい。今もすでに、|陽《ひ》|脚《あし》は西にうすづいて、往来の人影にも、のろく通る牛車にも、虹いろの|暮《ぼ》|靄《あい》が|映《さ》していた。  沢庵さん、沢庵さん、と頻りに後から呼びかけて追って来る者がある。——城太郎だなと沢庵は困ったような顔つきを振り向ける。城太郎は息をきって、彼の|袂《たもと》をとらえ、懸命に訴えた。 「後生だから沢庵さん、もいちど帰って、お通さんになんとかいっておくれよ。お通さんがまた泣き出しちまって、おいらには、どうしていいか分らないんだもの」 「おまえ、話したのか。——武蔵のことを」 「だって、訊くから」 「そしたら、お通さんが、泣きだしたというのか」 「ことによると、お通さんは、死んでしまうかも知れないぜ」 「どうして」 「死にたそうな顔しているもの。——こんなこといったよ。——もいちど会って死にたい、もいちど会ってから死にたいッて」 「じゃあ、死ぬ気づかいない。|抛《ほ》っとけ、抛っとけ」 「沢庵さん、吉野太夫って、どこにいる人」 「そんなこと訊いて、どうするつもりじゃ」 「お師匠さまは、そこにいるんじゃないか。さっき、お館さまと沢庵さんが、話していたろ」 「おまえは、そんなことまで、お通さんに|喋《しゃべ》ったのか」 「ああ」 「それではあの泣虫さんが、死にそうなことを口走るわけじゃ。わしが戻ってみたところで、|遽《にわか》にお通さんの病気を|癒《なお》してやる思案もないから、わしがこういったと、告げなさい」 「なんというの」 「御飯をお喰べって」 「なんだ、そんなことなら、おいらが一日に百|遍《ぺん》もいってら」 「そうか。それはお前のいう言葉が、そのまま、お通さんにとっては無二の名言なのだが、それさえ耳に通らない病人ならば、仕方がないから、なにもかも正直にいって聞かせるのだな」 「どういう風に」 「武蔵は、吉野という|傾《けい》|城《せい》にうつつをぬかし、きょうで三日も扇屋から帰って来ぬという。それを見ても、武蔵がお通さんを少しも想っていないことがわかろう。そんな男を慕うて、どうする気じゃと、よく、泣虫のお馬鹿さんにいうてやるがよい」  聞くも|忌《いま》|々《いま》しげに、城太郎は強くかぶりを振った。 「そんなこと、あるもんか。おいらのお師匠さまは、そんな武士じゃない。そんなことをいったらお通さんは、ほんとに自分で死んでしまうぞ。なんだい沢庵坊主め、おまえこそ大馬鹿だ、大馬鹿三太郎だっ」      六 「叱られたな。ハハハ、怒ったのか、城太郎」 「おいらのお師匠さまのこと悪くいうからさ。お通さんのことを馬鹿だなんていうからさ」 「おまえ可愛い奴だ」  頭を撫でてやると、城太郎は、その頭をうごかして、沢庵の手を振り落し、 「もういいよ。沢庵坊主なんか、なにも頼まないから。おいら一人で武蔵様を捜して来て、お通さんに会わせてやるからいい」 「知ってるか」 「なにをよ」 「武蔵のいる処を」 「知らなくたって、捜せば知れらい。よけいな心配するな」 「|小癪《こしゃく》なことをいっても、おまえには、吉野太夫の家はなかなか分らぬぞ。教えてやろうか」 「頼まない、頼まない」 「そうぽんぽん当るな城太郎。わしじゃとて、お通さんの|仇《かたき》じゃない、武蔵を憎む理由もない。それどころか、どうかして、あのふたりが二人とも、よい生涯を|完《まっと》うしてくれるように蔭で祈っている者だ」 「じゃあどうして意地悪をするんだい」 「おまえには、意地悪と見えるのか。そうかも知れんな。だが、武蔵もお通さんも、今のところ、どっちもまあ病人のようなものだ。体の|病《やまい》を|癒《なお》すのが医者で、心の病を|治《なお》すのが坊主ということになっているが、その心の病のうちでもお通さんのは重態だ、武蔵のほうは、抛っておけばどうにかなろうが、お通さんの方はわしにも今のところではどうにもならん。だから|匙《さじ》を投げていうのだよ——武蔵のような男に、片想いしてどうするんだ、さらりと思い切って、御飯をたんと喰べ直せとな。——そういうよりほかないじゃないか」 「だからいいよ、くそ坊主の|汝《てめえ》なんかに、なにも頼むといやしねえや」 「わしの言葉が、嘘だと思ったら、六条柳町の扇屋へゆき、そこで武蔵が、どうしているか、見届けて来い。そして見たままの事実を、お通さんに話してやれ。いちどは歎きかなしむだろうが、それで眼が|醒《さ》めれば結構じゃ」  城太郎は耳の穴へ、指で|栓《せん》をして、 「うるさい、うるさい、どん栗坊主」 「なんじゃ、わしの後を追いかけて来たくせに」 「坊主坊主、お|布《ふ》|施《せ》はないぞ、お布施ほしけれや、唄うたえ」  沢庵の背へ、こう|謡口調《うたくちょう》で|罵《ののし》りながら、城太郎は耳をふさいだまま、遠くなってゆく姿を見送っていた。  しかし、沢庵の影が、|彼方《あちら》の辻の横へかくれると城太郎の眼には、涙がせりあがって来て、それがぼろぼろと|溢《あふ》れ落ちるまで、ぼんやり|佇《たたず》んでいた。  あわてて|肱《ひじ》を曲げ、涙の顔を横にこすると、彼は、迷っている犬の子が、急になにか思い出したように往来を見まわして、 「おばさん!」  |被衣《かつぎ》して通りかかった女房風の女のそばへ駈け寄った。  そして、いきなり、 「六条柳町ってどこ」  と訊ねた。  びっくりしたように女は、 「|遊廓《くるわ》でしょう」 「遊廓って何?」 「まあ」 「何するとこ」 「嫌な子だね!」  睨みつけて、その女は、通り過ぎてしまった。  なんでそうされたのか、城太郎はそんな不審にたじろいではいない。|懲《こ》りもせず次々に、六条柳町への道と、そこの扇屋という家を訊いて歩いた。     |伽《きゃ》|羅《ら》の|君《きみ》      一  |爛《らん》|漫《まん》と、|楼《ろう》に灯は入ったが、まだ三筋の柳町に、買手どもの影は見えない宵の口であった。  扇屋の若い者は、何気なく入口の人影を見てぎょッとした。|大《おお》|暖《の》|簾《れん》のあいだから首を入れ、家の中をキョロキョロ|覗《のぞ》いている二つの|眼《まなこ》に驚いたのである。暖簾の裾に汚い草履と木剣の先が見えたので、なにか途端に、勘ちがいをしたものらしく、あわてて|他《ほか》の男達をよび立てようとすると、 「おじさん」  と城太郎がはいって来て、いきなりこう訊ねた。 「ここの|楼《うち》に、宮本武蔵様が来てるだろ。武蔵様は、おいらのお師匠さまだから、城太郎が来たっていえば分るんだけれど、取次いでくれないか。それでなければ、ここへ呼んでくれないか」  扇屋の若い者は、子供と分ってほっとしたような顔をした。けれど、先にぎょッとした驚きの反動がむかっと、その顔に筋を立てて、 「なんだ|汝《てめえ》は。もの貰いか。風の子か。——武蔵様なんて、そんな者は、いねえいねえ、宵の口から暖簾先へ、うす汚ねえ|風《ふう》|体《てい》してはいって来やがって、ササ出て行け出て行け」  |襟《えり》がみを|抓《つま》んで、外へ持って行こうとすると、城太郎は、|虎《とら》|河豚《ふぐ》のように|勃《ぼつ》|然《ぜん》と怒って、 「なにするんだ、おいらは、お師匠様に会いに来たんだぞ」 「ばか野郎、|汝《てめえ》の師匠だかなんだか知らねえが、その武蔵という人間のために、おとといから大迷惑をしているところだ。今朝も、今し方も、吉岡道場の使いが来て、それにもいってやった通り、もう武蔵はここにはとっくにいねえのだ」 「いないなら、大人しく、いないといえば分るじゃないか。なんだって、おいらの襟くびをつかむんだ」 「暖簾へ首を突っ込んで、気持のわるい眼で中を覗いていやがるから、おれはまた、吉岡道場の廻し者が来たかと思って、ひやりとしたじゃねえか。|忌《いま》|々《いま》しい小僧ッ子|奴《め》が」 「びっくりしたのは、そっちの勝手じゃないか、武蔵様は、|何時《いつ》|頃《ごろ》、そしてどこへ帰ったのか、教えてくれ」 「こいつ、さんざん人に悪たい[#「たい」に傍点]をついていながら、今度は教えてくれなんて、虫のいいことを|吐《ぬ》かしやがる。そんな番をしているか」 「知らなきゃいいから、おいらの襟首を離せ」 「ただは離さねえ、こうして離してやる」  耳たぶ[#「たぶ」に傍点]を強く持って、一廻り振廻して暖簾の外へ突き放そうとすると、城太郎は、 「痛い、痛い、痛い」  さけびながら腰を落し、下から木剣を抜いて、若い男の|顎《あご》をふいに|撲《なぐ》りつけた。 「あっ、このチビ」  前歯を折られて、真っ赤に染まった|顎《あご》を抑えながら、彼を暖簾の外まで追いかけてゆくと、うろたえた城太郎は、 「誰か来てくれーッ。このおじさんがいけないよっ」  往来へ、こう大声で、危急を訴えながら、持っていた木剣は、その悲鳴とは反対に、いつか小柳生城で猛犬の太郎を|擲《なぐ》り殺したような力で、振り向きざま、ぐわんと男の脳天を打っていた。  みみず[#「みみず」に傍点]の鳴いたような、細い|呻《うめ》きを鼻血といっしょに洩らして、若い男は柳の樹の下へヘロヘロと仆れた。  ——と、向う側の格子先で見ていた客引き女が、軒ならびの格子へ向ってさけんだ。 「あらっ、あらっ、あの木刀を持った小僧が、扇屋の若い者を殺して逃げたっ」  すると、夜中のように人影のなかった往来に、わらわらと駈け出す者の影がみだれて、 「人殺し——」 「人が殺された」  と、血なまぐさい声が宵の風にながれた。      二  喧嘩沙汰は年中のことだし、血なまぐさいものを、秘密裡にまた迅速に、処理してしまうことにもこの|遊廓《さと》の者は馴れていた。 「どこへ逃げた?」 「どんな小僧か」  と、血相の|恐《こわ》い男たちが、捜しまわっていたのも一瞬のことで、程なく、編笠すがたや|伊達《だて》すがたして、灯に群れる虫のように、ぞろぞろと、ぞめき[#「ぞめき」に傍点]に流れ込んで来た買手どもは、もう紅燈の下に、そんな事件が、|半《はん》|刻《とき》前に行われたという噂すら知らなかった。  三筋の往来は、|更《ふ》けるほど|雑《ざっ》|鬧《とう》してきたが、裏は、真っ暗な横町だの、田だの原だのが、しいんとしていた。  どこに隠れていたか、城太郎は頃あいを見すまして、暗い路地から犬の子みたいに這い出した。そしていっさんに暗い方へ向って駈けた。  そのまま、ここの闇は世間の闇へつづいているのかと単純に思っていたのである。ところが、一丈もある|柵《さく》へ彼は突き当ってしまった。その柵は、この六条柳町を全部、城郭のように堅固にとり囲んでいる。先を|尖《とが》らした焼丸太が|結《ゆ》いまわしてあって、いくらそれに沿って歩いてみても、外へ出られる木戸も隙間もなかった。  少し歩くと、明るい町尻の往来へ出てしまうので、城太郎はまた暗いほうへもどって来た。すると、彼の挙動に注意しながら、後から|尾《つ》いて来た女が、 「|童《こども》。……童」  白い手で招いた。  最初——城太郎は疑わしげな眼を光らして、しばらく、闇の中に立ちどまっていたが、やがてのそのそ戻って来て、 「おいらのことかい」  女の白い顔に、害意のないことを確かめると、彼はまた一歩、近づいて行きながら、 「なんだい?」  と、いった。  女はやさしく、 「おまえかい、夕方、扇屋の入口へ来て、武蔵様に会わせてくれといっていたという子は」 「あ、そうだ」 「城太郎というんでしょう」 「うん」 「じゃあ、そっと、武蔵様に会わせてあげるからこちらへおいで」 「ど、どこへ」  と、今度は、城太郎が尻ごみしてしまう。そこで女が、彼の安心がゆくように説明してやると、城太郎は、 「じゃあおばさんは、吉野太夫っていう人の|召使《めしつかい》なの」  地獄で仏に会ったような顔を見せ、初めて心をゆるしたように|従《つ》いて行った。  その引船のことばによると、夕方の騒ぎを耳にすると、吉野太夫はいたく心配して、もし捕まったら、自分が口をきいて助けてやるからすぐ知らせて来るように——もしまた、どこかに|潜《ひそ》んでいるのを見つけたら、そっと、裏庭の木戸から、例の|田舎《いなか》の|間《ま》へ、導き入れて、武蔵に会わせてやるようにという|吩咐《いいつけ》をうけて来たのだという。 「もう、心配おしでない。吉野様がお声をかけて下さりさえすれば、この|廓《さと》で通らぬことはないのだから」 「おばさん、おいらのお師匠様はほんとにいるんだろうね」 「いないものを、なんでおまえを捜して、こんなところへ連れて来ましょう」 「いったいこんなところでなにしてるんだろ?」 「なにしていらっしゃるか。……それはもう、そこに見える田舎家の内においでになるから、戸の隙間からのぞいてごらん。……では、わたしは|彼方《むこう》のお座敷がいそがしいから」  引船は|彼方《あなた》の庭の植込みへ、忍びやかに、影をかくした。      三  ほんとかなあ?  ほんとにいるのかしら。  どうも城太郎には、素直に信じられないらしいのである。  あれ程、捜しに捜しぬいていた師の武蔵が、今、自分の立っているすぐ眼の前の小屋の中にいる——それがどうも彼には余り簡単すぎて受けとり難い。  では|諦《あきら》めて、止すかと思えば、それどころか、その田舎家を|繞《めぐ》り歩いて、しきりともう、中を|覗《のぞ》き得る窓をさがしている城太郎なのでもある。  家の横に、窓はあった。ただし彼の|背《せ》|丈《たけ》では寸法がちと足らない。そこで城太郎は、植込みの間から石をころがして来てそれへ乗ってみた。——竹の|櫺《れん》|子《じ》にやっと鼻が届く。 「……ア、お師匠様だ」  覗き見した行為に顧みて、彼は、声をのんでしまったが、そこからでも手を伸ばしたいような懐かしい人の姿に、城太郎は久し振りで出会った。  炉のそばに、武蔵は、手枕をかってうたた寝していた。 「——|暢《のん》|気《き》だなあ」  と、呆れ果てたような丸い眼が、そのまま、窓の竹格子に、貼り付いていた。  |快《こころよ》げに昼寝している武蔵のからだの上には、誰がそっとかけて行ったのか、桃山|刺《ぬ》|繍《い》の重そうな|裲襠《うちかけ》が着せてあった。また、彼の身に着けている小袖も、常のごつごつした地味なものとは違い、|伊達《だて》|者《しゃ》の好みそうな大柄の着物を着ていた。  少し離れて、一枚の朱い|毛《もう》|氈《せん》が敷いてあり、|画《え》|筆《ふで》だの、|硯《すずり》だの、紙だのが散らかっている。その|反《ほ》|古《ご》のうちには、手習いしたような|茄子《なす》の絵や、鶏の半身などが見えた。 「こんな所で、絵なんぞ描いていたんだぜ。お通さんの病気を知らないでさ」  城太郎は、ふと、|憤《いきどお》りに似たものを胸に抱いた。武蔵のからだにかけてある女の|裲襠《うちかけ》が気に喰わないのである。また、武蔵の着ている派手な着物に|嫌《けん》|厭《えん》がわくのであった。彼にも、そこらに漂っている|艶《なま》めいたものの匂いは分っている。  この正月、五条大橋で彼が見つけた時も、武蔵は、若い娘に|縋《すが》られて、往来中で泣かれていた。今見れば、またこの|態《てい》だし、 (どうかしているぞ、この頃、おいらのお師匠さまは)  と、大人の|慨《がい》|嘆《たん》|然《ぜん》たりという顔つきに似たようなほろ苦さが、彼の幼い心にも、込み上げて来ずにいられないものらしいのである。  それからふと、 (よし、驚かしてやれ)  と、|悪戯心《いたずらごころ》が、|忌《いま》|々《いま》しさを|唆《そそ》って来て、なにか、思いついたらしく、そっと石の上から脚を下そうとすると、 「城太郎、誰と来た?」  武蔵の声である。 「え?」  また、覗いてみると、眠っていた人は、うす眼を開いて、笑っていた。 「…………」  返辞よりも先に城太郎は表の戸口へ駈け廻って、そこを開けるや否や、中へ入って武蔵の肩に抱きついていた。 「お師匠さま!」 「おう……来たか」  仰向いたまま、|肱《ひじ》を伸ばして、武蔵は彼の|埃《ほこり》くさい頭を胸へ抱えこみ、 「どうして分った? ……。沢庵坊にでも訊いて来たか。しばらくだったなあ」  むっくりと、武蔵は彼の首を抱いたまま身を起した。久しく忘れていた|懐中《ふところ》の|温《ぬく》みに城太郎は、|狆《ちん》がじゃれるように、いつまでも、その首を武蔵の膝から離そうともしなかった。      四  ——今、お通さんは|病《やまい》の床についている。そのお通さんは、どんなに、どんなに、お師匠さまに会いたがっているか知れない。  かわいそうだ!  お通さんは、お師匠さまのあなたに、会えばいいっていうんだ。それだけなんだ。  この正月の元日、五条の大橋でよそながら出会うことは出会ったが、お師匠さまが変ちくりん[#「ちくりん」に傍点]な女と仲がよさそうに話したり泣かれたりしていたので、お通さんはすっかり怒ってしまい、|蓋《ふた》を|閉《し》めた|蝸牛《まいまい》のように、いくら手を引っ張ったって、出て来やしない。  むりもないや。  おいらだって、あの時、なんだかむしゃくしゃして、|癪《しゃく》にさわったもの。  でも、そんなことはもういいから、これからすぐに、烏丸のお|館《やかた》まで来てください。そして、お通さんに、来たよといってやってください。それだけでも、お通さんの病気はきっと|癒《なお》ってしまうに違いありませんから。  ——以上の言葉は、城太郎が、未熟な弁を懸命にふるって、武蔵へうったえた沢山の|口《くち》|数《かず》のあらましである。 「……うん。……うん」  武蔵は何度もうなずいていう。 「そうか、……そうだったのか」  と、同じように。  そして|肝《かん》|腎《じん》かなめ[#「かなめ」に傍点]な——ではお通に会おうということは、なぜか、口を結んでいわないのである。  頼みに頼み、訴えに訴えぬいても、武蔵が、|巌《いわ》みたいに、こちらのいうことを|肯《き》いてくれないと、城太郎はそれ以上いいようもなくなって、なんだか、武蔵という人が、あんなに好きだったお師匠さまが、急に嫌な奴にみえてきた。 (喧嘩してやろうか)  と、城太郎は、肚のなかで思ったほどだった。  だが、さすがに、武蔵へ向って、悪たい[#「たい」に傍点]口は叩けないとみえ、彼は顔の表現をもって、武蔵の反省を求めていた。|酢《す》を|舐《な》めたような口をして、いつまでも、|面《つら》を|膨《ふくら》ませていた。  彼が黙りこむと、武蔵は|画《え》|手《で》|本《ほん》を見ながら、描きかけの絵へ筆をとり始めた。城太郎は、彼が習っている|茄子《なす》の絵を睨みつけ、 (|下手《へた》クソ!)  と、心で|罵《ののし》っていた。  その画にも|倦《う》んだらしく、武蔵が筆を洗い出したので、もういっぺん頼んでみようかと、城太郎が唇を|舐《な》めてなにかいいかけると、飛石を拾って来る|木《ぼく》|履《り》の音がして、 「お客さま。洗濯物が乾きましたから持ってまいりました」  と、さっきの引船が、きちんと畳みつけた|袷《あわせ》と羽織の|一《ひと》|襲《かさ》ねを抱えて来て、彼の前におく。 「ありがとう」  武蔵は入念に、洗えて来た衣服の袖や|裾《すそ》を調べて、 「きれいに落ちましたな」 「人間の血というものは、洗っても洗っても、なかなか落ちないものでございますね」 「これでよい。……時に吉野どのは」 「こよいも、お客方の席が、あちらにもこちらにもという有様で、わずかなお隙もございませぬ」 「思いがけないお世話になったが、こうしていると、ひとり吉野どのへ気づかいを|煩《わずら》わすばかりでなく、扇屋の|内《ない》|緒《しょ》へも、迷惑のかさむばかり。……こよいの夜更けを待って、そっとここを立ち去りますゆえどうぞ、そう伝えておいて下さい。くれぐれも、よろしゅうお礼を」  城太郎は顔つきを直して、やはりお師匠様は好い人だと思った。肚の中では、お通さんのところへ行ってやろうと、とうに決めていたに違いない。  そう独り決めして、にこにこしていると、武蔵は、引船が立ち去るとすぐ、小袖羽織のその|一《ひと》|襲《かさ》ねを、城太郎の前へ出していった。 「きょうは、よいところへ来てくれたな。この着物は、いつぞやこの|遊廓《くるわ》へ来る折、|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》様の御老母が、わしに着せてくれた着物。つまり借り着じゃ。これを光悦どののお邸へお返しに行って、わしの元の着物を持って来てくれぬか。城太郎、よい子だから、一走り行って来てくれい」      五 「はい、|畏《かしこま》りました」  と、城太郎は神妙である。  この使いさえ済めば、武蔵はここを出て、お通さんの所へ来てくれるものと思い、それを楽しみに、 「じゃあ、行って来ます」  先方へ返す小袖羽織を風呂敷につつみ、べつに、武蔵から光悦へ宛てて書いた一通もその間へ挟んで背中へ負いかけていると、そこへ夜食を運んで来た以前の引船が、 (オヤ、どこへ)  と、眼をみはって武蔵からその|理《わけ》を聞くと、 「まあ、飛んでもないこと」と、固く止めた。  なぜならば——  と引船が武蔵へ話す。  この子は夕方に、扇屋の店先で、店の若い者を、がら[#「がら」に傍点]にもない木刀で撲りつけ、打ちどころが悪かったとみえて、その男は床についてうんうん|唸《うな》り通している。  |遊廓《くるわ》の喧嘩だから騒ぎはそれきりで済んでいるし、吉野様からお内緒へも若い衆へも、そっと、|内《ない》|済《さい》にと口をきいてはあるが、その子がやたらに、宮本武蔵の弟子だと威張りちらしたので、誰の口からともなく、武蔵はまだ扇屋の奥にかくれているという噂が宵からひろがり、それが遊廓の総門の外に、先ごろから網を張っている吉岡方の者へも聞えているらしい。 「……ははあ」  と、武蔵は初めて、そんな事件を知ったように、城太郎の姿を見直す。  城太郎は、隠していたことが武蔵にわかって、面目ないように、頭を掻き、だんだん|隅《すみ》へ|退《さ》がって、小さくなっている。 「だのに、そこへ今、ひょこひょことそんな物を背負って総門から行ってご覧——どうなるか」  と、引船はまた、それについて外部のもようを武蔵に告げるのであった。  ——何分にも、おとといから昨日、今日と、三日にわたって、吉岡方の者が、あなたの身を|尾《つ》け狙っていることはたいへんなもので、吉野様やお内緒でも、それを心痛している。  光悦様もおとといの夜、ここから帰る折にくれぐれも頼んで行かれたことだし、扇屋としても、そういう危地にあるあなたを、追い出すようなことはできない。殊に吉野様は細心な気づかいをして、あなたの身を|庇《かば》っている。  ……しかし。  困ったことは、吉岡方の者が執念深く、この|遊廓《くるわ》の出入りに見張をつけていることで、店へも昨日から、何度も吉岡門下の者というのが来て武蔵を|匿《かくま》っているだろうとか、うるさく探りに来るので、それは|態《てい》よく追い払ってはいるが、先方の疑惑は、なかなか解くべくもなく、 (扇屋から出て来たら)  と、その機会を、手に|唾《つばき》して待っていることは知れている。  よくは分らないが一人のあなたを討つために、吉岡方の者は、まるで|戦《いくさ》のような物々しい段取をして、幾重にも見張を立て、どんなことをしても、今度は殺してしまうといっているそうです——とも引船はいって、 「ですから、もう四、五日、じっとここに隠れておいで遊ばした方がよかろうと、吉野様もお内緒も心配していらっしゃいます。そのうちには、吉岡の衆も飽いてしまって、見張りを|退《ひ》くでございましょうし……」  武蔵と城太郎の二人へ、夕飯の給仕をしながらも、あれやこれや親切に引船はいってくれたが、武蔵は好意だけを謝して、 「思うところもありますから」  と、今夜ここを立つ意思は|翻《ひるがえ》さなかった。  で——光悦の家へ|遣《や》る使いの件だけは、引船の忠告を容れて、それからすぐ、扇屋の若い者を走らせてやることにした。      六  使いは間もなく帰って来た。光悦からの返辞には、 [#ここから1字下げ] 折もあらばまた会い候わん、長き短き人の世の道、たのみ参らすにつけお身大事にいそしみ給われとのみ、よそながら祈り申されてこそ候え   月   日 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]光  悦  武 蔵 ど の  と書いてあった。短文ではあるが光悦の気持はよく|酌《く》み取れる。また武蔵が、今の身辺の|累《るい》を、あの平和な|母子《おやこ》の生活におよぼすまいとして、わざと、彼の家へ立ち寄らないでいるこちらの気持も、十分理解してくれているようであった。 「そしてこれは、先日あなた様が光悦様のお家へ|脱《ぬ》いでおいた以前のお小袖だそうで」  と、使いの男は、こちらから届けた羽織小袖とひき換えに、武蔵が前から着ていた古い着物と|袴《はかま》とを持って帰り、 「|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》のお|老母《としより》|様《さま》からも、くれぐれもよろしくと仰せられました」  と、口上を伝えて、扇屋の|母《おも》|屋《や》へ|退《さ》がって行った。  包みを解いて、以前の古い着物を見ると、武蔵はなつかしかった。あのやさしい気持の妙秀尼が着せてくれた|小洒張《こざっぱり》した衣裳よりも、この扇屋で借着している|伊達《だて》な|袷《あわせ》よりも、雨露に汚れた一着の木綿着物のほうが、彼には、自分の肌にぴったりした物のように思われた。これこそ、修行中の|行衣《ぎょうい》であり、これ以上の必要を少しも感じないのであった。  |綻《ほころ》びてもいたし、雨露や汗にも汚れていたはず、さだめし|穢《むさ》いにおいが畳まれていたであろうと思いながら、袖を通し|袴《はかま》を着けてみると、意外にも折目が、ぴんとついていて、あの|襤褸《つづれ》にひとしい古小袖が、生れ代ったように、仕立て直してあった。 「|老母《としより》というものはよいものだ。自分にも母があったら」  武蔵はふと孤愁に|囚《とら》われて、これから生きて行こうとする生涯を、心の中で遥かに描いてみる。  すでに父母はない。自分を|容《い》れない故山に、わびしい独りの姉があるばかりである。  彼は、しばらく|沈《ちん》|湎《めん》と|燈《ひ》に|俯向《うつむ》いていた。ここも、三日の仮の宿だった。 「さ、立とうか」  持ち馴れた刀を手に寄せ、固く締めた帯と|肋《ろっ》|骨《こつ》のあいだへぎゅっと差し込むと、彼のふとした寂しさはもう強い意思の外へ|弾《はじ》き出されていた。その刀こそ父母であり妻であり兄弟であるとしよう——と、そうかねがね心に誓っていたところへ彼の心は返っていた。 「行くの。——お師匠さま」  城太郎は先にそこを出て、|欣《うれ》しそうに今夜の星を見た。 (これから烏丸様のお|館《やかた》まで行けば、ずいぶん遅くなるけれど、いくら夜が更けたって、お通さんはきっと、寝ずに待っているにちがいない。——どんなにびっくりするだろうな、きっと、あんまり欣しがって、また泣いちまうかも知れないぞ)  雪の晩からこっち、毎晩、空は美しかった。城太郎は、これから武蔵を連れて行って、お通に|歓《よろこ》んでもらうことのみ空想していた。星を仰ぐと、その星のまたたきまでが、自分とともに、歓んでくれているように思える。 「城太郎、おまえは、裏木戸からはいって来たのか」 「え。裏だか表だか知らないけれど、さっきの女のひとと一緒に、そこの門から」 「では、先へ出て、待っていてくれ」 「お師匠さまは」 「ちょっと、吉野どのに挨拶を申して、すぐ行くから」 「じゃあ、外へ出て、待っているよ」  そんなわずかな間も、彼のそばを離れるのは、多少不安がないでもなかったが、今夜の城太郎はもう、なにを命ぜられても、至って素直になりきっていた。      七  この三日ほどを、この隠れ家のうちで、武蔵は、われながら、愚に返ってよく遊んだと思う。  例えていうならば、今日までの自分の心神や肉体という物は、ちょうど、|緊《は》りつめている厚氷のようなものであったと思う。  月にも|情《こころ》を|閉《と》じ、花にも耳をふさぎ、太陽にも胸をひらかず、ただ冷たく凝結していた自分というものが、顧みられる。  そうした精進一途な自分のすがたにも、彼は、正しさを信じているが、同時に、狭くて小さい一個の頑固者にすぎないものが——自分となることを彼はおそれかけた。  沢庵からずっと前に、 (おまえの強さは、|獣《けもの》の強さと変りがない)  といわれたり、また奥蔵院の|日《にっ》|観《かん》からも、 (もっと弱くなれ)  と忠告されたりしたことを思いあわせると、武蔵はこの先ともに、この二、三日のような|悠暢《ゆうちょう》な日を持つことが、自分には大事であると考えた。  そういう意味で、今、ここの扇屋の|牡《ぼ》|丹《たん》畑を去るにつけても、彼は|無《む》|益《えき》な日を費やしたとは少しも思わなかった。むしろ、余りに|緊《は》りきっている生命へ、|暢《のび》|々《のび》と、天然放縦のわがままを与えて、酒ものみ、|転寝《うたたね》もし、書も読み、画筆も|弄《もてあそ》び、|欠伸《あくび》もしたりして、存分に過ごした日が得難い貴重な日であったと感謝されるのだった。 (——その礼を、吉野どのに|一《ひと》|言《こと》いいたいが)  と、武蔵は、扇屋の庭に|佇《たたず》みながら、|彼方《あなた》の花やかな|灯《ほ》|影《かげ》を見ていた。けれど奥深い座敷の方には変らない「|買《かい》|手《て》ども」の|猥《わい》|歌《か》や三絃が満ちていて、吉野にこっそり会って行く|術《すべ》もない。 (ではここから)  と武蔵は、胸のうちで、別れを告げ、また三日にわたるあいだの彼女の好意にも、心から礼を告げてそこを去った。  ——裏木戸から外へ出て、待たせておいた城太郎の影へ、手をあげて、 「さ、行こうぞ」  呼びかけると、その後ろから、城太郎とはべつに、小走りに追いかけて来た者がある。  |禿《かむろ》のりん|弥《や》であった。  りん弥は、武蔵の手へ、 「これ、太夫様から——」  となにか渡して、すぐ木戸の中へ駈けこんでしまった。  小さく結んだ一片の紙きれである。色紙ほどな懐紙であった。開いて、文字へ眼のゆく前に、ほのかな|伽《きゃ》|羅《ら》の移り香がする。 [#ここから1字下げ] ちぎりてはちる夜々のあだ花の数々よりも、|樹《こ》の|間《ま》過ぎ行く月のおん影こそ忘れ得ざらめ しみじみ、語ろういとまもなく雲間のおわかれ、よその杯に、嘆けばと、人はわらい候わめど、ただ一筆のみを [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]よしの 「お師匠さま、それ、誰から来たてがみ」 「誰からでもない」 「女の人」 「知らん」 「なんと書いてあるの」 「そんなこと、訊かなくてもよい」  武蔵が畳みかけると、城太郎は背のびをして、 「いいにおいがする。伽羅みたいなにおいだなあ」  と、|覗《のぞ》いていう。  伽羅のかおりは、城太郎の鼻にもわかるものとみえる。     門      一  さて、|扇屋《おうぎや》は出て来たが、まだ|遊廓《くるわ》の内である。どうしたらこの囲いから無事に世間へ出られるだろうか。  城太郎は案じて、 「お師匠さま、そっちへ行くと、総門の方へ出ちまいますよ。総門の外には、吉岡の者が見張っているから危ないって扇屋の人もいっていた」 「うむ」 「だから、|他《ほか》から出ましょう」 「夜は、総門以外の口は、みな閉まっているそうではないか」 「|柵《さく》を越えて逃げれば——」 「逃げたといわれては武蔵の名折れになる。恥も外聞もなく、逃げさえすればよいと思うくらいなら、なんのこんな所から出てしまうのは|易《やす》いが、それがわしには出来ないことだから、静かに折を待っていたのだ。——やはり総門から手を振って出て行こう」 「そうですか」  と城太郎はやや不安な顔色を見せたが、「恥」を重んじない者は、たとえ生きていても無価値な人間として扱われてしまう武士社会の鉄則は、彼にもよく分っているから、反対はできなかった。 「——だが、城太郎」 「え、なんです」 「おまえは子供だから、なにもわしの通りに行動する必要はない。わしは総門から出て行くが、おまえは先に|遊廓《くるわ》の外へ出て、どこかに身を避けて、わしを待っているがいい」 「お師匠様が総門から手を振って出て行くのに、おいら一人、どこから外へ出て行くの」 「そこの柵を越えるのだ」 「おいらだけ?」 「そうじゃ」 「いやだ」 「なぜ」 「なぜって、たった今、お師匠さまがいったくせに。——卑怯者といわれるだろう」 「おまえには、誰も、そんなことをいいはせぬ。吉岡方で相手としているのは、この武蔵一名で、そちなどは、数のうちにはいっていない」 「じゃあ、どこで待ってたらいいの」 「柳の馬場の辺りで」 「きっと来る?」 「うん、必ず行く」 「また、おいらに黙って、どこかへ行ってしまうんじゃない?」  ——武蔵は顔を横に振って、 「おまえに、嘘は教えぬ。さ、人通りのないうちに、はやく越えろ」  城太郎は、辺りを見まわして、暗い|柵《さく》の下へ駈け寄った。けれど、焼丸太の柵は、彼の|背丈《せい》の三倍も高かった。 (だめだ、おいらにゃ、とても越えられそうもないや)  自信のない眼で、城太郎は柵の高さを見上げていた。すると武蔵は、どこからか、一俵の炭俵をさげて来て、柵の下においた。  そんな物を踏台にしたって駄目だといわないばかりに、城太郎は武蔵のすることを見ていた。武蔵は、柵の間から外を|窺《うかが》って、しばらく、じっとなにか考えている。 「…………」 「お師匠様、誰か柵の外にいるんですか」 「この辺、柵の外は、|蘆《あし》がいちめんに生えている。蘆の原だから水たまりがあるかも知れぬ、気をつけて跳び降りろよ」 「水なんかいいけれど、高くって、上まで手が届かない」 「総門のみでなく、柵の外部にも、要所要所には、吉岡の見張がいるものと思わなければならぬ。外が暗いから、それに用意をして跳び下りぬと、不意に、どんな者が、闇から刀を|薙《な》ぎつけて来るかも知れないのだ。——だから、わしが|背丈《せい》を貸して上げてやるから、柵の上で一応体を止めて、よく下を見定めてから跳ぶのだぞ」 「はい」 「わしが下から、炭俵を外へ|抛《ほ》ってやるから、その炭俵を見て、なにも変ったことがなかったら跳ぶがよい」  と城太郎の体を、肩ぐるま[#「ぐるま」に傍点]に乗せて立った。      二 「届くか、城太郎」 「まだ、まだ」 「では、わしの両方の肩に足をのせて、立ってみろ」 「でも、草履だから」 「かまわぬ、土足のままでよい」  肩車の上の城太郎は、脚をかわして、いわれた通り、武蔵の肩のうえに両足をのせて立った。 「こんどは、届いたであろう」 「まだです」 「やッかいな奴だの。身を|弾《はず》ませて、柵の横木まで跳びつけぬか」 「できないや」 「仕方がない、それでは、わしの|両掌《りょうて》に足をのせろ」 「だいじょうぶ?」 「五人や十人乗っても大事はない。さ、よいか」  城太郎の足の裏に、自分の|両掌《りょうて》を踏ませて、武蔵は、|鼎《かなえ》を差し上げるように、ぐっと自分の頭上より高く彼の体を上げた。 「——ア、届いた、届いた」  城太郎は、柵の上に取り付いた。武蔵は、|先刻《さ っ き》の炭俵を片手に持ち、外の闇へぽうんと|抛《ほう》った。  炭俵は、どさっと、蘆の中へ落ちた。——なんの異状もないと見えて、その後から城太郎が跳び降りた。 「なんだ、水たまりも、なにもありやしない。お師匠様、ここは、ただの原ッぱだぜ」 「気をつけて行け」 「じゃあ、柳の馬場で」  城太郎の跫音は、闇の遠くへ、遠ざかって行った。  その跫音の聞きとれなくなるまで、武蔵は、柵の隙間へ顔を寄せてじっと立っていた。  ——そして彼の行った先に安心すると、初めて身軽そうに、足を早めだした。  それまでの薄暗い|遊廓《くるわ》裏の道を捨てて、三筋のうちでもいちばん繁華な総門の通りへ出て来ると、そこをぞめき[#「ぞめき」に傍点]歩いている人影の中に、彼のすがたも、一個の|嫖《うか》れ|男《お》のように|紛《まぎ》れてしまう。  しかし——笠もかぶらずに、そのままの|身装《みなり》で、一歩、総門を踏み出すと、 「あっ、武蔵!」  と、そこらに|潜《ひそ》んでいた無数の眼が、むしろ意外のように、一斉に、彼の姿へ向って光った。  総門の両側には、|莚《むしろ》がこいの|駕《かご》|屋《や》の|溜《たま》りがある。そこにも、二、三名の侍が、|股《また》|火《び》をしながら、総門の出入りを睨んでいた。  そのほか、編笠茶屋の|床几《しょうぎ》だの、向い側の飲食店などにも、一組ずつ見張りが|屯《たむろ》していたし、その中から四、五名の者が交代して、総門の|際《きわ》に立ちはだかり、|廓《かく》|内《ない》から出てくる|頭《ず》|巾《きん》だの編笠の顔はいちいち無遠慮にのぞき込み、中を隠した駕が来れば、駕を止めて、その|覆《おお》いの中を|検《あらた》めていた。  三日も前からのことである。  吉岡方の者は、武蔵が、あの雪の夜以来、ここから外へ出ていないことを確実につき止めていた。扇屋へ向けて、懸合いもしたし、探りもやってみたが、扇屋では、そんな客はいないというのみで取りあわない。  吉野太夫が彼の身を|匿《かく》まっているらしいという見当も、全然つかないわけではなかった。けれど今この風流の別世界に限らず、貴顕から民間にまで人気のある吉野太夫へ、武士が徒党して、争いを仕掛けてゆくということも外聞の上から考えられた。  で——遠巻きに、持久戦の策をとって、武蔵が、廓内から出て来るのを厳しく見張っていたのであるが、その折には必ず当の武蔵が姿を変えて出て来るとか、|覆駕《おおいかご》のうちに隠れて|遁《のが》れるとか、でなければ、柵を越えて他から脱出するに違いないときめて、その用意にはおさおさ怠りない備えを立てていたのだった。  ——ところが、平然と、ありのままな姿を|灯《ひ》に|曝《さら》して、その武蔵が総門を出て来たので、彼らはむしろぎょっとして、いきなりその前へ立ち|塞《ふさ》がるものもなかった。      三  |遮《さえぎ》るもののない以上、武蔵の方で立ち止る理由もない。  大股な彼の足が、もう編笠茶屋の前も過ぎて、百歩も先をぐんぐんと歩いて行く頃になって、 「やるなッ——」  と、吉岡方の中から一人が叫んだようであった。  すると、声に合せて、 「やるなっ」 「やるな!」  同じ言葉を投げながら、どやどやと彼の後ろから前の方へと八、九名の影が駈け廻り、 「——武蔵待てッ」  と、ここに初めて、正面から激突をあげてきた。  ——と、武蔵は、 「何かっ?」  と相手の耳へ不意と感じるような強さで答え、その答えとともに身を横へずっと|退《ひ》いて、道ばたの小屋を背にして突っ立った。  小屋の横に、|巨《おお》きな材木が枕木に横たわっているし、辺りに|大《お》|鋸《が》|屑《くず》が積もっているなどから見ても、これは|木《こ》|挽《びき》職人の寝小屋らしかった。  物音に、 「喧嘩か」  と、中から戸を開けかけた木挽の男は、外の景色をひと目見ると、 「わっ」  あわてて戸を閉め、内側に心張り棒をかって、それなり|布《ふ》|団《とん》でもかぶってしまったのか、しいんとして、中に人がいるとも思わせない。  吉岡方のものは、野犬が野犬を|募《つの》るように、指笛を鳴らしたり、呼号をあげたりして、見る間にここへわらわらと集まって来た。こういう折の人数は、二十人が四十人にも、四十人が七十人にも、多く見えるものであるが、正確にかぞえても、三十人以下ではなかった。  真っ黒に、武蔵を取りまいた。  いや、その武蔵が、背中の一方を木挽小屋につけているので、その小屋もろとも、取り囲んだという形である。 「…………」  武蔵は、三面の敵の頭数を、じっと眼で読みながら、この状態が、どう変化してかかって来るか——それをじっと見ているような眸であった。  三十人の人間がかたまれば、それは三十人の心理ではない、一団はやはり一個の心理である。その心理が微妙な動きを取って来る機先を|観《み》てしまうことは、そう難しいことではなかった。  案の如く、いきなり単独で、武蔵へ斬りつけて来るようなものはない。集合体の当然な姿勢として、多数が一つ個性にかたまるまでのしばらくの間は、ただがやがやと立ち騒いで、武蔵を遠巻きにしながら口々に|罵《ののし》り、中には、|市井《まち》のならずものみたいに、 「……野郎」  とか、また、単に、 「青二才|奴《め》」  とか|呻《うめ》いて、自分たち個々の弱さを、いたずらに示すに過ぎない虚勢のまま、ややしばらく、桶のように|円《まる》くなって、武蔵を囲んでいた。  最初から一個の意思と行動を持っている武蔵のほうは、その間、わずかな間にしろ、彼らよりは十分な余裕を持っていた。大勢の顔の中で、どれとどれが|手《て》|強《ごわ》いか、どの辺が|脆《もろ》いか、ぴかぴか光る眼つきを拾って、およそ心に備えておく余地すらあった。 「拙者に、待てといわれたのは誰だ。いかにも、拙者は武蔵だが」  彼が、見渡していうと、 「われわれだ。ここにいる一同が呼びとめたのだ」 「では、吉岡の御門下か」 「いうまでもなかろう」 「御用事とは」 「それも、改めて、ここでいう必要もないと思う。——武蔵、支度はいいか」      四 「支度?」  ちらと唇が|歪《ゆが》む。  鉄の桶みたいに、彼を囲んでいる殺気は、彼の白い歯から洩れた冷笑に、ふと毛穴の|緊《し》まるようなものに|面《おもて》を吹かれた。  武蔵は、語気を揚げて、すぐいいつづけた。 「武士の支度は、寝る間にも出来ておること、いつでも参られい。理も非もない喧嘩仕かけに、人間らしい口数や、武士らしい刀作法は、事おかしい。——だが、待て、一言聞いておきたい。各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]はこの武蔵を、暗殺したいか、正当に討ちたいか」 「…………」 「意趣遺恨で来たか、試合の仕返しで来たか。それを訊こう」 「…………」  言葉のうちにでも、勿論、武蔵の眼——またその体に斬り込める隙が見出せたなら、|囲《まわ》りの|刃《やいば》は穴から水の噴くように、彼の虚へ向って衝いて出るはずであるが、そういう者もなく、|数《ず》|珠《ず》のような沈黙に縛られている大勢のうちから、 「いわずとも知れたこと!」  と、|大《だい》|喝《かつ》して、武蔵のことばに答えた者がある。  ぎらっと、武蔵はその顔へ眸を射向けた。年輩、態度、この中では、吉岡方の然るべき者らしく思える。  それは、高弟中の|御《み》|池《いけ》十郎左衛門だった。十郎左衛門は、自分がまず、初太刀の|皮《ひ》|膜《まく》を切ろうとするものらしく、ズズと、|摺《す》り|足《あし》に身をすすめて、 「師の清十郎敗れ、つづいて御舎弟の伝七郎様を討たれ、なんのかんばせあって、われわれ吉岡門の遺弟が、汝を無事に生かしておけるかっ。——不幸、汝のために、吉岡門の名は泥地にまみれたれど、恩顧の遺弟数百、誓って師の御無念をはらさいではおかぬ。意趣遺恨のという|狼《ろう》|藉《ぜき》ではない、師の|冤《えん》をそそぎ奉る遺弟の|弔《とむら》い合戦だわ。武蔵っ、|不《ふ》|愍《びん》だが、汝の首はわれわれが申しうけたぞ」 「おお、武士らしい挨拶を承った。そういう趣意とあれば、武蔵の一命、或はさし上げぬ限りもない。しかし、師弟の|情誼《じょうぎ》を口にし、武道の|冤《えん》を|雪《そそ》ごうという考えなれば、なぜ、伝七郎殿の如く、また清十郎殿の如く、堂々と、この武蔵へすじみち立てて正当な試合に及ばれぬか」 「だまれっ! 汝こそ、今日まで|居《きょ》|所《しょ》をくらまして、われわれの眼がなくば、他国へ逃げのびようといたしながら」 「卑劣者は、人の心事も卑劣に邪推する、武蔵は、かくの通り、逃げもかくれもしておらぬ」 「見つかッたればこそであろうが」 「なんの、姿を|晦《くら》ます心なら、これしきの場所、どこからでも」 「然らば、吉岡門の者が、あのまま、汝を無事に通すと心得ていたか」 「いずれ、各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]から挨拶はあるものと存じていた。しかし、かような繁華の町中で、人を騒がせ、野獣か、|無頼者《ならずもの》のような、理不尽な争いを演じては、われら、一個の名ばかりか、武士という者すべての恥さらし。各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]の申さるる師弟の名分も、却って、世の笑いぐさではあるまいか、師へ対しても恥のうわ塗りではござるまいか。——さもあらばあれ、師家は絶滅、吉岡道場は離散、この上、恥も外聞もあろうかと、武門を捨てた気とあらばなにをかいおう、武蔵五体と両刀のつづく限りは、相手になる、死人の山を築いてみせる」 「なにをッ」  十郎左衛門ではない。十郎左衛門の横あいから一人が、こう|肱《ひじ》の|弦《つる》を切りかけると、どこかで、 「——板倉が来るぞっ」  呶鳴った者がある。      五  その頃、板倉といえば、怖い役人という代名詞になっていた。 [#ここから2字下げ] |大《おお》|路《じ》打たすは |誰《た》が栗毛ぞ 伊賀の四郎左か みなにげる [#ここで字下げ終わり]  だの、 [#ここから2字下げ] 伊賀どのはそも 千手観音か|天《てん》|目《もく》|天《てん》か あまた目付に 百|与《よ》|力《りき》 [#ここで字下げ終わり]  などと、|童《どう》|戯《ぎ》の群れまで|謡《うた》っているのは、みなその板倉伊賀守|勝《かつ》|重《しげ》のことだった。  今の京都の繁昌は、特殊な発達と、変則な好景気に浮わついていた。それはこの都府が、政治的にも、戦略的にも、日本の分れ目を握っていて、重要な作用を持っているからである。  だから、全国中でも、ここがいちばん文化も進歩していたが、思想的に|観《み》ると、最も市政に厄介な土地でもあった。  室町時代の初めから、土着の市民は殆ど、武家の|殻《から》をすてて町人になり、そしてただ保守的だった。今では、徳川か、豊臣か、そのどっちかの色を持った武士が、互いにこの分水嶺に|拠《よ》って、次の時代を、虎視|眈《たん》|々《たん》と|窺《うかが》っている。  その上、|素姓《すじょう》も知れない、またなんで生計を立てているのか分らないような武家が、ずいぶん郎党や一門を養って相当に根を張っている。  また、今に、徳川、豊臣の二つの勢力が、当然、なにかおっぱじめるに違いないから——犬も歩けば棒にあたるを空頼みにして、|蟻《あり》のように、うようよしている牢人もたくさんある。  その牢人と組んで、|博奕《ばくち》、ゆすり、かたり、|誘《ゆう》|拐《かい》を職業にして立とうとする|無頼者《ならずもの》も|殖《ふ》えるし、飲食店や売女もそれに|灯《あかり》をつける。いつの世の中にも多い|耽《たん》|溺《でき》主義者だの、刹那主義的な人間も、信長の|謡《うた》った「——人生五十年、|化《け》|転《てん》の夢にくらぶれば」を、たった一つの真理と奉じて、一生懸命に、酒と女と刹那の享楽で、|早《はや》|死《じに》を心懸けている。  それだけならいいが、そういう虚無的な人間も、いっぱしな政治観や社会観を放言し、そして、徳川とも豊臣とも色分けつかない偽装をもって、その時々の世情によって、|狡《ずる》く泳いで、うまい|蔓《つる》でもあったら|掴《つか》もうとしているから、ここの市政は並大抵な奉行ではまず睨みがきかない。  そこで徳川家康の|眼鑑《めがね》で、京都所司代にもって来たのが、板倉勝重だった。  慶長六年以来、与力三十騎、同心百名を付せられて、この勝重が、京都の睨み役に任命された時、ちょっとした話が伝わっている。  家康から、辞令をうけた時、勝重はすぐ命を拝さず、 (|邸《やしき》にもどって、一応、妻とよく相談してから、お答え仕ります)  帰邸すると、勝重は妻に向い、任官の沙汰を告げていうには、 (古来から|顕職《けんしょく》の栄位に|擢《ぬき》んでられて、却ってために、家を亡ぼし、身を害した者が史上にも多い。その|因《もと》を思うに、みな、|門《もん》|閥《ばつ》と内室のわずらいから起っておる。だから誰よりもおまえの心に相談するのだが、おまえは、わしが所司代となっても、|市《し》|尹《いん》〈|市《し》の|長《おさ》〉たるわしのすることには、一切口出ししないと誓うなら、任官しようと思うが)  すると妻は、つつしんで誓った。 (なんで婦女子が左様な口出しを致しましょう)  翌る朝、登城するとて、勝重が衣服を着ると、下着の襟を折って着ていた。妻が見て、それを直そうとすると、 (おまえはもう誓いを忘れているではないか)  と叱り、ふたたび妻を堅く誓わしめてから、はじめて家康の命を拝したというのである。  この覚悟で就職した勝重なので、彼のすがたは公明だった。同時に|峻厳《しゅんげん》でもあった。——恐い役人を上に持つことは、嫌がりそうなものだが、事実その後の市民は、彼を父のようにあがめ、家の上に、父がいるように安心した。  さて、話はわき道へそれたが、今、 (板倉が来るぞ)  と、うしろで呶鳴った人間は誰だろうか。勿論、吉岡方の者はすべて、武蔵と対しているので、そんな言葉をいたずらに放つはずはない。      六  ——板倉が来るぞ。  は当然、  ——板倉の手先が来るぞ。  という意味に受取れたのである。  役人にでしゃばられては厄介な場合だった。けれど、こういう盛り場には、きまって見廻りが歩いている。それが、何事かと見て、駈けつけて来たのかも知れない。  それにしても、今の掛声は誰だろう。味方の者でなければ、往来の者の注意か?  ——と、御池十郎左衛門はじめ、吉岡門下の眼が、思わず声の方へふと|外《そ》れると、 「待て、待て」  押分けて、武蔵と吉岡門下のあいだへ、自ら立ち|塞《ふさ》がった若衆姿の侍がある。 「や?」 「お身は」  意外な眼を光らせて、自分へ集まる吉岡門下の大勢の眼と、武蔵の眼へ、その前髪は、 (わしだ! この顔は、双方とも前から記憶があるであろうが!)  そういわないばかりに|傲《ごう》|然《ぜん》と自己を誇示して、佐々木小次郎はいうのだった。 「今、総門の前で駕をおりると|斬《きり》|合《あい》だという往来の声。よもやと思いのほか、かねがね、こんな事件も起ろうかと案じていた各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]ではないか。——わしは吉岡の味方でもないし、なおさら、武蔵の味方でもない。——だが、武士であり剣客である以上は、武門のために、武士総体のために、敢て各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]方にいう資格がある」  前髪の風采に似あわない雄弁だった。そしてその|口《こう》|吻《ふん》といい、人を|睥《へい》|睨《げい》する|眼《まなこ》といい、飽くまで|傲《ごう》|岸《がん》そのものだった。 「——そこで、双方に問うが、もしここへ、板倉殿の手の者でも来て、|巷《ちまた》を騒がす|不《ふ》|逞《てい》の|狼《ろう》|藉《ぜき》と見なされ、始末書でも取られたら、双方ともよい恥さらしではあるまいか。役人の手をわずらわせば、この|態《てい》は、ただの喧嘩沙汰としか扱われぬぞ。——場所もわるい——時もわるい——武士たる各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]が、社会の秩序をみだすような|所業《しょぎょう》をなせば、武士総体の恥になる。わしは、武士を代表して双方にいう。止せ、ここでは止せ。剣のうえの解決は、剣の作法に従って、改めて時や場所を選んでなすべきではないか」  彼の演舌に圧倒されて、吉岡方の者はみな黙りこんでしまった形であった。御池十郎左衛門は、小次郎がいい終ると、その言葉じりをすぐ取って、 「よしっ」  と強くいった。 「いかにも、道理はその通りに違いない。——だが小次郎、必ずその他日まで、武蔵が逃げ失せぬという保証を貴公はするか」 「してもよいが」 「あいまいでは承諾できぬ」 「だが、武蔵も生き物だし」 「逃がす気だな」 「ばかをいえっ」  小次郎は叱咤して、 「左様な片手落ちをなせば、貴公らの遺恨はわしへかかるではないか。その程まで、この男を|庇《かば》ってやらなければならない|友《ゆう》|誼《ぎ》も理由もわしにはない。……だが武蔵とても、この|期《ご》になってまさか逃げもすまい。もし、京都から姿を|晦《くら》ましたら、京都中に高札を建てて汚名を|曝《さら》してやればよかろう」 「いや、それだけでは、承知できぬ。——必ず、他日の果し合いまでおん身が武蔵の身を預かると保証するなら、一応、今夜のところは別れてもよいが」 「——待て、武蔵の腹を|糺《ただ》してみるから」  小次郎はくるりと振向いた。さっきから、自分の背を射るように見ている武蔵のひとみを正面に|睨《ね》め返しながら、彼は、自分を押し出すように、ずっと胸を寄せて行った。      七 「…………」 「…………」  口のうごく前に双方の烈しい|眼《まなこ》であった。猛獣が猛獣を見た時のような沈黙であった。  このふたりは、先天的に合わない性格の持主とみえる。お互いが認めているものを、お互いに怖れ合っていた。若い自負心と自負心とが、触れるとすぐ|摩《ま》|擦《さつ》を起そうとするのであった。  で——それは、五条大橋の時もまた今も同じ心理が|竦《すく》み合いになりかけた。言葉を交わすまえに、眸と眸とが、もう小次郎の感情と、同時に武蔵の感情とを、完全にいい尽し、余すところなく無言の意思が闘っているのである。  ——でも、一言はあった。  やがて小次郎の方からである。 「武蔵、どうだ」 「どうだとは」 「今、吉岡側のほうへ、わしが談合したような条件で」 「承知した」 「いいな」 「ただし、|其《そこ》|許《もと》の条件には、異存がある」 「この小次郎に、身を預けるということの不満か」 「清十郎どの、ならびに伝七郎どのと、二度の試合にも、武蔵は、みじんも卑怯は致しておらぬ。なんで残余の遺弟たちに、かく名乗りかけられて、卑怯な背を見せようか」 「ウム、堂々たるものだ。その広言を、きっと聞き取っておこう。——然らば武蔵、望みの|日《ひ》|取《どり》は」 「日も場所も、相手方の希望にまかせておく」 「それも|潔《いさぎよ》い。——して、今日以後、おぬしはどこに居所を決めておるか」 「さだまる|住居《すまい》はない」 「住居がわからなくては、果し合いの|牒状《ちょうじょう》が|遣《つかわ》せぬ」 「ここで、お決め下さらば、違約なくその時刻に、お出会い申す」 「ウム」  小次郎は|頷《うなず》いて後へ|退《さ》がった。そして御池十郎左衛門や門下の者と、しばらく話し合っていたが、やがてまた一人離れて来て、武蔵へ、 「相手方は、明後日の朝——|寅《とら》の下刻というが」 「心得申した」 「場所は、|叡《えい》|山《ざん》|道《みち》、一乗寺山のふもと、|藪《やぶ》|之《の》|郷《ごう》|下《さが》り|松《まつ》。——あの下り松を出会いの場所とする」 「一乗寺村の下り松とな、よろしい、わかった」 「吉岡方、名目人は、清十郎、伝七郎の二人の叔父にあたる|壬《み》|生《ぶ》源左衛門の一子、源次郎を立てる。源次郎は吉岡家の跡目相続人でもあれば、その者を立てるが、まだ|年《とし》|端《は》もゆかぬ少年ゆえ、門弟何名かが、|介《かい》|添《ぞえ》として立合いにつくということ……それも念のため申しておくぞ」  相互の約束を取り決めると、小次郎はそこの|木《こ》|挽《びき》|小《ご》|屋《や》の戸をたたき、中へはいって行って、|戦《おのの》いている二人の木挽に命じた。 「そこらに、なんぞ不用な板ぎれがあろう。高札に建てるのじゃ、程よくひいて、六尺ほどの|棒《ぼう》|杭《ぐい》に打ちつけてくれい」  木挽が板をひいて出すと、小次郎は吉岡の者を走らせて、どこからか筆墨を取り寄せ、達筆を|揮《ふる》って、それへ果し合いの主旨を書いた。  相互に|神《しん》|文《もん》を取交わすより、これを往来に建てることは、絶対な約束を天下へ公約することになる。  吉岡側の手で、それが最も人目につきやすい辻へ打ち建てられるのを見届けて、武蔵は|他人《ひと》|事《ごと》のように、柳の馬場のほうへ足を早めて立ち去った。      八  ぽつねんと、柳の馬場に、武蔵が来るのを待っていた城太郎は、 「遅いなあ」  |幾《いく》|度《たび》か、|嘆息《ためいき》して、広い闇を見まわしていた。  駕の|灯《あか》りが駈けてゆく。  酔っぱらいの唄がよろけてゆく。 「——おそいぞ、ほんとに」  もしや? という不安が彼にもないではない。城太郎は突然、柳町のほうへ駈け出した。  すると、|彼方《かなた》から、 「これ、どこへゆく」 「あ、お師匠さま、あまり遅いから見に行こうと思ったんです」 「そうか。あぶなく行き違うところだったな」 「総門の外に、吉岡の者が、沢山いたろ」 「いたよ」 「なにかしなかったか?」 「ああ何もしなかった」 「お師匠様を捕まえようとしなかったの」 「ウム、しなかった」 「そうかなあ」  城太郎は、武蔵の顔を覗き上げて、その顔いろを読むようにまた訊いた。 「じゃあ、なんでもなかったんだね」 「ウム」 「お師匠様、そっちじゃないよ。烏丸様へ行く道は、こっちへ曲るんだよ」 「あ、そうか」 「お師匠様も、早くお通さんに会いたいでしょう」 「会いたいなあ」 「お通さんも、きっと、びっくりするぜ」 「城太郎」 「なに」 「おまえとわしと、初めて会った木賃宿なあ。あれは、|何《なに》|町《まち》であったかのう?」 「北野のかい」 「そうそう、北野の裏町だったな」 「烏丸様のお|館《やかた》は立派だぜ。あんな木賃宿みたいじゃないよ」 「ハハハハ、木賃宿とは、較べものにはなるまい」 「もう表門は閉まっているけれども、裏の|下《しも》|部《べ》|門《もん》をたたけば開けてくれるからね。お師匠様を連れて来たっていうと、きっと、光広様も出て来るかも知れないよ。それからねお師匠様、あの沢庵坊主ね、あいつ、とても意地わるだぜ。おいら|癪《しゃく》にさわっちまった。お師匠様のことを、あんな者は|抛《ほ》ッとけばいいんだっていうのさ。そして、お師匠様のいるところをちゃんと知っているくせに、なかなか教えてくれなかったんだぜ」  武蔵の無口を知りぬいているので、いくら武蔵が黙然と聞いていても、城太郎は独りで勝手にお|饒舌《しゃべ》りを|休《や》めない。  やがて、烏丸家の下部門がそこに見えると、 「お師匠様あそこだよ」  指さして、ふいに立ち止まった武蔵の眼へ、教えるように、 「あの塀の上に、ぽっと明りが|映《さ》してるだろ。あそこが西の|屋《おく》で、ちょうど、お通さんが寝ている部屋があの辺なんだぜ。……あの灯りは、お通さんが起きて待っている灯りかも知れないね」 「…………」 「さ、お師匠様、はやくはいろう、今おいらが、門を叩いて門番さんを起すからね」  そこへ向って、駈け出そうとすると、武蔵は城太郎の手首をぐっと握って、 「まだ早い」 「どうしてさ、お師匠様」 「わしは、お館へははいらぬ。お通さんへは、おまえからようく|言《こと》|伝《づて》をしてもらいたい」 「え、なんだって。……じゃあお師匠様は、なにしにここまで来たのさ」 「おまえを送って来たまでだ」      九  ひそかに万一の変化をおそれて、敏感になっていた童心に、そのおそれていた予感が、ふいに事実となって、大きく映って見えたのであろう。  城太郎は、途端に、 「いけない、いけない」  絶叫に近い声を出し、 「だめだよ、お師匠様。——来なくっちゃだめだよ!」  武蔵の腕を懸命に引ッぱって、もうすぐそこの門の内にいるお通の枕元まで、どうしても連れて行こうとする。 「|躁《さわ》ぐな」  武蔵は、夜気のうちにしんとしている烏丸家の邸内を|憚《はばか》って、 「まあ、よう聞け。わしのいうことを」 「聞かない聞かない! お師匠様はさっき、おいらと一緒に行くといったじゃないか」 「だから、ここまで、おまえと共に来たではないか」 「門の前までといやしないじゃないか。おいらはお通さんに会うことをいってたんだ。お師匠様が弟子に嘘を教えていいのかい」 「城太郎、そう|猛《たけ》らずに、まあわしの言葉を落ちついて聞けよ。この武蔵にはまた、近いうちに、生死の知れぬ日が迫っておるのだ」 「侍はいつも、|朝《あした》に生れて夕べに死ぬる覚悟を勉強しているのだって、お師匠様は口癖にいってるじゃないか。それなら、そんなこと、今始まったことでもないだろ」 「そうだ、自分で常にいい馴れている言葉も、そうしてお前の口からいわれると、かえって教えられる気持がする。——今度という今度こそは、武蔵も覚悟のとおり、九死のうち一生も|覚《おぼ》|束《つか》なかろう。それゆえ、なおさらお通さんには会わぬ方がよいのだ」 「なぜ。なぜ! お師匠様」 「それはお前に話してもわからぬ。お前も今に大きくなってみると分る」 「ほんとに……ほんとにお師匠様は、近いうちに、死ぬようなことがあるの」 「お通さんへはいうなよ。……病気なそうじゃが、体を堅固にして、ゆく末よい道を選んでたもれと……なあ城太郎……そうわしがいって行ったと申して、今のようなことは、聞かさぬがよいぞ」 「嫌だ。嫌だ。おいらはいうよ! そんなこと、お通さんに黙っていられるもんか。——なんでもいいからお師匠様、来ておくれよ」 「わからぬ奴!」  武蔵が振り離すと、 「でも! ……お師匠様」  城太郎は泣き出してしまい、 「でも! ……でも! ……それじゃあ、お通さんが、あんまり可哀そうだ……。お通さんに……今日のこと話したら、お通さんは、よけいに病気がわるくなっちまうにきまってら」 「——だからこういってくれ。|所《しょ》|詮《せん》兵法修行のうちは、会うたとて、お互いの|不《ふ》|為《ため》。|多《た》|艱《かん》に|克《か》ち、忍苦を求め、自分を百難の谷そこへ捨ててみねば、その修行に光はついて来ないのだ。……なあ城太郎、お前もまた、その道を今に踏んで行かねば一人前の兵法者にはなれまいぞ」 「…………」  泣きじゃくっている城太郎の姿を見れば、武蔵はまた|可憐《いじら》しくもなって、その頭をふところへ抱き寄せ、 「いつ果てるか知れないのが兵法者の常、おまえも、わしが亡い後は、よい師を捜せよ。お通さんにも、このまま会わぬ方が、行く末になってみれば、あの人の|倖《しあわ》せになり、武蔵の気持も、その時には、よく分ってくる筈だ。……おお、そこの塀の内に|映《さ》している明りが、お通さんのいる部屋か。……お通さんも寂しかろ。さ、はやくおまえも戻って眠るがいい」      十  無茶はいうが、城太郎にも、武蔵の|苦衷《くちゅう》の半分ぐらいは、なんとなく分っているらしいのである。泣きじゃくりながらも、|拗《す》ねた背中を向けているのは、一頃よりは物の理解が少しついてきた証拠で、お通さんには可哀そうだし、お師匠様にはこれ以上の無理もいえないし——と立ち往生している童心の|嗚《お》|咽《えつ》が|拗《す》ねて見えるのだった。 「じゃあ、お師匠様」  手放しの泣き顔を、不意と、武蔵へ振向けると、最後の一|縷《る》へ|縋《すが》りつくように、 「——修行がすんだら、その時は、お通さんとも仲よく会うの。え、え。お師匠様の修行が、もうこれでいいと、いう時が来たら」 「それはもう、そうなればなあ……」 「それは|何日《いつ》?」 「何日ともいえぬ」 「二年?」 「…………」 「三年?」 「修行の道には果てがない」 「じゃあ、一生涯もお通さんと会わないつもり」 「わしに|天《てん》|稟《ぴん》があれば、道に達する日もあろうが、わしに素質がなければ、生涯かかってもまだこのままの|鈍《どん》|物《ぶつ》でいるかも知れん。——それになによりは、目前に死を期していることがある。——死んで行く人間がなんで、これから花も咲こう|実《み》も成ろうとする若い|女《おな》|子《ご》と、ゆくすえの約束などを誓えよう」  武蔵が思わずその点まで口を|辷《すべ》らすと、城太郎には、そこの要点はまだよく理解し|難《がた》いものと見え、すこし|怪《け》|訝《げん》そうに、 「だから、……お師匠様、そんな約束なんかしないことにして、ただお通さんと会えばいいじゃないか」  と、したり顔にいう。  武蔵は城太郎に対して、いえばいう程、自身のうちに|矛盾《むじゅん》を感じ、迷いを覚えて、苦しくなった。 「そうはゆかないのだ。お通さんも若い女子、武蔵も若い男。しかも、おまえにいうのも恥ずかしいが、会えばわしはお通さんの涙に負けてしまう。きっと、お通さんの涙に今の堅い決心を崩されてしまう……」  柳生の庄で、お通の姿を見ながら逃げて去ったあの時の回避と——今夜の彼の気持とでは、同じ形にあらわれても、武蔵の心の内面には、大きな相違を自覚していた。  花田橋の時でも、柳生谷の時でも——以前はただ、青雲にあこがれる壮気と覇気——また潔癖に似た|驀《まっ》しぐらな道心が、火が水を|弾《はじ》くように、女性の情を反撥したに過ぎなかったが、今の武蔵には、元来の野性が、徐々と智育されてくるにつれて、そこから一面の弱さも当然に覚えて来つつあった。  またと生れ得ない世に生れてきた|生命《いのち》の尊さを知っただけでも、それだけ|恐《こわ》さを知って来たのである。剣に生きる人間以外に、種々に生きる道を|辿《たど》っている人生の視野を知っただけでも、それだけ、独りよがりの自負心を|削《そ》がれているのである。「女」というものについても武蔵は、その魅力を、吉野に見ているし、自分という実体の中からも多分に「女」に持つ人間のあらゆる|惑情《わくじょう》を知りかけている——で今の武蔵は、その対象を恐れるよりも、自分の心を恐れるのだった。——殊にその対象の人がお通である場合において、彼には、それに|克《か》てそうな自信もないし——また、彼女の一生というものを考えずに、彼女を考えることもできなかった。  しくしくと泣いている城太郎に、 (わかったか……)  と、武蔵のことばが耳のそばに聞えていたので、城太郎は|肱《ひじ》で顔を抑えていたが、ふとその泣き顔を上げると、もう彼の前には|靄《もや》のこめた厚い闇しか見えなかった。 「——あッ、お師匠様っ」  ばたばたと城太郎は、長い|築《つい》|地《じ》の角まで走って行った。      十一  大声あげて、城太郎は叫ぼうとしたが、叫んでも無駄なことが分っているので、彼は、わっと泣きながら、築地に顔を押し当てた。 「…………」  いいことと信じてやった幼い一心が、大人の思慮によって|覆《くつがえ》されると、それに服従はしても、理窟は分っても、口惜しくて口惜しくてたまらないらしいのである。  泣くだけ泣いて、声がつぶれると、肩で波打ちながら、まだしゃくり[#「しゃくり」に傍点]あげていた。  ——と。  |館《やかた》のお|下婢《すえ》の|女《もの》でもあろうか、今、どこからともなく戻って来て、|下《しも》|部《べ》|門《もん》の外に|佇《たたず》んだ人影がある。ふと、暗がりの|嗚《お》|咽《えつ》が耳にふれたのであろう、|被衣《かずぎ》のひさしを向けて、弱々と近づいて来ながら—— 「……城太さん?」  疑うように呼んだ。 「……城太さんじゃないの?」  ふた声目に、城太郎は、ぎょっとしたような顔を向け、 「あっ、お通さん?」 「まあ、なにを泣いているんです——そんなところで」 「お通さんこそ、病人のくせに、どうして外へなんか」 「どうしてって、おまえくらい人を心配させる者はない。わたしにも、お|館《やかた》の人へも、なにもいわずに、いったい、今までどこを歩いていたんです……。|灯《あか》りが|点《つ》いても帰って来ないし、御門が閉まっても姿が見えないし、どんなに心配したか知れません」 「じゃあ、おいらを捜しに出ていたの」 「もしやなにか、間違いでもあったのではないかと、寝ているにも寝ていられなくなって」 「ばかだなあ、病人のくせに。またこの後、熱が出たらどうするんだい。さあ、はやく寝床へ引っ込みなよ」 「それよりなんでお前は泣いていたの」 「後でいうよ」 「いいえ、|凡《ただ》|事《ごと》ではないらしい。さ、|事情《わけ》をお話し」 「寝てから話すからさ、お通さんこそ、はやく寝てくれよ。|明日《あした》また、うんうん唸っても、おいら知らないぜ」 「じゃあ、部屋へはいって寝ますから、ちょいとだけ話しておくれ。……おまえ|沢《たく》|庵《あん》様の後を追いかけて行ったのでしょう」 「ああ……」 「その沢庵様から、武蔵様のいらっしゃる所をきいておいた?」 「あんな情け知らずの坊さんは、おいら嫌いだ」 「じゃあ、武蔵様の|居所《いどころ》は、とうとう分らずじまいですか」 「ううん」 「分ったの」 「そんなこといいから、寝ようよ、寝ようよ。——後で話すからさ!」 「なぜ、わたしに隠すんですか。そんな意地悪をするなら、わたしは寝ずにここにいるからいい」 「……ちぇッ」  城太郎は、もいちど泣き直したいように、眉を|顰《しか》めながら、お通の手を引っ張って、 「——この病人も、あのお師匠様も、どうしてそう、おいらを困らすんだろうなあ。……お通さんの頭にまた、冷たい|手拭《てぬぐい》を当ててからでないと話せないことなんだよ。さ、おはいりよ! はいらなければ、おいらが|担《かつ》いで行って寝床の中へ押しこむよ」  片手にお通の手をつかみ、片手で下部門の戸をどんどん叩きながら、|癇癪《かんしゃく》まぎれに、城太郎は呶鳴った。 「門番さん! 門番さん! 病人が寝床から外へ抜け出しているじゃないか。——開けとくれよ。はやく開けないと病人が冷えちまうよ!」     |明日《あす》|待《まち》|酒《ざけ》      一  |額《ひたい》に汗をにじませ、酒も少し手伝っているらしい顔色をして、本位田又八は、五条から三年坂へ|傍《わき》|見《み》もせず駈けて来た。  例の|旅籠《はたご》|屋《や》である。石ころ[#「ころ」に傍点]の多い坂の途中から、汚い長屋門の下を駈けぬけ、畑の奥の|離屋《はなれ》まで来ると、 「おふくろ」  と、部屋のうちを|覗《のぞ》き、 「——なあんだ、また昼寝か」  と舌打ちして呟いた。  井戸端で一息つき、ついでに手足も洗って上がって来たが、|老母《はは》はまだ眼もさまさず、どこが鼻か|唇《くち》かわからないほど、手枕に顔を押し|潰《つぶ》して|鼾《いびき》をかいているので、 「……てえっ、まるで泥棒猫みたいに、暇さえあると、寝てばかりいやがる」  よく眠っていると思っていた|老母《はは》は、その声にうす目をあいて、 「なんじゃあ?」  と起き上がってきた。 「おや、知ってたのか」 「親をつかまえて、なにをいうぞ。こうして、寝て置くのがわしの養生じゃ」 「養生はいいが、おれが少し落着いていると、若いくせに元気がないの、やれその暇に手懸りを探って来いのと、びしびし叱りつけながら、自分だけ昼寝しているのはなんぼ親でも勝手すぎようぜ」 「まあゆるせ、ずいぶん気だけは達者なつもりでも、体は年に勝てぬとみえる。——それにいつぞやの夜、おぬしと二人して、お通を討ち|損《そこ》ねてから、ひどう|落胆《がっかり》してのう、あの晩、沢庵坊めにおさえられたこの腕の根が、いまだに痛んでならぬのじゃ」 「おれが元気になるかと思えば、おふくろが弱音を吐くし、おふくろが強くなるかと思えば、おれの根気がはぐれてしまうし、これじゃあ、いたちごッこだ」 「なんの、今日はわしも骨休めに一日寝ていたが、まだおぬしに弱音を聞かせるほど、年は|老《と》らぬ。——して又八、なんぞ世間で、お通の行き先とか、武蔵の様子とか、耳よりな話は聞かなんだか」 「いやもう、聞くまいとしても、えらい噂だぞ。知らないのは、昼寝しているおふくろぐらいなものだろう」 「やっ、えらい噂とは」  お杉は膝をつき寄せて来て、 「なんじゃ? 又八」 「武蔵がまた、吉岡方と、三度目の試合をするというのだ」 「ほ、どこで|何日《いつ》」 「|遊廓《くるわ》の総門前にその高札が建ててあったが、場所はただ一乗寺村とだけで、詳しくは書いてない。——日は|明日《あした》の夜明け方となっていた」 「……又八」 「なんだい」 「|汝《わ》れは、その高札を、遊廓の総門のわきで見たのか」 「ウム、大変な人だかりさ」 「さては昼間から、そのような場所で、のめのめと遊んでいたのじゃろうが」 「と、とんでもねえ」  |慌《あわ》てて手を振りながら、 「それどころか、|稀《たま》に酒ぐらい少し飲むが、おれは生れ代ったように、あれ以来、武蔵とお通の消息を探り歩いているじゃねえか。そうおふくろに|邪《じゃ》|推《すい》されちゃ情けなくなる」  ふとお杉は、|不《ふ》|愍《びん》を増して、 「又八、機嫌なおせ、今のは、ばばの冗談じゃ。|汝《わ》れの心が定まって、元のような|極《ごく》|道《どう》もせぬことは、ようこの|老母《はは》も見ているわいの。——したがさて、武蔵と吉岡の衆との果し合いが明日の夜明けとは急なことじゃな」 「|寅《とら》の下刻というから、夜明けもまだ薄暗いうちだなあ」 「おぬし、吉岡の門人衆のうちに、知っている者があるといったの」 「ないこともないが……そうかといって、あまりいいことで知られているわけでもねえからなあ、なにか、用かい」 「わしを|伴《つ》れて、その吉岡の四条道場とやらへ案内してほしい。——直ぐにじゃ、|汝《わ》れも支度したがよい」      二  年寄りのせっかち[#「せっかち」に傍点]というものはひどく勝手である。悠々閑と、今まで昼寝していた自分のことは棚へあげ、 「又八、早うせんか」  と、人の落ちつきに、眉をしかめて、当って来る。  又八は、身支度もせず、けろり[#「けろり」に傍点]として、 「なんだい|慌《あわ》てて、軒に火でもついたように、——第一、吉岡道場へ行って、いったいどうするつもりなのだ、おふくろの量見は」 「知れたこと、|母子《おやこ》して、お願いしてみるのじゃわ」 「なにを……」 「|明日《あす》の夜明け、吉岡の門弟衆が武蔵を討つというたであろが、その果し合いの人数のうちへ、わしら|母子《おやこ》も加えていただき、及ばずながら力を|協《あわ》せて、武蔵めに、一太刀なりと、恨まにゃならぬ」 「アハハハ、アハハハ、……冗談じゃねえぞ、おふくろ」 「なにを笑うぞ」 「あまり|暢《のん》|気《き》なことをいってるからよ」 「それは、|汝《わ》れのことじゃ」 「おれが暢気か、おふくろが暢気か、まア街へ出て、世間の噂をちっと聞いて来るがいい。——吉岡方は、先に清十郎を|敗《やぶ》られ、伝七郎を討たれ、今度という今度こそは、最後の|弔《とむら》い合戦だ。破れかぶれも手伝って、血の|逆《あが》った連中ばかりが、もう滅亡したも同様な四条道場に首をあつめ、この上は、多少の外聞にかかわろうとも、なんでも武蔵を打ち殺してしまえ、師匠の|讐《かたき》を弟子が打つ分には、敢て、尋常な手段や作法にこだわっている必要はない——と公然、今度こそは大勢しても武蔵を討つと、言明しているのだ」 「ホウ……そうか」  聞くだけでも耳が|娯《たのし》むように、お杉は眼をほそめて、 「それでは、いかな武蔵めも、こんどはなぶり斬りに|遭《あ》うじゃろう」 「いや、そこはどうなるか分らない。多分、武蔵の方でも、助太刀を狩りあつめ、吉岡方が大勢ならば、彼も多勢で迎えるだろうし、さてそうなれば喧嘩は本物、|戦《いくさ》のような騒ぎになるのじゃないかときょうの|京都《みやこ》は、その噂で持ちきりなのだ。——そんな騒動の中へ、ヨボヨボなおふくろが助太刀にまいりましたなどと行って見たところで、誰も相手にするものか」 「ウーム……それやそうじゃろが、じゃといって、わしら|母子《おやこ》が、これまで|尾《つ》け狙うてきた武蔵が、他人の手で討たれるのを、黙って見ていてよいものか」 「だから、俺はこう思うんだ。あしたの夜明けごろまでに一乗寺村まで行っていれば、果し合いのある場所も、その様子もきっと分る。——そこで、武蔵が吉岡の者に討たれたら、その場へ行って、|母子《おやこ》して両手をつき、武蔵とおれ達のいきさつを詳しく述べて、死骸に一太刀恨ませてもらう。その上、武蔵の髪の毛なり、片袖なりを貰って、かくの通り、武蔵を討ち取ったと|故郷《くに》の衆に話せば、それでおれ達の顔は立つじゃねえか」 「なるほど……。|汝《わ》れの考えも智慧らしいが、そうするより|他《ほか》はあるまいの」  坐り直してお杉はまた、 「そうじゃ、それでも|故郷《くに》への面目は立つわけじゃ。……後はお通ひとり、武蔵さえ|亡《な》ければ、お通は木から落ちた猿も同様、見つけ次第、成敗するに手間暇はかからぬ」  独り言に、うなずいて、やっと年寄りのせっかち[#「せっかち」に傍点]も、そこで落ちつくところに落ちついたらしい。  又八は、醒めた酒を思い出したように、 「さあ、そうきめたら、今夜の|丑《うし》|満《みつ》ごろまでは、ゆっくり骨を休めておかなけれやならねえ。……おふくろ、少し早いが、晩飯の一本を、今から|酌《つ》けて貰おうか」 「酒か。……ム、帳場へいうて来やい。前祝いに、わしも少し飲もう程に」 「どれ……」  と、|億《おっ》|劫《くう》そうに、手を膝にかけて起ちかけたと思うと、又八は、なにを見たのか、あっと横の小窓へ大きな眼をみはった。      三  ちらと、白い顔が窓の外に見えたのであった。又八がびっくりしたのは、単にそれが若い女であったというだけではない。 「やっ、|朱《あけ》|実《み》じゃねえか」  彼は窓へ駈けよった。  逃げそびれた小猫のように、朱実は木蔭に立ち|竦《すく》んでいた。 「……まあ又八さんだったの」  彼女もびっくりしたような眼をそこにみはって。  そして、伊吹山のころから今もまだ、帯か|袂《たもと》か、どこかに付けているらしい鈴が、|顫《ふる》えるように彼女の身動きとともに鳴った。 「どうしたのだ、こんなところへ、どうして不意に来たのか」 「……でも、わたしここの|旅籠《はたご》に、もうずっと前から泊っていたんですもの」 「ふウム……、そいつあちっとも知らなかった。じゃあ、お甲と一緒にか」 「いいえ」 「一人で?」 「ええ」 「お甲とはもう一緒にいないのか」 「|祇《ぎ》|園《おん》藤次を知っているでしょう」 「ウム」 「藤次とふたりで、去年の暮、世帯をたたんで他国へ|逐《ちく》|電《てん》してしまったんです。わたしはその前からお|養母《つか》さんとは別れて……」  鈴の音がかすかに|顫《ふる》えて鳴る。見れば|袂《たもと》を顔に押し当てて、朱実はいつの間にか泣いているのだった。木蔭の光線の青いせいか、それの|襟《えり》あしといい細い手といい、又八の記憶にある朱実とはひどく違って来たように思われる。伊吹山の家や、よもぎの寮で、朝夕見ていたような|処女《おとめ》の|艶《つや》はどこにもない。 「——誰じゃあ? 又八」  と、うしろでお杉がいぶかって訊ねた。  又八は|振《ふり》|顧《かえ》って、 「おふくろにも、いつか話したことがあるだろう。あの……お甲の|養女《むすめ》さ」 「その|養女《むすめ》が、なんでわしらの話を窓の外で立ち聞きなどしていたのじゃ」 「なにもそう悪く取らなくてもいいやな。この|旅籠《はたご》に泊り合せていたのだから、何気なく立ち寄ってみたまでのことだろう。……なあ朱実」 「え、そうなんです。まさか、ここに又八さんがいようなんて、夢にもあたし知らなかった。……ただ、いつぞや、ここへ|迷《はぐ》れて来た時に、お通という人は見かけたけれど」 「お通はもういない。おめえ、お通となにか話したのか」 「なにも深い話はしなかったけれど、後で思い出しました。——あの人が、又八さんをお|故郷《くに》で待っていた|許嫁《いいなずけ》のお通さんなのでしょう」 「……ム、まあ、以前は、そんなわけでもあったんだが」 「又八さんもお|養母《つか》さんのために……」 「おめえはその後、まだ、独り身かい。だいぶ様子が変ったが」 「わたしも、あのお|養母《つか》さんのためには、ずいぶん辛い思いを忍んで来ました。それでも育ててもらった恩義があるので、じっと辛抱して来たんですけれど、去年の暮、我慢のならないことがあって、住吉へ遊びに行った出先から、独りで逃げてしまったんですの」 「あのお甲には、おれもおめえも、これからという若い出ばなを滅茶滅茶にされたようなものだ……。畜生め、その代りにゃあ今に、|碌《ろく》な死にざまはしやしねえから見ているがいい」 「……でも、これから先、あたしどうしたらいいのかしら?」 「おれだって、これから先の道は真っ暗だ……。あいつにいった意地もあるから、どうかして、見返してやりてえと思っているが……。あアあ……思うばかりで」  窓越しに、同じ運命を|託《かこ》ち合っていると、お杉はさっきから一人で旅包みを|拵《こしら》えていたが、舌うちして、 「又八、又八。用でもない人間と、なにをぶつぶついうているのじゃ。こよい限りでこの|旅籠《はたご》も立つのじゃないか、|汝《わ》が身も少し手伝うて身仕舞でもしておかぬか」      四  なにかまだ話したそうな様子であったが、お杉に気がねして、朱実は、 「じゃあ又八さん、後でまた」  |悄《しお》|々《しお》と、立ち去った。  程なく——  ここの|離屋《はなれ》には|灯《あか》りが|点《とも》る。  夜食の膳には、|誂《あつら》えた酒がつき、|酌《く》み交わしている|母子《おやこ》の間へ、勘定書が盆に載っている。旅籠の手代だの、亭主だの、かわるがわる別れの挨拶に来て、 「いよいよ今夜のお立ちだそうでございますなあ。長いご逗留にも、なんのおかまいも申しあげませんで。……どうぞこれにお|懲《こ》りなく、また|京都《みやこ》へお越しの折にはぜひとも」 「はい、はい。またお世話になろうも知れませぬ。|年暮《くれ》から|初春《はる》を越して、思わず|三《み》|月《つき》|越《ご》しになりましたのう」 「なんだかこう、お名残り惜しゅうございますな」 「ご亭主、お別れじゃ、|一盞《ひとつ》あげましょう」 「おそれいりまする。……ところでご隠居様、これからお|故郷《くに》|元《もと》へお帰りで?」 「いえいえ、まだ|故郷《くに》へは|何日《いつ》帰れることやら」 「夜中に、お立ちだと伺いましたが、どうしてまたそんな時刻に」 「急にちと大事が起りましてのう。……そうじゃ、お宅に、一乗寺村の|割《わり》|絵《え》|図《ず》があるまいか」 「一乗寺村といえば、白河からまだずんと|端《はず》れで、もう|叡《えい》|山《ざん》に近い淋しい山里。あんな所へ、夜明け前にお|出《い》でなされても……」  亭主のいう腰を折って、又八が横から、 「なんでもよいから、その一乗寺村へ行く道筋を、巻紙の端にでも書いておいておくれ」 「承知いたしました。ちょうど一乗寺村から来ている|雇人《やといにん》がおりますゆえ、それに聞いて分りよく絵図にして参りましょう。したが、一乗寺村というても広うござりまするが」  又八は少し酔っていた。やたらに|鄭重《ていちょう》振る亭主の話がうるさそうに、 「行く先のことなんざ心配しなくともいい。道順だけ訊いているのだ」 「おそれ入りました。——では、|悠《ゆる》|々《ゆる》、お支度を遊ばして」  |揉《もみ》|手《で》しながら、亭主は縁へ|退《さが》りかけた。  ばたばたと、|母《おも》|屋《や》から|離屋《はなれ》の|周《まわ》りを、そのとき、|旅籠《はたご》の雇人たちが三、四名駈けていた。亭主のすがたをここに見ると、一人の番頭が、あわてていった。 「旦那、この辺へ逃げて来ませんでしたか」 「なんじゃ。……なにが?」 「あの——この間から奥に一人で泊っていた娘っ子で」 「えっ、逃げたって」 「夕方までは、たしかに、姿が見えたんですが……どうも部屋の様子が」 「いないのか」 「へい」 「阿呆どもが」  煮え湯を飲んだように亭主の顔は変った。客の部屋の|閾際《しきいぎわ》で|揉《もみ》|手《で》をしている時とは別人のように口汚く、 「逃げられてから騒いだとて、後の祭りじゃ。——あの娘の様子といい、初手から|事情《わけ》のあるのは知れきっている。——それを七日も八日も泊めてから、お前らは初めて一文なしと気がついたのであろが。——そんなことで、宿屋商売が立ってゆかれるか」 「相済みません。つい、|処女《おぼこ》な娘と思って——まったく一杯食ってしまったんで」 「帳場の立て替えや、|旅籠《はたご》|代《だい》の倒れは仕方がないが、なにか、相宿のお客様の物でも紛失していないか、それを先に調べて来なさい。エエ|忌《いま》|々《いま》しいやつめ」  舌打ちして、亭主も|戸外《そと》の闇へ、眼いろを|研《と》いだ。      五  |夜《よ》|半《なか》を待ちながら、|母子《おやこ》はなんべんか銚子を代えた。  お杉は、自分だけ先に、飯茶碗をとって、 「又八、おぬしも、もう酒はよくはないか」 「これだけ」  と、|手酌《てじゃく》で|酌《つ》いで—— 「飯はたくさんだ」 「湯漬けでも食べておかぬと、体にわるいぞよ」  前の畑や、路地口を、雇人の|提燈《ちょうちん》がしきりと出入りしていた。お杉はそこから見て、 「まだ捕まらぬとみえる」  と、つぶやいた。そして、 「|関《かか》り合いになってはつまらぬゆえ、亭主の前では黙っていたが、旅籠代を払わずに逃げた娘というのは、昼間、|汝《わ》れと窓口で話していたあの朱実じゃないのか」 「そうかもしれねえ」 「お甲に育てられた|養女《むすめ》では、|碌《ろく》な者であろうはずはないが、あのようなものと出会うても、この|後《ご》は口など交わしなさるなよ」 「……だがあの女も、考えれば、可哀そうなものさ」 「|他人《ひと》に|不《ふ》|愍《びん》をかけるもよいが、|旅籠《はたご》|代《だい》の尻ぬぐいなどさせられては堪らぬ。ここを|発《た》つまで、知らぬ顔していやい」 「…………」  又八は、べつなことを考え出しているらしく、髪の根をつかみながら、横になって、 「|忌《いま》|々《いま》しい|阿女《あま》だなあ。思い出すと、|彼女《あいつ》の|面《つら》が天井に見えてくる。……おれを|過《あやま》らした生涯の仇は、武蔵でもねえ、お通でもねえ、あのお甲だ」  お杉は聞き咎めて、 「なにをいうぞ。お甲などという女を討ったところで、|故郷《くに》の衆が、|誉《ほ》めもせぬし、家名の面目も立ちはせぬがな」 「……ああ、世の中が面倒くさくなった」  |旅籠《はたご》の亭主が、その時、縁先から提燈と顔を見せていった。 「ご隠居さま。ちょうど|丑《うし》の刻が鳴りましたが」 「どれ……|発《た》ちましょうか」 「もう出かけるのか」  又八は、伸びをして、 「亭主、さっきの食い逃げ娘は、捕まったかい」 「いや、あれ|限《き》りでございますよ。|縹緻《きりょう》が踏めるので、万一、旅籠代や立て替えが取れなくても、住み込ませる口はあると安心していたところ、先手を打たれてしまいましたわい」  縁先へ出て、|草鞋《わらじ》の緒をしめながら、又八は振返った。 「オイ、おふくろ、なにをしているんだい? ……。おれを|急《せ》きたてておいては|何日《いつ》も自分がまごまごしていやがる」 「まあ待たぬかい、|気《き》|忙《ぜわ》しない。……のう又八、あれは|汝《わ》が身に預けたであろうか」 「なにを」 「この旅包みの側へおいたわしの|巾着《きんちゃく》じゃ。——宿の払いは、胴巻のお金で払い、当座の路銀をその巾着に入れておいたのじゃが」 「そんな物、おれは知らねえよ」 「ヤ、又八、来てみやい。この旅包みに、又八様として、なにやら紙きれが|結《ゆ》いつけてあるぞ。……なんじゃと? ……まアいけ図々しやな、元の御縁に免じて、拝借してゆく罪をゆるしてくれと書いてあるわ」 「ふウん……じゃあ朱実が|攫《さら》って行ったのだろう」 「盗んで、罪をゆるしてくれもないものじゃ。……これ御亭主、客の盗難は、|宿《やど》|主《ぬし》も責めを負わずばなりますまい。なんとして下さるのじゃ」 「へえ……それではご隠居様には、あの食い逃げ娘を、前からご存じでございましたので。——ならば、手前どもで踏み倒された勘定や立て替えのほうを先に、なんとかしていただきたいものでございますが」  亭主がいうと、お杉は、眼を白黒しながら、あわてて顔を横に振った。 「な、なにを仰っしゃる、あんな|盗《ぬす》ッ|人《と》娘に知る|辺《べ》はない。ささ、又八、まごまごしていると鶏が啼きだすぞ、出ましょうわい、出ましょうわい」     |必《ひっ》|殺《さつ》の|地《ち》      一  ——まだ月がある。  朝といっても恐ろしく早いのだ。自分たちの影法師が白い道の上に、黒々と重なって動くのが、なんだか不思議に見える。 「案外だなあ」 「ウム、だいぶ見えない顔がある。百四、五十人は集まると思っていたが」 「この分では、半分かな」 「やがて後から見える|壬《み》|生《ぶ》源左衛門殿や、御子息や、あの親類がたを入れて、まあ六、七十人だろうな」 「吉岡家も|廃《すた》ったなあ。やはり清十郎様、伝七郎様の二つの柱がもう抜けてしまったのだ。|大《たい》|廈《か》の|覆《くつがえ》るとはこのことか」  影法師の一かたまりが|囁《ささや》いていると、|彼方《かなた》の石垣の|崩《くず》れに腰かけている一|群《ぐん》が、 「気の弱いことをいうな。盛衰はこの世の常だ」  と、誰か呶鳴るようにこっちへ向っていう。また、べつな一団が、 「来ない奴は来ないにしておけばいいじゃないか。道場を閉じたからには、めいめい自活の道を考える奴もあろう。将来の損得を思慮する人間もあるだろう。当り前なことだ。——その中で、あくまで、意地と義気に生きようとする遺弟だけがここにおのずと集まるのだ」 「百の二百のという人数はかえって邪魔になる。討つべき相手はたった一人ではないか」 「アハハハ。誰かまた、強がっているわい。蓮華王院の時はどうした。そこにいる連中、あの折、居合せながら、みすみす武蔵の姿を見送っていたのじゃないか」  |叡《えい》|山《ざん》、一乗寺山、如意ケ岳、すぐ|背後《うしろ》の山は皆、まだ動かない雲の|懐《ふところ》に深く眠っている。  ここは俗称|藪《やぶ》|之《の》|郷《ごう》|下《さが》り|松《まつ》、一乗寺|址《あと》の田舎道と山道の追分で、辻は三つ|股《また》にわかれている。  朝の月を貫いてひょろ長い一本松が|傘《かさ》|枝《えだ》をひろげていた。一乗寺山の裾野地ともいえる山の真下なので、道はすべて傾斜している上に石ころ[#「ころ」に傍点]が多く、雨降りの時は流れになる水のない河の跡が幾すじも露出している。  下り松を中心に、吉岡道場の面々は、|月《つき》|夜《よ》|蟹《がに》のようにさっきからその辺りを占めて、 「この街道が三つに分れているので、武蔵がどこから来るかそれが考えものだ。同勢をすべて三手に分けて、途中に伏せ、下り松には名目人の源次郎様に、|壬《み》|生《ぶ》の源左どの、その|他《ほか》、旗本格として御池十郎左、植田良平殿など、古参方が十名ほどひかえておられたらよろしかろう」  地形を案じていう者があると、また一人が、 「いや、ここの足場は|狭隘《きょうあい》だから、あまり一ヵ所に人数をかためておいてはかえって不利だろう。それよりも、もっと距離をおいて、武蔵の通り道にかくれ、いちど、武蔵の姿をやり過してから、前と|背《うしろ》と、いちどに起って、ふくろ包みにすれば|万《ばん》討ちもらすことはあるまい」  と、一説を立てる。  人数の多数からおのずとわきあがる意気は天をも衝くように見えた。離れたり集まったりする影法師には皆、長やかな刀の|鐺《こじり》か、横たえている槍の影が|串《くし》|刺《ざ》しになっていた。そしてその中には、一人の卑怯者らしいものもなかった。 「——来た、来た」  まだ十分に時刻は早いと分っていながら、|彼方《あなた》から一人が叫んで来ると、すぐに、ぎくっと肌のうぶ毛が凍るような心地して、影法師は皆しいんと黙りこくった。 「源次郎様だ」 「駕でござったな」 「なんといっても、まだお|年《とし》|若《わか》だからな」  人々の眼の向いた方に——遠く|提燈《ちょうちん》の灯が三つ四つ——その提燈よりも明るい月の下を|叡《えい》|山《ざん》|颪《おろ》しに吹かれながら、ちらちら近づいて来るのが見えた。      二 「やあ、揃ったな、各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]」  駕を捨てたのは老人だった。次の駕からまだ十三、四歳の少年が降りた。  少年も老人も、白鉢巻をして、高く|股《もも》|立《だち》をかかげていた。|壬《み》|生《ぶ》の源左衛門|父子《おやこ》である。 「これ、源次郎」  老人は、子へいい聞かせた。 「そちはこの下り松のところに立っておればよい。松の根元から動くでないぞ」  源次郎は黙ってうなずいた。  その|頭《つむり》を撫でながら、 「きょうの果し合いは、そちが名目人になっているが、戦いは、他の門弟衆がやる。おまえはまだ幼いからじっとここに控えていればよいのじゃ」  源次郎はこっくりして、正直にすぐ松の根元へ行き、五月人形のように|凜《り》|々《り》しく立った。 「まだよい、まだちと早い、夜明けまでにはだいぶ間があるでな」  腰を探って、がん首の大きな|太《たい》|閤《こう》|張《ば》りの|煙管《きせる》を抜き、 「火はないか」  と、まず味方に余裕のあるところを示すつもりで見まわすと、 「|壬《み》|生《ぶ》の御老台、火打石はいくらもあるが、その前に、人数を手分けしておいてはどうか」  御池十郎左衛門が前へ出ていう。 「それも一理あるな」  たとえ血脈の間がらとはいえ、幼少の子を果し合いの名目人に提供して惜しまないほどの|好《こう》|々《こう》|爺《や》である。一も二もなく他説に従って、 「——では早速、備え立てして敵を待とう。しかし、この人数をどう分けるというのか」 「この下り松を中心とし、三方の街道へ、各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]約二十間ばかりの距離をおいて、道の両側に|潜《ひそ》んでいることとする」 「して、ここには」 「源次郎様のそばには、拙者、また御老台、その他十名ほどの者がいて、護るばかりでなく、三道のどこからか、武蔵が来たとの合図が起ったら、すぐそれへ合体して一挙に彼を|葬《ほうむ》ってしまう」 「待たっしゃい」  老人らしく、|熟《じ》っくり考えこんで、 「——幾ヵ所にも分割してしまうことになるなら、武蔵が、どの道から来るかわからぬが、真っ先に彼へぶつかる人数は、およそ二十名ぐらいにしか当るまい」 「それだけが、一斉に取り巻いているうちには」 「いや、そうでないぞ。武蔵にも、何名かの加勢がついて来るにきまっている。それのみでなく、いつぞやの雪の夜、伝七郎との勝負の果てに、あの蓮華王院での|退《ひ》きようを見ても、武蔵という奴、剣も鋭いかしらんが、|退《ひ》きも上手じゃ。いわゆる逃げ上手という兵法を知った奴じゃ。だから、手薄なところで、素ばやく三、四名に|傷《て》を負わせ、さっと引き揚げて——後に一乗寺|址《あと》においては、吉岡の遺弟七十余名を相手に、われ一人にて勝ったりと、世間へいい触らすかもわからぬて」 「いや、そうはいわさぬ」 「——というたところで後となれば|水《みず》|掛《かけ》|論《ろん》。武蔵の方に、何名助太刀がついて来ても、世間は彼の名の一つしかいわぬ。その一人の名と大勢の名とでは、世間は相違なく、大勢らしい方を憎む」 「わかり申した。つまり今度という今度こそは、断じて、武蔵を生かして逃がすようなことがあってはならぬということでしょう」 「そうじゃ」 「仰っしゃるまでもなく、万が一にも、ふたたび武蔵を逃がすような失策を生じたら、後でどう弁解しても、われわれの汚名はもう|拭《ぬぐ》われますまい。ですから今暁は、ただ一つに|彼奴《きゃつ》を討ち殺すのを目的とし、そのためには、手段も選ばない所存でござる。死人に口なし、殺してさえしまえば、世間はわれわれの|宣《の》ぶる言を信じて聞くしかないのですから」  御池十郎左衛門はそういって、辺りに群れを作っている人々のうちを見廻して、四、五人の名を呼びあげた。      三  半弓を|携《たずさ》えた門人が三名、鉄砲を持った門人が一名、 「お呼びですか」  と、前へ進んだ。  御池十郎左衛門は、 「ウム」  と|頷《うなず》いたのみで、源左老人へ向っていった。 「御老台、実は、こういう用意までいたしているのでござる。もう御懸念は去りましたろう」 「ヤ、飛び道具」 「どこか、小高い場所か、樹の上に伏せておいて」 「醜い仕方と、世間の評がうるさくはないか」 「世評よりは武蔵を|斃《たお》すことが第一だ。勝ちさえすれば世評も作れる。敗れたら真実をいっても、世間は泣き言としか聞いてくれまい」 「よし、そこまで、腹をすえてやる儀なら、異存はない。たとえ武蔵に、五人や六人の加勢がついて来ても、飛び道具があればよも討ち洩らしもいたすまい。……では評議に手間取っているうちに、不意を衝かれてもなるまいぞ。采配はまかせる。すぐ配備配備」  老人が、合点すると、 「では、|潜《ひそ》め」  一同の頭の上へ、十郎左衛門が|叱《しっ》|咤《た》をながした。  三方の街道は、敵の出ばな[#「ばな」に傍点]を|挫《くじ》き、同時に、前後を挟撃するという戦法のもとにかくれている前衛であり、下り松は、本陣という形でここには十名ほどの中堅が残る。  |蘆《あし》|間《ま》の|雁《かり》のように、黒い影法師は駈け別れ、|藪《やぶ》に沈み、樹蔭に隠れ、田の|畦《あぜ》に腹這いになった。  また、その辺りの地を|相《そう》して、高い樹の上に、半弓を負ってスルスルと登って行った影法師もある。  鉄砲を持った男は、下り松の|梢《こずえ》によじ登り、月明りを気にしながら、自分の影をかくすのに苦心をしていた。  枯れ松葉や木の皮が、ぱらぱらこぼれて来た。下に立っていた飾り人形のような源次郎少年は、|襟《えり》くびへ手をやりながら身ぶるいをした。  |見《み》|咎《とが》めた源左老人が、 「なんじゃ、|顫《ふる》えているのか。臆病者めが」 「背中へ松葉がはいったんです。なんにも怖くなどありません」 「それならよいが、おぬしにもよい経験というものだ。やがて斬合が始まるから、よく見ておくのだぞ」  すると、三方道のいちばん東にあたる修学院道の方で、突然、 (馬鹿ッ!)  と、大きな声が聞え、ざざざッ——とその辺の|藪《やぶ》が鳴り騒いだ。  |潜《ひそ》んでいた人間のうごきが方々でいるところを明らかにした。飾り人形の源次郎は、 「|恐《こわ》いッ」  と、口走って、源左老人の腰へしがみついた。 「来たのだ!」  御池十郎左衛門はすぐ気配の立ったほうへ向って駈け出した。——しかし駈けてゆくうちに、変だな? という気持がした。  案の定、待ち設けていた敵ではなかったのである。いつぞや六条柳町の総門の前で、双方のあいだに立って口をきいたあの前髪若衆、佐々木小次郎がそこに突っ立って、 「眼はないのか、戦う前から眼が上がっていられるな。わしを武蔵と間違えて突ッかかるような浮き腰では心ぼそい。わしは、今朝の試合の見届け人として来たのだ。立会人へ、藪から棒に——いや藪から槍を突きつける馬鹿者があるか」  と、例の大人びた高慢顔で、そこらの吉岡門人を叱りつけているのだった。      四  しかし、|此方《こ っ ち》も気の立っている折ではあるし、小次郎のそうした態度に、不審を抱く者もあって、 (こいつ、臭いぞ) (武蔵に助太刀を頼まれて、先に様子を見に来たのかも知れぬ)  吉岡方の者は|囁《ささや》いて、手出しは一応控えたものの、彼のまわりを解こうとはしないのであった。  そこへ十郎左衛門が駈けつけて来たので、小次郎のひとみはすぐ衆を捨てて、割り込んで来た十郎左衛門へ喰ってかかり、 「立会人として今暁これまでまいったるに、吉岡衆はわしをも敵と見てかかった。これはそもそも貴所のお指図でありまするか。しかるとせば、不肖ながら、佐々木小次郎も、久しく伝家の|物《もの》|干《ほし》|竿《ざお》に生血の|磨《と》ぎを怠っていたところで——|勿《もっ》|怪《け》の|倖《しあわ》せといいたいのだ。武蔵に助太刀する縁故はさらにないが、自分の面目上、相手となっても差しつかえないが。ご返答を聞こう!」  |威《い》|猛《たけ》|高《だか》な|獅《し》|子《し》|吼《く》である。  こうした高飛車な物腰は、なんぞというと、この小次郎の|常套的《じょうとうてき》な態度であるが、その姿や前髪の優しげなところだけ見ていた者は、ちょっと、度胆を抜かれてしまう。  ——だが、御池十郎左衛門は、その手は喰わないという顔つきで、 「ハハハハ、これはひどいご立腹だな。しかし、今暁の試合に、貴公を立会人として、誰が頼んだか。——当吉岡一門の者としては依頼した覚えがないが、それとも武蔵からお頼みをうけて来られたか」 「だまんなさい。いつぞや六条の往来に、高札を立てた折、|確《しか》と、わしから双方へいいおいた」 「なるほど、あの時貴公はいった。——自分が立会人に立つとか立たぬとか。——だがその折、武蔵も貴公に頼むとはいわなかったし、当方でもお願い申すといったつもりはない。要するに、貴公一人が事好みに、出る幕でもない幕へ、独りで役を買って出たのでござろう。そういうおせッ|介《かい》|者《もの》は世間によくあるものだて」 「いうたな」  小次郎の激発は、もう虚勢ではなかった。 「——帰れっ」  十郎左衛門はさらにいって、 「見世物ではないっ」  と、|唾《つば》するように苦りきった。 「……ウム」  息を引くように、青ざめた|面《おもて》をうなずかせて、小次郎はすぐ身を|翻《ひるがえ》した。 「——見ておれ、うぬら」  彼が元の道のほうへ駈け出して行こうとすると、ちょうどそのとき、十郎左衛門より一足遅れてここへ来た|壬《み》|生《ぶ》の源左老人が、 「お若いの、小次郎殿とやら、待ちなされ」  と、あわてて後ろから呼び止めた。 「わしに、用はあるまい。いまの一言、後で眼にもの見せてくれるから待っておれ」 「まあ、そういわないで、しばらく、しばらく」  老人はそういって、息巻きながら立ち去ろうとしかけた小次郎の前に廻って、 「|此《この》|方《ほう》は、清十郎の叔父にあたる者でござる。おてまえ様の儀は、かねて、清十郎からも、頼母しき|御《ご》|仁《じん》なりと承っておりました。どういう行き違いか、門弟どもの|卒《そつ》|爾《じ》は、この老人に免じて勘弁して下さるよう」 「そうご挨拶をされると恐縮します。四条道場には、以前、清十郎殿との|好誼《よしみ》もあるので、助太刀とまでは行かずとも、十分好意をもっているつもりなのに……余りといえば、雑言を吐くので」 「ご|尤《もっと》もじゃ、ご立腹は尤もじゃ。したが、唯今のことは、まあお聞き流しの上、どうぞ、清十郎、伝七郎ふたりのために、何分、ご加担をおねがい申す」  如才なく、源左老人は、この|精《せい》|悍《かん》な慢心青年を、いい気持にさせて、|宥《なだ》めぬいた。      五  これだけの備えがある以上、小次郎一人の助太刀など頼るにも当らない。けれど、この若者の口から自分たちの卑怯な戦法が|吹聴《ふいちょう》されてはと、それを源左老人はおそれたにちがいない。 「なにとぞ、水に流して」  と、|懇《ねんご》ろな謝りように、小次郎は前の怒りようとは、打って変って、 「いや御老人、そう年上のあなたから何遍も頭を下げられると、若輩の小次郎はどうしてよいか分らなくなる。まずお手を上げてくだされい」  案外、あっさり機嫌を直して——それと共に、吉岡方の者へ、例の|流暢《りゅうちょう》な弁舌で、こう激励の辞を述べ、そして、武蔵のことを、口を極めて|罵《ののし》り出した。 「わしは元より、清十郎殿とはご懇意だったし、武蔵には、さっきもいうた通り、なんの|由縁《ゆかり》もない人間です。——さすれば人情としても、知らぬ武蔵よりは、御縁故のある吉岡衆に勝たせたいと思うのが当然でござろう。——しかるになんたる不覚です、二度までの敗北とは。四条道場は離散、吉岡家は|瓦《が》|滅《めつ》。……ああ、見てはいられません。古来、兵家の試合多しといえども、こんな悲惨事は見たことも聞いたこともない。——室町家御指南役ともあろう大家が、名もなき一介の|田舎《いなか》剣士のために、かかる悲運に立ち至ろうとはです」  小次郎は耳を紅くしているかと思われるような語気で演舌するのだった。源左老人を始め皆彼の熱力のある舌に魅せられて黙ってしまった。そして、これほど好意を持たれている小次郎に対してなんであんな暴言を吐いたかと、十郎左衛門などはありあり悔いている顔つきであった。  そういう空気を見わたすと、小次郎はわが独壇場のように、いよいよ舌に熱を加えて、 「わしも将来は、兵法をもって一家を成そうとする者なので、単なる好奇心からではなく、努めて試合、真剣勝負などの際は弥次馬に交じって出かけます。傍観者となっているのもよい勉強になるからでござる。——けれどおよそ今日まで、|貴《き》|所《しょ》|方《がた》と武蔵との試合ほど|傍《はた》で見ていて|焦《いら》|々《いら》するものはなかった。——蓮華王院の時でも、また蓮台寺野でも、お付添もいたろうに、なぜ武蔵を無事に逃がしたのでござるか。師を討たれながら、武蔵をして、|洛《らく》|内《ない》を横行させて、だまっておられる各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]の気もちがわしには分りません」  乾いた|唇《くち》を|舐《な》めてさらに、 「なるほど、渡り者の兵法者としては、武蔵はたしかに強い、驚くべき烈しい男にはちがいない。それはこの小次郎も、一、二度出会ってよく分っておる。——で実は、よけいなおせっかいに似たことだが、いったい|彼奴《きゃつ》の素姓生国はどういう者かと、先頃来、いろいろ調べてみたのです。もっとも、それには実は、彼を十七歳の頃から知っている或る女に出会ったのが、手がかりの|緒口《いとぐち》となったのですが」  ——と、朱実の名は隠して、 「その女から訊き、また諸方いろいろ|詮《せん》|索《さく》してみたところ、|彼奴《きゃつ》の|生《お》い|立《た》ちは、作州の郷士の小せがれで、関ケ原の役から帰国後、村で乱暴を働き、遂に国元を追われて諸方を流浪してきたという、取るに足らない人物なのです。けれど、あの剣は、天性とでもいうか、野獣の強さとでもいうか、そういう命知らずなので、無茶に道理が負ける|喩《たと》えで、かえって、正法の剣が不覚をとるものとわしは思う。——故にです。武蔵を討つのに、尋常にかかっては敗れる、猛獣は|罠《わな》に|穽《おと》して|獲《と》るしかないように、奇策を用いねばまたいたされますぞ。その辺のこと、十分、敵を|観《み》てお考えなされておるかの」  源左老人が、好意を謝して、そこに抜かりのないことを説明すると、小次郎はうなずいて、なおいった。 「そこまで行き届いておれば万が一にも、討ち洩らしはあるまいが、まだ念のために、もう一度、突っ込んだ策があってもいいと思う」      六 「——策?」  と源左老人は、小次郎の|賢《さか》しらな顔つきを見直して、 「なんの、これ以上、策も備えも|要《い》りませぬ。ご好意はありがたいが」  いうと、小次郎はやや|執《しつ》こい。 「いやそうでないぞ御老人、武蔵がのめのめと、ここまで正直にやって参れば、それは各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]の術中にかかったも同様、もはや|遁《のが》れる|術《すべ》はなかろうが、万一、ここにかような備えがあることを未然に知って、道を交わしてしまったらそれまでではありませぬか」 「そしたら、笑うてくれるまでのこと——。京の辻々へ、武蔵逃亡と、高札に掲げて、天下へ笑い者にしてやるわさ」 「貴所方の名分は、なるほど、それでも半分は立つだろうが、武蔵もまた、世間へ出て、各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]の卑劣を誇張して訴えましょう。さすれば、それで師の怨恨をそそいだことにはならぬ。——断じて、武蔵をここで刺殺してしまわねば意味がない。その武蔵を、きっと殺してしまうためには、この必殺の地へどうしても|彼奴《きゃつ》が来るように、誘いの策が|要《い》るとわしは思うが」 「はて、そんな策が、あろうかな?」 「ある」  小次郎はいった。  いかにも自信のある|口吻《くちぶり》で、 「ある! 策はいくらでも……」  と、声を落して、ふと、常の|傲《ごう》|岸《がん》な顔には見せない|狎《な》れ易い眸をして、源左老人の耳へ口をよせ、 「……な。……どうです」  と、ささやいた。 「……ム、む、なるほど」  老人はしきりと|頷《うなず》いて、今度はそのまま御池十郎左衛門の耳へ顔をよせて|計《はか》った。  おとといの|夜《よ》|半《なか》、ここの木賃宿を叩いて、久しぶりの訪れに、木賃の|老爺《おやじ》を驚かせた宮本武蔵は、一夜を明かすと、|鞍《くら》|馬《ま》|寺《でら》へ行って来ると断って出かけたまま、きのうは一日姿を見せなかった。 (晩には)  と、老爺は雑炊を温めなどして待っていたが、その晩も帰らず、やがて翌る日のたそがれ近くに帰って来たかと思うと、 (鞍馬みやげじゃ)  と、|苞《つと》に入った|長《なが》|芋《いも》を老爺にくれた。  それから、もうひとつの方は、近所の店で求めて来た品らしく、|一《ひと》|巻《まき》の奈良|晒布《ざらし》を出して、これで肌着と腹巻と|下《した》|紐《ひも》とを急に縫ってもらいたいという。  木賃の老爺は、すぐそれを持って、お針のできる近所の娘の家へ頼みにゆき、帰りの足も無駄をせず、酒屋から酒をさげて来て、山芋汁を|肴《さかな》に、夜半を世間ばなしに|費《つい》やしていると、そこへちょうど、頼んでやった肌着や腹巻もできて来た。  それを、枕元において、武蔵は眠りについたのであったが、ふと老爺が真夜中に眼をさましてみると、裏手の井戸ばたで、誰かさかんに水を浴びているような音がする。何気なく覗いてみると、武蔵はもう寝床をぬけて、月の光の下に|沐《もく》|浴《よく》を済まし、宵にできた真っ白な|晒布《さらし》の肌着を着、腹巻をしめ、その上に、いつもの衣服を|纏《まと》っているのであった。  まだ月もそう西へは|傾《よ》っていない。——今頃からそんな支度をしてどこへ? と老爺がいぶかって問うと、いや、先頃から洛中洛内を見、きのうは鞍馬にも登って、もうこの京都にも少し飽いた気がするので、これから暁の路をかけて、月の|叡《えい》|山《ざん》に登ってゆき、志賀の|湖《うみ》の日の出を拝んで、それを鹿島立ちに、江戸表へ下向してみようと思い立った。——そう思い立つと、眼が冴えてしまい、おまえを起すのも気の毒と思ったから、|旅籠《はたご》賃や|酒代《さかて》も、枕元に包んで置いてある。少ないが、あれを納めてくれ。また、三年後か四年後か、京都へ出たらおまえの家へ泊りに来よう。  ——武蔵はそう答えて、 「おやじ、後を閉めておいてくれよ」  もうすたすたと、横の畑道から廻って、|牛《うし》|糞《くそ》の多い北野の往来へ出て行くのだった。  老爺が、|名残《なごり》惜しげに、小さい窓から見送っていると、武蔵は、十歩ほど往来をあるくと、|布《ぬの》|緒《お》の|草鞋《わらじ》の緒を、ちょっと締め直していた。     月一つ      一  つかの間であったが|熟《よ》く眠ったと思う。|頭脳《あたま》のうちはこよいの夜空のように冴え、澄み切ったそのものと、この身とが、|恰《あたか》も、ひとつ物のようにすら見えて、一歩一歩なにものかの中へ、身は溶け入ってゆくのかと思う。 「ゆるりと歩もう」  武蔵は、意識的に、大股な足癖を惜しんで—— 「……さて、人間の世をながめるのも、今夜かぎりとなったな」  なんの|詠《えい》|嘆《たん》でもない、悲嘆でもない、そう痛切なる感慨では決してなかった。ふと——しかしなんらの|虚飾《きょしょく》もない心の底から——ふっとのぼった|呟《つぶや》きであった。  まだ、一乗寺|址《あと》下り松までは、だいぶ距離があるし、時刻も夜半を過ぎたばかりなので、死というものが、顔の前まで切実に感じられて来ないのだろうか。  きのう一日、鞍馬の奥の院へ行って、|松籟《しょうらい》の中に、黙って坐りこんで降りて来たのであったが、無相無身になってみようと努力したその時のほうが、どうしても、死というものから離れられなくて、結局、なんのために坐禅などしに山へのぼったのかと、浅ましくさえ覚えた。  それに反して、今夜の|清《すが》|々《すが》しさは、どういうものだろうと、彼はわれを疑う。——宵に、木賃のおやじと少し含んでみた酒が、適度にまわって、熟睡して、醒めた肉体に井戸水を浴び、新しい|晒布《さらし》の肌着でひき|緊《し》まっているこの体というものが、どう思ってみても今死ぬものとは思われない。 (——そうだ、|腫《う》んだ足を引き摺って、伊勢の宮の裏山へ登った時——あの晩の星もきれいだったな。あれは、|冱《ご》|寒《かん》の冬だったが、今ごろならば、|氷花《つらら》の樹々にも、もう山桜のつぼみが|膨《ふく》らんでいる時分)  考えようともしないそんなことが|頭脳《あたま》のうちに描き出され、考えようとする行く先の必死の問題にはなんの知性もわいて来ない。  あまりにも、覚悟し切ってしまった、その死に対して、彼の知性はもう間に合いもしない——死の意義、死の苦痛、死後の先などと百歳まで生きてみても、解決しそうもないそんな問題に、今さら、|焦躁《しょうそう》する愚を|熄《や》めてしまったのかも知れない。  こんな深夜なのに、道のどこからともなく、|笙《しょう》に和してひちりき[#「ひちりき」に傍点]の音が|冷《ひえ》|々《びえ》とながれていた。  そこらの|小《こう》|路《じ》の|公《く》|卿《げ》屋敷らしい。|吹《すい》|奏《そう》の|律調《しらべ》の厳かな|裡《うち》にも哀調があるところから察すると、酒興に|更《ふ》けている公卿たちのすさびとも思われない。|柩《ひつぎ》をかこんで暁を待つ|通《つ》|夜《や》の人々や、|榊《さかき》の前の白い灯がふと武蔵の眼に|泛《う》かぶ—— 「——自分より一足先に死んでいる人がある」  あしたは、死出の山で、その人とも、どこかで知己になりそうな気がして、|微笑《ほほえ》まれる。  通夜のひちりき[#「ひちりき」に傍点]は、歩いているうち、もう余程さっきから耳には聞えていたのかもしれない。——その|笙《しょう》やひちりき[#「ひちりき」に傍点]の音から伊勢の宮の|稚《ち》|児《ご》の|館《たち》が|憶《おも》い出され、|腫《う》んだ足をひき摺って登った鷲ケ岳の樹々の|氷花《つらら》が、ふと考え出されたのであろう。  はて? ——と武蔵は、自分の|爽《さわ》やかな|頭脳《あたま》をそこで疑って見ざるを得なかった。——このすずやかな心地は、実に、一歩一歩、死地へ足を向けている体から来るところの——自分でも意識しない極度な恐怖のうつつ[#「うつつ」に傍点]ではあるまいかと。  そう、自分に訊ねて、ぴたと自己の足を大地に踏み止めてみた時、道はすでに|相国寺《しょうこくじ》の大路端れに出ていて、半町ほど先には、ひろい|川《かわ》|面《も》の水が|銀《ぎん》|鱗《りん》を立てて、水に近い|館《やかた》の|築《つい》|地《じ》にまでその明るい光をぎらぎら映していた。  ——と、その築地の角に、人影が一つ黒く、じっと立ってこっちを見ていた。      二  武蔵は足を止めた。  先に見せた人影は、反対にこっちへ歩き出して来る。その影に|従《つ》いて、もひとつ小さい影が月の道を転がって来る。近づいてから、それはその男の連れている犬だとわかった。 「…………」  手足の先にまでこめていた或る力を急に抜いて、武蔵は無言のまますれちがった。  犬を連れた通行人は、通り過ぎてから|遽《にわか》に振向いて声をかけた。 「お武家さま。お武家さま」 「……わしか」  四、五間を隔てたまま、 「さようでございます」  腰のひくい|凡《ぼん》|下《げ》だ。職人|袴《ばかま》に|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》をかぶっている。 「なんだな?」 「ひょんなお訊ねをいたしますが、この道筋に、|明《あか》|々《あか》と|点《とも》して起きていたおやしきはございませぬかな」 「さ。気がつかずにまいったが、なかったように思う」 「はて、それでは、この道筋でもないかしらて?」 「なにをさがしておるのか」 「人の死んだ家でございます」 「それならあった」 「お、お見かけなさいましたか」 「この深夜だが、|笙《しょう》やひちりき[#「ひちりき」に傍点]の|音《ね》がもれていた。そこではないか、半町ほど先だった」 「違いございません。先に神官方が、お通夜に行っておりますはずで」 「通夜にまいるのか」 「てまえは鳥部山の|柩造《ひつぎつく》りでございまするが、うかつにも、吉田山の松尾様と合点して、吉田山へお訪ねいたしましたところ、もう|二《ふた》|月《つき》も前にお移りになったのだそうで……いやもう、夜は更けて問う家とてはございませぬし、この辺りも知れ|難《にく》いところでございますなあ」 「吉田山の松尾? ——元吉田山にいてこの辺りへひき移って来た家と申すか」 「そうと知らなかったので、とんだ無駄足をいたしましてな。いや、ありがとう存じました」 「待て待て」  武蔵は二、三歩出て、 「近衛家の用人を勤めていた松尾|要人《かなめ》の家へゆくのか」 「その松尾様が、たった十日ほどわずろうて、お|亡《な》くなりなされました」 「主人が」 「へい」 「…………」  ——そうか。と|呻《うめ》くようにいったまま、武蔵はもう歩いていた。|柩屋《ひつぎや》も反対な方へ歩いていた。取り残された小犬が、あわてて後から転がってゆく。 「……死んだか」  口の|裡《うち》でいってみた。  しかし武蔵はそれ以上なんの感傷も|抱《いだ》かなかった。——死んだか。実に、そう思うだけだった。自己の死すら感傷になれないのである。いわんや、他人をや。爪に灯をともすように、生涯いじいじ小金を蓄えて死んで行った酷薄なる叔母の|良人《お っ と》——  それよりは、武蔵はむしろ、飢えと寒さにふるえた元日の朝、加茂川の凍った水のほとりで焼いて喰べた餅のにおいの方が今ふと思い出された。 (|美味《うま》かったな)  と思う。  良人にわかれて独りで暮す叔母を思う。  すぐ彼の足は、上加茂の流れの岸に立っていた。河をへだてて、満目に三十六峰が黒々と空からせまる。  その山の一つ一つが、皆、武蔵に対して敵意を示しているように見えた。  ——じっと、そこに立ち尽していることややしばらくの後、武蔵は、 「ウム」  と、独り|頷《うなず》いた。  河原へ向って、|堤《どて》の上から降りて行く。そこには、|鎖《くさり》のように小舟を|繋《つな》いだ舟橋が架かっていた。      三  |上京《かみぎょう》の方面から|叡《えい》|山《ざん》——志賀山越えの方角へ渡ろうとすれば、どうしても、この一路へかかることになる。 「おおう……いっ」  武蔵の影が、加茂の舟橋の中ごろまで渡って来た時である。こう呼ばわる声がする。  |淙《そう》|々《そう》と瀬の水の戯れは、月の白い限りの天地を占めて独り楽しんでいる。上流から下流まで、ここは奥丹波の風の通路のように|冷《ひえ》|々《びえ》と夜気が流れている。——誰が誰をよぶのか、どこに声の|主《ぬし》がいるのか、|遽《にわ》かに知るには余りに天地が|闊《ひろ》い。 「おオーい」  またしても呼び抜く。  武蔵は、二度足を止めたが、もう心にかけず、|糺《ただす》の中の|洲《す》を越えて対岸へ跳び移ってしまった。  と、一条白河のほうから河原づたいに、手をあげながら駈けて来るものがある。見たようなと思った眼に誤りはなかった。佐々木小次郎なのである。 「やあ」  近づきながらこう親しそうに小次郎は声をかけた。そして、武蔵の姿をじっと見、また舟橋のほうを見渡してから、 「お一人か」  といった。  武蔵は|頷《うなず》いて、 「一人です」  と、当然のようにいう。  挨拶が少し前後している。それから小次郎は改めていった。 「いつぞやの夜は失礼いたした。不行届な扱いを受けて下すって、有難くぞんじています」 「いやその折はどうも」 「さて、——これから約束の場所へ赴かれるのか」 「はい」 「お一人で?」  |諄《くど》いと、承知しながら、小次郎はまたたずねた。 「一人です」  武蔵の返辞も、前と同じであったのが、かえって、小次郎の耳にはよく聞えた。 「ふふむ……そうですか。しかし武蔵どの、貴所はこの間、この小次郎が|誌《しる》して六条へ建てたあの公約の高札表を、なにか、読みちがえてはおられぬか」 「いいやべつに」 「でもあの高札文には、この前の清十郎とそこ許との試合のように一名と一名に限るとは書いてないのでござるぞ」 「わかっております」 「——吉岡方の名目人は幼少のただ名だけのもの。あとは一門遺弟となっている。遺弟といえば、十人も遺弟、百人も遺弟、千人も……であるが、その点抜かられたな」 「なぜですか」 「吉岡の遺弟のうちでも、弱腰なものは逃げたり、不参らしく見ゆるが、骨のある門人は、こぞって、|藪《やぶ》|之《の》|郷《ごう》いったいに備え、下り松を中心に、貴所の来るのを待ちかまえている|態《てい》に見ゆる」 「小次郎殿には、すでにそこをお見届けでござりますか」 「念のために。——そして今、こは相手方の武蔵どのにとって一大事なりと思慮いたしたので、一乗寺|址《あと》から急いで引っ返してまいり、およそこの舟橋が貴所の通路ではないかと|計《はか》って、お待ち申していたのでありまする。——高札表を|認《したた》めた立会人の務めでもござれば」 「ご苦労に思います」 「|右《みぎ》|様《よう》なわけでござるが、それでも貴所は、一人で行くおつもりか。——それとも、他の|助人《すけうど》たちは、べつな道をとって行かれたか」 「自分一名のほか、もう一名、自分とともに歩いてまいりました」 「え。どこへ」  武蔵は、地上のわが影法師を指さして、 「ここに」  といった。  笑う歯が月に白かった。      四  冗談などいいそうもない武蔵が、ニコッと笑って不意に|戯《たわむ》れをいったので、小次郎は、ちょっとまごつきながら、 「いや、冗談ごとではありませぬぞ、武蔵どの」  よけい真面目づくると、 「拙者も、冗談はいいませぬ」 「でも、影法師と二人づれなどとは、人を小馬鹿にしたおことばではないか」 「しからば——」  武蔵は、小次郎以上、きっと真面目な|態《てい》を示して、 「|親鸞聖人《しんらんしょうにん》の申されたことばとやらに——念仏行者は常に二人づれなり、|弥《み》|陀《だ》と二人づれなり。とあったように覚えておるが、あれも冗談ごとでしょうか」 「…………」 「|何《なに》|様《さま》、ただ、形のうえより観ずれば、吉岡衆はさだめし大勢でござろうし、この武蔵は、見らるる如くただの一名。勝負にはならぬと小次郎殿も、拙者を案じて|賜《たま》わるのであろうが、乞う、お案じくださるな」  武蔵の信念は、言葉のひびきからも脈を|搏《う》って、 「彼が十人の多勢を|擁《よう》するゆえ、われも十人の勢をもって当ろうとすれば、彼は二十人の備えを立てて打ってくるに違いない。彼二十人なれば、われも二十人の勢をもって当らんとすれば、彼はまた三十名、四十名を呼号して集まるでしょう。さすれば、世間を騒がすことも甚だしく、多くの|負傷《ておい》なども出して、治世の|掟《おきて》を|紊《みだ》すばかりか、それが剣の道に益するところはいずれもない。百害あって一益なしです」 「なるほど、だが武蔵どの、みすみす負けと分っている|戦《いくさ》をするのは、兵法にないと思うが」 「ある場合もありましょう」 「ない! それでは兵法ではない、無法というものだ、滅茶だ」 「では、兵法にはないが、拙者の場合だけには、あるとしておこう」 「|外《はず》れている」 「……ハハハハ」  武蔵はもう答えない。  しかし、小次郎は|熄《や》まない。 「そんな兵法に|外《はず》れている|戦《いくさ》の仕方をなぜなさるのじゃ。なぜもっと、活路をお取りなさらぬのだ」 「活路は、今歩いている、この道こそ、拙者にとっては活路です」 「冥途の道でなくば、|倖《さいわ》いだが——」 「或はもう、今越えたのが三|途《ず》の川、今踏んでゆく道が一里塚、行くての丘は針の山かもしれません。——しかし、自分を生かす活路はこの一筋よりほかにあろうとも思われぬ」 「死神にとりつかれたようなことを仰っしゃる」 「なんであろうとよい。生きて死ぬる者もある。死んで生きる者もある」 「|不《ふ》|愍《びん》な……」  独り語のように小次郎が|嘲笑《あざわら》うと武蔵は、立ち止まって、 「小次郎どの——この街道は真っ直何処へ通じますな」 「花ノ木村から一乗寺|藪《やぶ》|之《の》|郷《ごう》——すなわち、貴所の死場所の下り松を経て——これから|叡《えい》|山《ざん》の|雲母《きらら》|坂《ざか》へ通っております。それゆえ、雲母坂道ともいう裏街道」 「下り松まで、|道《みち》|程《のり》は」 「ここからは、はや半里余り、ゆるゆる歩いて行かれても、時刻の余裕はまだ十分」 「では、後刻また」  武蔵がふいに、横道へ曲りかけると、 「ヤ、道がちがう。武蔵どの、そう行っては方角が違う」  あわてて小次郎は注意した。      五  武蔵はうなずいた。小次郎の注意に対して、素直にうなずいた。  しかし見ていると、曲った道をそのままなお歩いてゆく様子なので、小次郎はもいちど、 「道が違いますぞ」  声をかけると、 「はあ」  と、分っているような返辞。  並木のすぐ後ろで、窪地の傾斜に沿い、だんだん畑がある、|茅《かや》ぶき屋根が見える。その低い方へ武蔵は降りてゆくのである。雑木の隙間から後ろ姿が見える。——月を仰いでぽつねんと立っている姿がわかる。  小次郎は、独りで苦笑を頬に流しながら、 「……なんだ、小用か」  |呟《つぶや》いて、彼も月を仰ぐ。 「だいぶ西へ傾いて来たなあ。……この月がかくれる頃には、何人かの人命も消えてゆくのだ」  彼の好奇心は頻りといろいろな予想を描く。  武蔵がなぶり殺しにされることは、結局においては確実だが、あの男のことである、仆れるまでに何人の敵を斬るか。 「そこが見ものだ」  と、彼は思う。そして今からそれを予想してみるだけでも、ぞくぞくして来て、肌は総毛だち、血は全身を駆けて待ち遠しがる。 「滅多に|遭《あ》い|難《がた》いものにわしは遭った。蓮台寺野の折も、次の時も、実見できなかったが、今暁は見られる。……はてな、武蔵はまだか?」  ちょっと、低地の道を|覗《のぞ》いてみたが、まだ戻って来る影は見えない。小次郎は立っていてもつまらないので、木の根に腰をおろした。  そしてまた、|密《ひそ》かに空想を楽しんでいる—— 「あの落ちつき澄ましている様子では、まったく死を決しているらしいから、かなりなところまで戦うだろう。なるべく、斬って斬って斬りまくってくれたほうが見ごたえがあっていい。……だが、吉岡のほうでは飛道具の備えまでしているといったな。……飛道具でどんと一発やられてしまっては、万事終ってしまう。……はて、それでは面白くないぞ。そうだ。そのことだけは、武蔵に耳打ちしておいてやろう」  だいぶ待った。  夜霧が腰に冷たくなる。小次郎は身を起して、 「武蔵どの」  呼んでみたのである。  おかしいぞ? ——と今頃になって思ってみることが、彼自身にもとたんに不安と|焦《あせ》りを呼び起していた。——タタタタタと小次郎は低地へ降りて行った。 「武蔵どの」  崖下の農家は真っ暗な竹むらに囲まれていて、どこかで水車の音がするが、その流れさえよく見えない。 「しまったッ!」  水を飛んで、小次郎は向う側の崖の上へすぐ出てみた。人影らしいものは見あたらない。白河あたりの寺院の屋根、森、眠っている大文字山、如意ケ岳、一乗寺山、|叡《えい》|山《ざん》——広い大根畑。  それから月が一つ。 「しまったッ。卑怯者め」  小次郎は武蔵が逃げたなと直覚した。あの落ちつきすましていた様子もそのせいであったかと今にして思う。道理で余りいうことも出来過ぎていた。 「そうだ、早く」  小次郎は身を|翻《ひるがえ》して、元の道へ出た。そこにも、武蔵の影はない。彼の足は宙をとんで駈け出した。——勿論、一乗寺下り松へ真っ直に。     |木《こ》 |魂《だま》      一  ——遠く遠く、見ているまに駈け去って小さくなって行く佐々木小次郎の影を見送って、武蔵は思わずにたり[#「にたり」に傍点]と笑った。  たった今、その小次郎が立っていた所に、武蔵は立っているのである。なぜ、彼があんなにも捜したのに知れなかったのかを考えてみると、小次郎は居場所を捨てて他を捜したが、武蔵はかえってその小次郎のいたすぐ後ろの樹蔭に来ていたからであった。  ——しかし、なにしろまずこれでよかった。と武蔵は思う。  他人の死に興味をもち、他人が鮮血を賭けてする|生霊《しょうりょう》のやむなき大悲願事をふところ手で——後学のためとかなんとかいって——虫のよい傍観者に廻り、その上、双方へ恩着せがましく、いい子になっていようという横着者。 (その手は食わない)  武蔵は、おかしくなった。  頻りと敵の|侮《あなど》れぬことを告げ、こちらへ対して助太刀の有無を訊いたのは、そういったら武蔵が膝を屈して武士の情けに一|臂《ぴ》の力を貸してたまわらぬか——とでもいうかと思っていたかしらぬが、武蔵は、その言葉にも乗らなかった。 (生きよう。勝とう)  と思えば助太刀もほしくなるかも知れぬが、武蔵には、勝てる気もない、|明日《あした》の後まで、生きようとも思われない——いやありのままにいえばそんな自信はなかったという方が正しかろう。  ひそかに、彼がここへ来るまでのあいだに探り得たところでも、今暁の敵は百数十名にものぼるらしく察しられた。あらゆる方法のもとに、自分を害さずば|熄《や》まない状態にあることも|頷《うなず》けたのである。——なんで生きる工夫に|焦《あせ》ってみる余地があろう。  けれど武蔵は、その中でもかつて沢庵のいった—— (真に生命を愛する者こそ、真の勇者である)  という言葉を決して忘失してしまっているわけではない。 (この|生命《いのち》!)  そしてまた、 (二度と生れ難いこの人生!)  を、今も、ひし[#「ひし」に傍点]と五体のうちに|抱《いだ》きしめているのであった。  だが。  ——生命を愛する。  ということは、単に無為飽食を守っているということとはたいへんに意味が違う。だらだら長生きを考えるということではさらさらない。いかにしてこの二度と抱きしめることのできない生命との余儀なきわかれにも、そのいのちに意義あらしめるか——価値あらしめるか——捨てるまでも、|鏘然《しょうぜん》とこの世に意義ある生命の|光《こう》|芒《ぼう》を曳くか。  問題はそこにある。何千年何万年という悠久な|日《じつ》|月《げつ》の流れの中に人間一生の七十年や八十年は、まるで一瞬でしかない。たとえ|二《は》|十《た》|歳《ち》を|出《いで》ずに死んでも、人類の上に悠久な光を持った生命こそ、ほんとの長命というものであろう。またほんとに生命を愛したものというべきである。  人間のすべての事業は、創業の時が大事で難しいとされているが、生命だけは、終る時、捨てる時が最もむずかしい。——それによって、その全生涯が定まるし、また、|泡《ほう》|沫《まつ》になるか、永久の|光《こう》|芒《ぼう》になるか、生命の長短も決まるからである。  けれど、そういうふうな生命の愛しようも、町人にはおのずから町人の生命の持ち方があり、侍には侍の持ち方がある。武蔵の今の場合には、当然、さむらいの道に立っていかによくこの生命の捨て際を、侍らしくするかにあることはいうまでもない。      二  さて——  これから一乗寺|藪《やぶ》|之《の》|郷《ごう》下り松の目的地へ行こうとするならば、武蔵の前には、ここに三つの道筋があった。  その一つは今、佐々木小次郎の駈けて行った|雲母《きらら》越え|叡《えい》|山《ざん》|道《みち》。  これは最も近い。  そして一乗寺村までは、道も|坦《たん》|々《たん》としていて、まず本道といっていい。  すこし|迂回《まわり》にはなるが、田中の里から曲って高野川に沿い、大宮大原道をすすみ、修学院のほうへ出て下り松に至る——という道取りがその第二。  もう一つは、今、彼の立っている所から東へ真っ直に、志賀山越えの裏街道をとり、白河の上流から|瓜生《うりゅう》|山《やま》の|麓《ふもと》をあるいて、薬師堂の辺りからそこへ行き着くという道も選べる——  そのいずれから行くも、下り松の追分は、ちょうど谷川の合流点のような場所に当っているので、距離にしても、そう大差はない。  だがこれを——まさにこれから、そこに雲集している大軍にぶつかって行こうとする|寡《か》|兵《へい》にも似ている武蔵の身にとると——兵法からみると——大差がある。生涯のこと、ここの一歩から、分れ目を持つことになる。  ——道は三つ。  ——どう行こうか。  当然、武蔵はそこで慎重に考えそうなものであったが、ひらりとやがて身軽に動き出した彼の影には、そんな重苦しげな迷いの影は|従《つ》いていない。  ——ひら——ひら——ひらと|木《こ》の|間《ま》や小川や崖や畑を跳ぶように越えて、月の下を見えつ隠れつ足早に、行きたい方へ歩いている。  では、三道のうち、いずれを選んだかというと、彼の足は、一乗寺方面とは反対な方角へ向いていた。三つの道のいずれも選ばなかったのである。その辺はまだ里ではあったが、狭い小道を通ったり畑を横切ったりして、一体、どこを目ざして歩いて行くのかちょっと気が知れない。  なんのためか、わざわざ|神楽《かぐら》ケ|岡《おか》のすそを越え、後一条帝の|御陵《みささぎ》の裏へ出る——この辺、ふかい竹藪だった。竹の密林を抜けるともう|山《さん》|気《き》のある川が月光を|裂《さ》いて里へ走っている。——大文字山の北の肩が、もう彼の上へ、のしかかって来るように近かった。 「…………」  黙々と、武蔵は、山ふところの闇へ向って登ってゆく。  今、通って来た右側の樹立の奥に見えた|築《つい》|地《じ》と屋根が、東山|殿《どの》の銀閣寺であったらしい。ふと、|振《ふり》|顧《かえ》ると、そこの泉が|棗形《なつめがた》の鏡のように眼の下に見えたのである。  さらに、もう一息、山道を登ってゆくと、東山殿の泉は、余りに近すぎて足元の木蔭にかくれ、加茂川の白い|蜒《うね》りがずっと眼の下へ寄っている。  下京から上京まで、両手をひろげて抱えきれるような展望だった。ここからは、遥かに、 (一乗寺下り松はあの辺り——)  と、指さして、ほぼ遠く察することもできる。  大文字山、志賀山、瓜生山、一乗寺山——と三十六峰の中腹を横に這って叡山の方へすすめば、ここからそう時を|費《つい》やさずに、目的の一乗寺下り松のちょうど|真《ま》|後《うし》ろへ、山の上から望むこともできるのだった。  武蔵の考えは、その戦法は——もう|疾《と》くから胸に決まっていたものらしい。彼は|桶《おけ》|狭《はざ》|間《ま》の信長に思い合わせ、|鵯越《ひよどりご》えの故智に|倣《なら》って、あの当然に選ばなければならないはずの三道のいずれをも捨てて、まるで方角ちがいな、歩くにも難儀なこの山道の中腹まで登って来たに違いない。 「……やっ、お武家」  こんな所で人声は思いがけなかった。不意に、道の上から人の|跫《あし》|音《おと》がしたと思うと、彼の前に、|狩《かり》|衣《ぎぬ》の裾をくくり上げて、手に|松明《たいまつ》を持った公卿屋敷の奉公人らしい男が立って武蔵の顔を|燻《いぶ》すように、松明の火を突き出した。      三  |公卿侍《くげざむらい》の顔は、自分の持ち歩いている|松明《たいまつ》の油煙で、鼻の穴まで黒く|煤《すす》けてい、狩衣も夜露や泥でひどく汚れている。 「や? ……」  と、行き合った最初に、なにか驚いたような声を出したので、不審に思って、武蔵がじっとその顔を凝視すると、急に少し恐れを抱いたように、 「……あの、あなた様は」  と、ひどく低く頭を下げ、 「もしや、宮本武蔵殿と仰せられはいたしませぬか」  と、問う。  武蔵の眼が、ぎらっと松明の赤い光の中に光った。——当然な警戒だったのはいうまでもない。 「……宮本殿でございましょうな」  重ねて、その男は訊ねたが、|恐《こわ》いのだ、武蔵の黙っている|形相《ぎょうそう》の中には、人間のなかでは滅多にみつけないものがあったにきまっているから——そう訊きながらも、男の体は浮腰になっていた。 「誰だ? おん身は」 「はい」 「何者だ?」 「はい……烏丸家のものにござりますが」 「なに、烏丸家の……。わしは武蔵だが、烏丸家の御家来が、今頃、こんな山路へなにしに?」 「ア。……ではやはり宮本殿でござりますな」  いうと、その男は、後も見ずに山を駈け下ってしまった。|松明《たいまつ》の火が、赤い尾をひいて、見る間に、|麓《ふもと》へ沈んで行った。  武蔵は、なにかはっと思い当ったように、足を早め出して、山伝いに、志賀山街道を横切り、どこまでも山の腹を、横へ横へと、急いで行った。  ——一方。  |慌《あわ》て者の松明は、一目散に、銀閣寺のわきまで駈け降りて来た。  そして、片手を口にかざして、 「オオイ、|内蔵《くら》|殿《どの》、内蔵殿」  と、同僚の名を呼ばわっていると、その同僚とはちがうが、やはり烏丸家の内に、ここ永らく泊っている城太郎少年が、 「なんだアい——小父さん——」  と、二町も先の西方寺門前あたりから遠く返辞が聞えてくる。 「城太郎かあ——」 「そうだアい」 「はやく来ウいっ——」  すると、また遠くから、 「行かれないよーっ……。お通さんが、ここまでやっと来たけれど、もう歩けないッて、ここへ仆れちまったから、行かれないよーっ」  烏丸家の奉公人は、 (ちぇっ……)  舌打ちを洩らしたが、前よりも高い声を張りあげて、 「はやく来ないと、武蔵殿がもう遠くへ|去《い》ってしまうぞっ。——早く来いっ、たった今そこで、武蔵殿をわしが見つけた!」 「…………」  すると今度は、返辞がして来ないのである。  ——と思ううちに、|彼方《あなた》から二つの人影が、|縒《よ》れ合うように一つになって急いで来る。病人のお通を|援《たす》けて来る城太郎であった。 「おお」  |松明《たいまつ》を振って、男は早くと|急《せ》き立てて見せる。いたましや、そうでなくてさえ、|喘《あえ》ぎ喘ぎ駈けてくる病人の息は、遠くから聞えるほどだった。  近づくほどに、お通の顔は月よりも血の気がないものに見えた。痩せ細った手足に旅|装《よそお》いを着けているのがあまりにも無理に見える。しかし、松明のそばまで来ると、その頬は、急に紅くなっていた。 「ほ、ほんとですか。……今仰っしゃったのは」 「ほんとだとも、たった今だ」  と、力をこめて話し、 「はやく、追って行けば会える。はやく行け早く!」  城太郎は、まごまごして、 「どっちへさ、どっちへさ。ただ早く行けじゃ分らないじゃないか」  病人と|慌《あわ》て者のあいだに立って一人で|癇癪《かんしゃく》を起してしまう。      四  お通の体があれから急に|快《よ》くなっているという|理《わけ》はないから、お通がここまで歩いて来たのは、よくよく悲壮な覚悟でなければなるまい。  恐らく、いつぞやの晩、|館《やかた》の|病褥《びょうじょく》にはいってから、城太郎に詳しい話を聞き、 (武蔵様が死を決しておいでになるなら、わたしも|病《やまい》を養って、こうして生き長らえる|効《か》いもない)  といい出したことから始まり、やがてはまた、 (死ぬ前に一目でも)  という病人の一念になって、それまで|水手拭《みずてぬぐい》を当てていた頭の髪を結び、病褥にいたわっていた痩せた足に|草鞋《わらじ》をつけ、誰が止めようと意見しようと耳を|藉《か》さず、とうとう烏丸家の門から|蹌《よ》ろ|這《ば》い出たものではあるまいか。  さて、そうまでの一心を見ては、止めだてした烏丸家の人々も、 (捨てては|措《お》けぬし)  と、|能《あた》う限りこの病人の——ことによったらこの世の中の最後の望みになるかも知れぬ——希望を遂げさせてやりたいと、ともども、気を揉んだり騒いだりしたであろうことも想像がつく。  或は、光広卿の耳へも入って、この|儚《はかな》き恋愛の|末《まつ》|期《ご》に対して、よそながらお|館《やかた》の指図があったものかとも思われる。  とにかく、彼女の弱い足取りをもって、この銀閣寺下の仏眼寺の門前へかかるまでには、烏丸家の|御《お》|内《うち》|人《びと》たちが、およそ武蔵の影のさしそうな方角へは、八方に手分けをして、尋ね求めていたらしいのである。  果し合いの場所は一乗寺とだけ分って、広い一乗寺村のどの辺かは明白でない。それにまた、武蔵が果し合いの場所に立ってしまってからでは追いつかないことなので、捜す者も、おそらく一乗寺方面へ通う道には、皆一人か二人ずつ奔走して、足を|擂《すり》|粉《こ》|木《ぎ》にしていたものであろう。  しかしその|効《か》いはあって、武蔵は見つかったのであるから、後は、加勢の者の力よりは、お通の一心の如何によるほかはない。  たった今、|如《にょ》|意《い》ケ|岳《たけ》の中途から、志賀山越えを横切って、北の沢へ降りて行ったという——それだけを聞けば、彼女ももうその先まで、他人の力を頼ってはいなかった。 「だいじょうぶ? お通さん、だいじょうぶかい?」  側についてはらはらして行く城太郎とも口もきかない。  いや、きけないのである。  死を覚悟して、無理無体に歩ませてゆく|病躯《びょうく》であった。口は|渇《かわ》いてしまう。鼻腔はあらい|呼吸《いき》につかれる。そして蒼白な|額《ひたい》に、髪の根から冷たい汗さえながれていた。 「お通さん、この道だ、この道から横へ横へと、山の腹を縫ってゆけば、|自然《ひとりで》に|叡《えい》|山《ざん》の方へ出てしまう。……もう登りはないから楽だよ、どこか、少しそこらで休んだらどう?」 「…………」  お通は黙ってかぶりを振った。一本の杖の両端を二人して持ち合いながら——永い人生の艱苦をこの一|刻《とき》の道に|縮《ちぢ》めてしまうような|喘《あえ》ぎとたたかいながら、懸命に、およそ二十町余りも山ばかり歩いた。 「お師匠様アッ。……武蔵さまアッ……」  時折、城太郎が、ありッたけな声を絞って、行く手の方へ向って、こう呼んでくれるのが、お通にとってはなによりの力だった。  だが遂に、その力も尽きたように、お通は、 「城……城太さん」  なにか、いいかけたと思うと、彼の引っ張っていた杖の先を離して、沢の石ころや|草《くさ》|叢《むら》の中に、|蹌《よろ》りと、音もなく|俯《う》つ|伏《ぶ》してしまった。  削ったように細い両手の指が、口と鼻を抑えたまま、肩で戦慄しているので、 「ヤ! 血、血でも吐いたんじゃないか。……お通さん! ……お通さん……」  城太郎も泣き声出して、彼女の薄い胸を抱き起した。      五  かすかにお通は顔を横に振った。地に俯つ伏したままにである。 「どうしたの。どうしたのさ」  おろおろと、城太郎は彼女の背中を撫でていたわりながら、 「苦しいの」 「…………」 「そうだ、水かい、お通さん、水が欲しかないかね」 「…………」  お通はうなずいて見せた。 「待っといで!」  辺りを見まわして、城太郎は突っ立った。山と山の間のゆるい沢道である。水音は方々の草や木を|潜《くぐ》って、ここにある、ここにある、と彼に教えているように聞える。  だが、そう遠くまで駈けなくても、すぐ後ろに草の根や|石塊《いしころ》の下から湧いている泉がある。城太郎は|跼《しゃが》み込んで、両手に水を|掬《すく》おうとした。 「…………」  水はよくよく澄んでいて、|沢《さわ》|蟹《がに》の影も見えるくらいだった。月はもう傾いているので、この水には宿っていなかったが、鮮やかな月の雲は、空を仰いで|直《じ》かに見るよりも、水に映っている空のほうが一倍美しく見えた。  病人に|掬《すく》って持って行くよりも、城太郎はふと、自分が先に飲みたくなったのであろう、五、六歩位置を移して、今度は|水《み》|際《ぎわ》に膝をつき、|家鴨《あひる》のように水面へ首を伸ばしたが、 「……あッ?」  大きく叫んだまま、彼の眼はなにものかに吸いつけられ、|河童頭《かっぱあたま》の毛はそそけ立って、じーっと、|栗《くり》の|実《み》みたいに、五体をかたく|竦《すく》めてしまった。 「……?」  水の向う岸から五、六本の樹の影が、|縞《しま》|目《め》のように映っていた。その樹の端に人影が見えたのである。水に映っている武蔵の影を彼の眼は見たのである。 「…………」  びっくりしたことは勿論、びっくりしたに違いないが、水面に映っている武蔵の影だけでは、城太郎はまだほんとに——物の現実に向ってびっくりしたのではなかった。  ふいに、|物《もの》の|怪《け》の|悪戯《いたずら》が、思いつめている心の武蔵の影を|藉《か》りて、さっと、通り抜けて行ったような——そんな驚きであったのである。  |怖《こわ》|々《ごわ》と、彼はその驚きの眼を水面から向う側の木蔭へ上げてみた。こんどはほんとに仰天したのだった。  武蔵はそこに立っていた。 「おッ、お師匠様っ」  静かな水面の持っていた月雲の空は、とたんに真っ黒に乱れ濁ってしまった。水の|縁《ふち》を通って行けばよいのに、城太郎はいきなり飛び込んで水の中を駈け渡り、ばしゃばしゃッと顔まで濡らして武蔵の体へ飛びついて行ったのであった。 「いたっ、いたっ」  捕まえた者を引ったてるように、武蔵の手を、彼は夢中になって引っ張った。 「待て」  武蔵は顔をそ向けて、ふと|瞼《まぶた》に指を当てながら、 「あぶない、あぶない。すこし待て、城太郎」 「いやだっ、もう離さない」 「安心せい、おまえの声が遥かに聞えたから、待っていたのだ。わしよりも、早くお通さんに水を持って行ってやれ」 「ア、濁ってしまった」 「向うにもよい水が流れている。それ、これを持って行け」  腰の竹筒を渡してやると、城太郎はなに思ったか、手を引っ込めて、武蔵の顔をじっと見、 「お師匠様。……お師匠様の手で汲んで行っておやりよ」      六 「……そうか」  |吩咐《いいつ》けに従うように、武蔵は素直に|頷《うなず》いた。自分で竹筒に水を|掬《すく》い、お通の側へ持って行った。  そして彼女の|背《せな》を抱え、手ずから水を飲ませてやると、城太郎は傍らから、 「お通さん、武蔵様だよ、武蔵様だよ。……分る? 分る?」  と、ともどもいたわりを|籠《こ》めていう。  お通は|喉《のど》へ水を落すと、幾分か胸がらくになったように、ほっと気のついたように息をついた。しかし、体は武蔵の手に|凭《もた》れたままうっとりと|眸《ひとみ》はまだ遠くを見ていた。 「おいらじゃないんだぜ、お通さん、お通さんを抱いているのは、お師匠さまなんだよ」  城太郎がそう繰返すと、お通は遠くを見ている眸に、湯のような涙をいっぱいにたぎらせ、見るまに、その眼は、ぎやまん[#「ぎやまん」に傍点]玉の曇りにも似て、やがて頬を下るふたすじの白珠とはふりこぼれると、 (……分っています)  と、いうように|頷《うなず》いた。 「ああ、よかった」  城太郎は無性に|欣《うれ》しくなってしまい、わけもなく満足して、 「お通さん、これでいいだろ。もう、これで気がすんだろう。……お師匠様、お通さんね、あれから、どうしても、もいちど武蔵様に会うんだといって、病人のくせに、いうこと|肯《き》かないんだよ。こんなこと度々やると死んじまうにきまっているから、お師匠様からよくそういっておくれよ、おいらのいうことなんか|肯《き》かないんだもの」 「そうか」  武蔵は、彼女を|抱《かか》えたまま、 「みんなわしが悪いのだ。わしの悪いところも詫び、またお通さんの悪いところもよくいって、体を丈夫にするように今話すから……城太郎」 「なに?」 「おまえは、ちょっと……しばらくの間、どこかへ離れていてくれぬか」  城太郎は、そう聞くと、 「どうして?」  と、口を|尖《とが》らし、 「どうしてさ。どうしておいらがここにいちゃいけないの」  と、不平なようでもあり、不審にも考えるらしく、動こうとはしないのであった。  武蔵も、それにはふと困ったらしい様子に見えた。すると、お通が頼むように、 「城太郎さん……そんなこといわないで、ちょっと、あっちへ行っていてください。……ね、後生ですから」  武蔵には口を|尖《とが》らした城太郎もお通にそういわれると、理窟もなにもなくなって、 「じゃあ……おいら、仕方がないからこの上に登っているとすらあ。用が済んだら呼んでおくれ」  崖の|杣《そま》|道《みち》を見上げて、城太郎はがさがさと|攀《よ》じ登って行った。  ようやく、少し元気を回復したらしく、お通は起って、鹿のように登って行く城太郎の影を見送り、 「——城太さん、城太さん。そんなに遠くへ行かなくってもいいのですよ」  そういったが、聞えたのか聞えないのか、城太郎はもう返辞もしない。  お通もまた、なにも今、そんな心にもないことをいって、武蔵に背を向けている必要もなかろうに——やはり城太郎という者が一枚抜けて、二人きりになったと思うと、|遽《にわか》に胸がつまって、なにからいい出していいのか、急に自分の体が持て余されて来るのであろう。  |羞恥《はにか》みは、健康な時よりも、病んでいる場合のほうが、生理的にも、強いものかもしれない。      七  いや、|羞恥《しゅうち》は、お通ばかりではない。武蔵も横を向いていた。  一方は背を向けて|俯向《うつむ》き、一方は横を向いて空を仰いだまま……これが幾年も幾年も、会わんとしては会い難かった二人の、たまたま、許された一|瞬《とき》の寄り添いだった。 「…………」  どういおう。  武蔵にはその言葉が見つからない。  どんな言葉をもっていっても、自分の心を現わすには足りないからであった。  すさび吹く千年杉の真っ暗な一夜——あの夜明けからのことを、武蔵は瞬間に胸にえがくことができる。眼には見て来なかったが、それからの五年あまりの彼女の歩いて来た道を——また一途に通して来た清純な気持を——武蔵は決して受け取っていないのではない、感じていないわけではない。  |多《た》|岐《き》な、複雑な、彼女の生活と、身に燃え現わされた純愛の炎と、|唖《おし》のように無表情で、灰のように冷たく人には見せて来た自分の情熱の|埋火《うずみび》と——いずれが強くいずれが苦しかったかといえば、武蔵は独り心の|裡《うち》で、 (おれこそ)  と、いつも思う。今もまた、そう思うのだった。  ——だが、そういうわがことよりも|弥《いや》まして、このお通の|可憐《いじら》しく、そして|不《ふ》|愍《びん》でならないと思われるのは、男でさえ、片荷には重すぎる悩みを、女の身で、生活に|克《か》ちつつ、恋一つを生命として負い通して来た——その強さと|健《けな》|気《げ》さにある。 (もう……一|瞬《とき》の|間《ま》だ)  武蔵は、月の位置を見ている。自分の生きている間の時間を思わずにいられない。月はもう残月となっていた。いつのまにか、ずっと西に傾いて、光も白っぽく、夜明けはやがて近いのである。  その月と共に、死の山へ落ちてゆく寸前の自分である。今こそお通に向って、たった|一《ひと》|言《こと》でも、真実をいいたい。またそれがこの|女《ひと》に対して|酬《むく》ゆる最大な良心でもあるし——と武蔵は思う。  真実。  しかし、いえないのだった。  胸にはいっぱいに持っている真実が、その真実をいおうとするほど、口には出て来ないで、いたずらにただ、空を見、あらぬ方を見てしまう。 「…………」  同じように、お通もただ地を見つめて、地に涙をそそいでいるしかなかった。——ここへ来るまでには彼女の胸にも、七堂|伽《が》|藍《らん》も焼き包んでしまうような、恋以外には真理も神仏も利害もない、また、男の世界でいう意地も外聞もない——ただ恋のみの熱情があったのである。その熱情をもって武蔵をうごかし、その涙をもって二人きりで、浮世の外に住むことも出来ないことはないと信念していたのであった。  けれど——会ってみると、なにもいえない彼女だった。そんな|熾《し》|烈《れつ》な望みはおろか会わない間の辛さ、|世《せ》|路《ろ》にまよう身のかなしさ、武蔵の|情《つれ》ないこと——なに一つとしていえないのだった。胸先まで突き上げてくるそれらの感情を、ふと思い切っていおうとすれば、ただ唇が|顫《わなな》いてしまうだけで、よけいに胸はつまり涙は眼をふさいで、もし、武蔵もそこにいない桜月夜の下でもあるならば、わッ……と大声あげて、|嬰児《あかご》のように泣き|転《まろ》び、せめてこの世にいない母にでも訴える気もちで、心の済むまで、泣き明かしていたいと思うほどだった。 「…………」  どうしたものだろう。お通もいわず武蔵もいわず、こうしている間に時刻はいたずらに過ぎてしまう。  ——はや暁に近いせいか、間の抜けた|啼《な》き声をこぼして、帰る|雁《かり》が六、七羽、山の背を越えて行った。      八 「|雁《かり》が……」  武蔵はつぶやいた。この場合にそぐわない、取ってつけたような——と知りながら、 「お通さん、帰る雁が啼いてゆくなあ」  といった。  それを|機《しお》に、 「武蔵さま」  と、お通もいった。  |眸《ひとみ》と眸が、初めてお互いを見合った。秋や春には|雁《かり》の渡る|故郷《ふるさと》の山が二人の心に|憶《おも》い|出《だ》された。  あの頃は、単純だった。  お通がいつも仲よくしていたのは又八で、武蔵は乱暴だから嫌いだといっていた。武蔵が悪たれ[#「たれ」に傍点]をいうと、お通も負けないで|罵《ののし》った。——そうした幼い頃の七宝寺の山が|瞼《まぶた》に見える。吉野川の河原が憶い出される……  しかし、そんな追憶に|耽《ふけ》っていると、また、いたずらにこの二度とないこの世での尊い瞬間を、沈黙の|裡《うち》に過ごしてしまいそうなので、武蔵からやがてまたいった。 「お通さん。そなたは今、体が悪いということだが、体はどうだね?」 「なんでもありません」 「もう|快《よ》い方なのか」 「それよりも、あなたは、これから、一乗寺の|址《あと》とやらで、死ぬお覚悟でございましょう」 「……う、む」 「あなたが、斬り死にあそばしたら、わたくしも生きていないつもりです。そのせいか、体の悪いことなど、忘れたように、なんともございません」 「…………」  武蔵は、そういうお通の顔の冴えを見て、自分の覚悟のほどが、いまだこの一女性にすら及ばない心地がした。  今の肚をすえるまでには、さんざん生死の問題に苦悩したり、日常の修養だの、さむらいとしての鍛錬だのを積んで来て、やっとこの覚悟になり得るまでになって来たと思うのである。——だのに、女は、そういう鍛錬も苦悩も|経《へ》ずに、いきなりなんらの|惑《まど》いもなく、 (——わたくしも生きていないつもりです)  と、すずやかにいう。  武蔵が、じっとその眼を見ているに、彼女のことばが、決して一|瞬《とき》の興奮や嘘でないことはわかる。むしろ楽しんで自分の死に|従《つ》いて、共に死のうとしている気持すらかがやいている。どんな覚悟のよい侍でも及ばないほど静かな眸で死を見ているのである。  武蔵は|愧《は》じ、かつ疑った。 (どうして女は、こうなれるのであろうか)  同時に彼は当惑と、そして彼女の一生のために恐れて、自分までが乱れた。 「ばっ、ばかなっ!」  突然、彼は自分の口から吐いた自分の声に驚いた程、激越な感情の上に自分を乗せていっていた。 「わしの死には、意義があるのだ。剣に生きる人間が剣で死ぬのは本望であるばかりでなく、乱脈なさむらい道のために、進んで卑怯な敵を迎えて死ぬのだ。その後からそなたがともに死ぬ——その気持はうれしいが、それがなんの役に立とうか。虫のように哀れに生きて、虫のように|儚《はかな》く死んでどうするのか」  ——見ればお通はふたたび大地に伏して泣いている様子なので、武蔵は、自分のことばのあまりに激し過ぎていたのに気づき、膝を折って、声を落し、 「だが、お通さん。……考えてみると、わしは知らず|識《し》らず、そなたに嘘をついてきた。千年杉の時から、花田橋の時から、|欺《あざむ》く気持ではなくても、形はそうなって来てしまった。そして|酷《ひど》い冷たい|態《さま》を|装《よそお》って来た。わたしはもう一刻後には死ぬ身だ。お通さん、今いう言葉は嘘ではない。わしはそなたが好きだ。一日でも思わぬ日のなかったほど好きだった。……なにもかも捨ててともに暮して終りたいとどれほど思い悩んだかしれない。——そなた以上好きな、剣というものがなかったら」      九  ことばを休めて、 「お通さん!」  とさらに、ことばに力をこめ直して、武蔵はなおいった。  いつも無口で無表情な彼がめずらしく感情のなかに没し切って、 「鳥|将《まさ》に死なんとするやだ。将に死なんとしているこの武蔵だ。お通さん、わしの今いう言葉には|微《み》|塵《じん》、嘘も|衒《てら》いもないことを信じてくれ。——|羞恥《はじ》も|見《み》|得《え》もなくわしはいう。今日まで、お通さんのことを思うと、昼もうつつな日があった。夜も寝ぐるしくて熱い熱い夢ばかりに悩まされ、気の狂いそうな晩もあった。お寺に寝ても野に伏しても、お通さんの夢はつき|纏《まと》い、しまいには薄い|藁《わら》ぶとんをお通さんのつもりで抱きしめて歯がみをして夜を明かした晩すらある。それほどわしはお通さんに|囚《とら》われていた。無性にお通さんには恋していた。——けれど。——けれどそんな時でも人知れず剣を抜いて見ていると、狂おしい血も水のように澄んでしまい、お通さんの影も、霧のようにわしの脳裡から薄れてしまう……」 「…………」  お通はなにかいおうとした。|蔓《つる》|草《くさ》の白い花みたいに、|嗚《お》|咽《えつ》していた|面《おもて》をあげたが、武蔵の顔が、恐ろしいほど真面目な熱情に|硬《こわ》ばっているのを見ると、息づまって、再び地へ顔を打ち伏せてしまった。 「——そしてまた、わしは剣の道へ、身も心も打ち込んで行ったのだ。お通さん、この|境《さかい》が、武蔵の本心だった。つまり恋慕と精進の道のふた筋に足かけて、迷いに迷い、悩みに悩みながら、今日までどうやら剣の方へ身を|引《ひ》き|摺《ず》って来た武蔵だった。——だからわしは、誰より自分をよく知っている。わしは偉い男でも天才でもなんでもない。ただお通さんよりも、剣の方が少し好きなのだ。恋には死にきれないが、剣の道にはいつ死んでもいい気がするだけなのだ」  なにもかも正直に——少しの嘘もなく、武蔵は自分の本心を——心の奥底まで、今こそいってしまおうとするのであったが、いたずらに、言葉の美飾と、感情の|顫《ふる》えのみが勝ってしまって、まだまだ、正直にいいきれないものが、胸につかえているようでならなかった。 「だから、人は知らないが、お通さん、武蔵という男は、そんな男なのだ。もっと、露骨にいえば、そなたのことを考え出して、ふと|囚《とら》われているときは、五体も|焦《や》かれる気がするが、心が、剣の道に|醒《さ》めると、お通さんのことなんか、頭の隅へすぐ片づけてしまう。いや、心の隅にも失くなってしまう。この体、この心の、どこをさがしたって、お通さんの存在などは|芥《け》|子《し》|粒《つぶ》ほどでもなくなってしまうのだ。——また、その時が、武蔵はいちばん楽しくて生きがいのある男となって歩いていたのだ。——わかったろう、お通さん。そういうわしに向って、お通さんは、心も体もすべてを|賭《と》して、今日まで一人で苦しんで来ている。すまないと心では思っても、どうしようもない。……それが自分なのだから」  ——不意に、お通の細い手は、武蔵の逞しい|手《て》|頸《くび》を|掴《つか》んだ。  もう眼は泣いていなかった。 「……知ってます! そ、そんなことぐらい……そういう|貴方《あなた》であるぐらいなこと……し、しらないで……知らないで恋をしてはまいりませぬ」 「さすれば、わしがいうまでもなく、この武蔵と共に死のうなどという考えはつまらぬことと分っておろうが。わしという人間は、こうしているわずかな一|瞬《とき》こそ、なにも思わず、そなたに心も身も与えているが——一歩別れて、そなたの側を離れれば、そなたのことなど、おくれ毛一筋ほどにも心に懸けていない人間。——そういう男に|縋《すが》って男の死を追って、鈴虫のように死んではつまらぬことではないか。女には女の生きる道がある。女の生きがいはほかにもある。——お通さん、これがお別れのわしのことばだ。……では、もう時刻もないから——」  武蔵は、彼女の手をそっと|解《と》いて、立ち上がった。      十  解かれた手は、またすぐその|袂《たもと》を追って、 「武蔵様、待って」  と、かたく|縋《すが》った。  さっきから彼女にも、いいたいものが胸いっぱいに|閊《つか》えていた。  武蔵が、 (虫のように生きて、虫のように死ぬ女の恋には、死の意義がない)  といったことばや、 (一歩、おまえから離れれば、わしはおまえのことなど、頭の隅にも置いていない男だ)  といったような言葉にも、お通は決して、そんなふうに武蔵を見て、|穿《は》き違えた恋をしているのではないことをいいたかったが、なんとしても、 (もう二度と会えなくなるのだ)  と思うさし迫った感情に|克《か》てなかった。それ以外のなにもいえなかったと、理性することもできなかった。——で今、 「……待って」  といって、|袂《たもと》を引き留めたものの、やはりお通も、不可抗力なものでただ|纏《てん》|綿《めん》と泣くだけの女性をしか示すことが出来なかったのである。  しかし、いおうとすることのいえない——弱さの美しさ——単純なる複雑さ——に対して、武蔵も乱れずにいられなかった。彼の恐れている自分の性格の中の最も大きな弱点が、今、暴風のなかの根の弱い木みたいに揺すぶられていた。ともすればここまで持ち続けて来た「道への節操」も、地崩れのように、彼女の涙とともに泥になってなだ[#「なだ」に傍点]れてしまいそうな気持がする。その気持を彼は恐怖する。 「わかったか」  武蔵が、ただいう言葉のためにそういうと、 「わかりました」  お通は微かに—— 「けれど、わたくしはやはり、あなたがお死にになれば、後から死にます。男のあなたが、|欣《よろこ》んで死ぬる以上に、女のわたくしにも、死の意味が抱いて逝かれるのでございます。けっして虫のように——また一時の悲しみに溺れて死ぬのではございません。ですから、それだけはお通の心にまかせておいて下さいませ」  乱れずにいった。  そして、もう一言、 「あなたは、わたくしのような者でも、心のうちだけでも、妻としてゆるして下さいますでしょうね。もう、それだけでわたくしは、すべての望みが満ち足りました。……この気持、大きな歓び、それはわたくしだけの持っていられる幸福です。あなたはわたくしを、不幸にしたくないからと仰っしゃいましたが、わたくしは決して、不幸に敗れて死ぬのではございません。——わたくしを見る世の中の人達が、皆わたくしを不幸だといっても、わたくし自身は、ちっとも、そんな不幸ではないのでございます——むしろ、ああなんといっていいだろう、死の夜明けが、楽しみで待ち遠で、朝の小鳥の|音《ね》の中に死んで行く身が——花嫁のようにいそいそ待たれてなりません」  長くものをいうと、息が|喘《き》れるのであろう。彼女は自分の胸を抱きしめて、そして、夢みるように幸福な眼をあげた。  |残《のこ》んの月はまだ白々としていて少し樹々に霧は|立《た》ち|初《そ》めたが、夜明けにはまだ|間《ま》があった。  ——すると。  ふと彼女の眸を上げた崖の上の方で、 「キャーッ!」  突然、樹々の眠りをさまして|翔《か》ける|怪鳥《けちょう》のように、一声、女の鋭い悲鳴がつんざいた。  たしかに女の絶叫だった。  さっき城太郎が、その崖の道を上へ登って行ったはずではあるが、その城太郎の声では決してなかった。      十一  |凡《ただ》|事《ごと》とも思われない。  誰の叫びか。また、何事が起ったのか。  われを呼び|醒《さ》まされたように、お通は眼をやって、霧のかかっている峰の|頂《いただき》を仰いでいたが、その|機《しお》に武蔵は、つと彼女の側を離れ、 (おさらば)  ともいわず——|彼方《かなた》の死地へさして行く足を大股に急ぎかけていた。 「あっ、もう……」  お通が十歩追うと、武蔵も十歩駈けて、そして|振《ふり》|顧《かえ》った。 「お通さん、よく分った。——だが犬死をしてはならないぞ。不幸に追い詰められて、死の谷間へ|辷《すべ》り落ちて行くような、弱い死に方をしてはならないぞ。も一度その体を健康に戻してから、健康な心でよく考えてみるといい。わしだってこれから無駄に|生命《いのち》を捨てに急ぐわけじゃない。永遠の生をつかむために一時、死のかたちを取るだけのことだ。——わしのあとに|従《つ》いて死んでくれるよりは、お通さん! 生き残って永い眼で見ていてくれ、武蔵の体は土になっても、武蔵はきっと生きているから!」  いい続けた息のまま、武蔵はもう一言、 「いいか、お通さん! わしの後に|従《つ》いて来るつもりで、見当ちがいな方へ一人で行ってしまうなよ。わしの死んだという形を見て、武蔵を|冥《めい》|途《ど》に捜しても、武蔵は冥途には行っていない。武蔵がいるところは、百年後でも千年後でも、この国の人間の中だ、この国の剣の中だ。|他《ほか》にはいない」  いい捨てると、もう、お通の次のことばが届かない方まで、彼の姿は遠ざかっていた。 「…………」  茫然とお通は残っていた。遠く去ってゆく武蔵の影は、自分の胸から抜け出した自分自体であるような心地だった。——別れという悲しみは、二つのものの離散から生じる感情なので、お通の今の気持には、別れの悲しみというような、そんなべつべつな意識の悲しみは持てなかった。ただ、大きな生死の|濤《なみ》に持って行かれようとしている|彼《かの》|身《み》|此《この》|身《み》の、ひとつ魂にふと戦慄の眼をふさぐだけだった。  ——ざ、ざ、ざ、ざ  とその時、崖の上から、土ころ[#「ころ」に傍点]が彼女の足元まで崩れて来た。すると、その土音を追いかけるように、 「——わあっ」  と城太郎が、木や草を|掻《かき》|分《わ》けて飛び下りて来た。 「まあっ!」  お通でさえ、ぎょっとした。  なぜならば、城太郎少年は、奈良の観世の後家からもらった鬼女の|笑仮面《わらいめん》を、こんどは烏丸家へ帰らないものと思って大事にふところへ所持して出かけて来たらしく、見ると今、その|仮面《めん》を顔にかぶって、 「ああ、驚いた!」  と、ふいに眼の前へ立って、両手を挙げたからである。 「なんですっ? 城太さん」  お通が問うと、 「なんだか、おいらも知らないけど、お通さんにも聞えたろ。キャーッっていった女の声がさ」 「城太さんは、それをかぶって、どこにいたの」 「この崖をずっと登って行ったら、そこにもこのくらいな道があってね、その道のもっと上の方に、ちょうど坐りいい|巨《おお》きな岩があったから、そこに腰かけて、ぽかんと、お月様の落ちて行くのを見ていたのさ」 「それをかぶって?」 「うん、……なぜっていえば、そこいらでやたらに、狐が|啼《な》いたり、狸だか|狢《むじな》だか知れない奴がゴソゴソするから、|仮面《めん》をかぶって威張っていたら寄りつけまいと思ったからさ。——するとね、どこかでふいにキャーッという声がしたんだ。なんだろうあの声は。まるで針の山からきた|木《こ》|魂《だま》みたいな声だったぜ」     はぐれた|雁《かり》      一  東山から大文字の|麓《ふもと》あたりまではたしかに方角はついていたが、いつのまにか道を間違えていたとみえ、一乗寺村へ出るにはすこし山へ入り過ぎていた。 「これさ、なぜそうせかせか急ぐのじゃ。待たぬかよ。又八、又八」  先へ行く息子の足に遅れがちになると、お杉婆は、意地も我慢もなくなったように後から|喘《あえ》いでいう。  聞えよがしに、舌打ちして、 「なんだ口ほどもない。宿を立つ時、なんといっておれを叱りとばしたか」  待ってやらないわけにもゆかないので、又八はその度ごとに、足を止めて待ちはするが、こんな時とばかり、後からやっと追いついて来る|老母《はは》を頭からやりこめた。 「なにをそう不機嫌にわしへ当りちらすのじゃ、|汝《わ》が身のように、生みの親のいうことを、いちいち根に持って遺恨がましゅう当る者がどこにあろうぞ」  |皺《しわ》の中の汗を拭いて、ほっと一息休もうとすると、又八の若い足は、立っている方が辛いので、もう直ぐ先へ歩き出すのだった。 「これ待たぬか。少し休んで行こうぞよ」 「よく休むなあ、夜が明けてしまうぜ」 「なんの、まだ朝までにはだいぶある。常ならば、これしきの山道、苦にもせぬが、この二、三日は|風邪《かぜ》気味か体が|気懈《けだる》うて歩くと息が|喘《き》れてならぬ。悪い折にぶつかったものよ」 「まだ負け惜しみをいってるぜ。だから途中で、居酒屋をたたき起して、人が折角親切に休ませてやろうとすれば、そんな時には、自分が飲みたくねえものだから、やれ時刻が遅れるの、さア出かけようのと、おれがおちおちと酒も飲まねえうちに立ってしまうしよ。いくら親でも、おふくろぐれえ|交際《つきあ》い|難《にく》い人間はねえぜ」 「ははあ、ではあの居酒屋で、|汝《わ》が身に酒を飲ませなかったというて、それを、まだ怒っていやるのか」 「いいよ、もう」 「わがままも程にしたがよい、大事をひかえて行く途中だぞよ」 「といったところでなにもおれたち|母子《おやこ》が|刃《やいば》の中へ飛びこむわけじゃなし、勝負のついた後で吉岡方のものに頼み、武蔵の死骸へ一太刀恨んで、手出しのできない死骸から、髪の毛でも貰って|故郷《くに》の|土産《みやげ》にしようというだけのものじゃねえか、大事も大変もあるものか」 「ままよいわ、ここで|汝《わ》が身と、|母子《おやこ》喧嘩をしてみても始まるまいでの」  歩き出すと——又八はぶつぶつ独り|語《ごと》に、 「ああ、ばかばかしいな。他人の殺した死骸から|証《あかし》を貰って、これでめでたく本懐を達してございと|故郷《くに》へ帰って披露する。故郷の奴らは、どうせあの山国、|他《ほか》へ出たことのない人間ばかり、本気になって|目《め》|出《で》|度《た》がることだろうが……嫌だなあ、またあの山国で暮すのは、考え出してもぶるぶるだ」  |灘《なだ》の酒だの都の女だの、又八の知った都会生活のあらゆるものが彼に未練をささやいてやまなかった。まして彼にはまだそれ以上の執着がこの都会にある。あわよくば、武蔵の歩いた道以外の道を見つけ、とんとん拍子に立身して、まだ不足な物質の世界の体験にその身を飽満させて、人間の生れがいをそこに自覚してみたいという——彼らしい希望さえまだ決して捨ててはいない。 (ああ嫌だ。ここから見てさえ町中が恋しい)  いつの間にやらまた、お杉婆はだいぶ後に取り残されていた。宿を立つ前から体が|懈《だる》い懈いといっていたが、まったく幾らか体の調子が悪いのかも知れない。とうとう|我《が》を折ったように、 「又八、少し負うてくれぬか。後生だによって、少し負うてくれい」  といった。  又八は、顔を|顰《しか》めた。  |面《つら》を|膨《ふく》らませたまま、返辞もせずに待っていたのである。すると、お杉婆も彼もぎょっとしたように耳を|欹《そばだ》てた。——先に城太郎も驚き、お通も聞いた、あの針の山の悲鳴に似た女の叫びを、この|母子《おやこ》も聞いたのであった。      二  どこともわからない、たった一声したきりの悲鳴だった。次の悲鳴がしたら声の方角も的確に知れよう。——それを待つもののように、又八も婆も、じっと|空虚《うつろ》な顔して、疑惑の中に立ちすくんでいた。 「……あっ?」  突然、お杉婆がこういったのは、その不審な悲鳴がまた聞えたのではなく、なに思ったか、又八が不意に、崖の角につかまって、そこから谷へ降りて行こうとする様子を見たからであった。 「ど、どこへ行くのじゃ」  あわてて、|咎《とが》めると、 「この下の沢だ」  もう崖道へ身を沈めかけながら又八がいう。 「おふくろ、ちょっと、そこに待っていてくれ。——見て来るから」 「|阿《あ》|呆《ほう》」  お杉婆は、つい、いつもの口癖を出して、 「なにを捜しに行くのじゃ、なにを? ……」 「なにをッて、今、聞えたじゃねえか、女の悲鳴が」 「そんなもの尋ねてどうする気かよ。——あれっ、阿呆、|止《や》めいというに、止めいというに」  上から婆が|喚《おめ》いているまに、又八は耳もかさず、木の根にすがりながら深い沢へ降りてしまった。 「ばっ、ばか者っ」  と月へ|罵《ののし》っている老母のすがたを、又八は深い沢の底から、|木《こ》の|間《ま》越しに見上げていた。 「——待ってろようっ、そこで」  下から呶鳴ったが、その声がお杉には届いて行かないほど、彼の降りて来た崖は深かった。 「はてな?」  又八はすこし後悔した。たしかにさっきの悲鳴はこの沢の辺りのように思われたが、もし違っていると、無駄骨を折ることになる。  ——しかし月の光も届かないほどなこの沢も、よく眼を働かしてみると小道がある。山といっても元よりこの辺りの山なのでそう深かろうはずはない。それに京都から志賀の坂本や大津へ通う近道でもあるので、どこへ降りても|市《いち》|人《びと》の踏んだ足の|痕《あと》が必ずついている。  さらさらと小さな滝や瀬になって落ちてゆく水に|従《つ》いて、又八は歩いて行った。すると、その流れを横断して左右の山の中腹へわたっている一筋の道があった。彼が発見したのは、ちょうどその道筋にあたっている渓流の側であった。  |石魚《いわな》突きの寝泊りする石魚小屋かも知れない。ほんの人間ひとり入れるぐらいなほッ建小屋がそこにある。——その小屋の後ろに|這《は》い|屈《かが》まっている人間の白い顔と手とをちらと見たのである。 「……女だ?」  又八は、岩の蔭にかくれた。さっきの悲鳴も、女のであればこそ彼は猟奇な興奮に駆られたのである。男の声であったら最初からこんな沢へ降りては来ないだろう。——それが今、その正体を|窺《うかが》ってみると、確かに女で、しかも若いらしい。  ——何をしているのか?  と最初は疑っていたが、見ていると、疑いはすぐ解けた。女は、流れのそばへ這い寄って、白い|掌《て》に水を|掬《すく》って、|唇《くち》へ移しているのであった。      三  びくっと、女は鋭感に|振《ふ》り|顧《かえ》った。又八の|跫《あし》|音《おと》を、昆虫のように体で感じて、すぐ|起《た》ちかけそうな眼であった。 「——おやっ?」  又八が、声を放つと、 「あっ?」  女も同じように驚いていった。しかしそれは、恐怖から救われたような声だった。 「|朱《あけ》|実《み》じゃねえか」 「……あ、あ」  そこの谷川で飲んだ水が、やっと今、胸へ下がったように、朱実は大きく息をついた。  けれどまだ何処かおどおどしているその肩をつかまえて、 「どうしたんだ朱実」  又八は、彼女の脚から顔を見上げて、 「おめえも、旅支度だな、旅へ立つにしても、こんな所を今頃——なにしに歩いているのだ」 「又八さん。あなたのおっ母さんは?」 「おふくろか、おふくろは、この谷間の上に待たせてある」 「怒っていたでしょう」 「あ、路銀のことか」 「わたしは急に、旅立ちしなければならなくなったのです。けれど、|旅籠《はたご》の借銭も払えないし、路用のお金もないので、悪いことと知りながら、おばばさんの荷物と一緒にあった紙入れを、つい出来心で、黙って、持って来てしまった。……又八さん、堪忍してください。そして、わたしを見逃して下さい。きっと後で返しますから」  さめざめと泣き声の裡に、朱実が謝るのを、又八はむしろ意外な顔して、 「おい、おい。なにをそう謝るのだ。……アア分った。俺とおふくろが二人して、おめえを捕まえるために、ここへ追いかけて来たと勘違いしているんじゃねえか」 「でも、わたしは、出来心にしろ|他人《ひと》様のお金を|盗《と》って逃げたんですから、捕まれば、泥棒といわれても仕方がありませんもの」 「それやあ、俺のおふくろの云い草だ。俺にとれば、あれぐらいな金、おめえが真実困っているならこっちからやりたいくらいだ。なんとも思っちゃいねえから、そんな心配はしないがいい。——それよりはなんのために、急に旅支度して、こんな所を今頃歩いているのか」 「|旅籠《はたご》の離れで、あなたがおっ母さんに話していたことを、ふと、蔭で聞いていたものですから」 「フーム、すると、武蔵と吉岡勢との、きょうの果し合いの一件だな」 「……ええ」 「それで急に、一乗寺村へ行くつもりでやって来たのか」 「…………」  朱実は答えなかった。  一つ家に暮していた頃から、朱実が胸に|秘《かく》していたものは何か、それは又八もよく知っていた。——で彼は、深くは問わずに、 「そうそう」  急に言葉を変えて、 「今し方、この辺で、キャーッという悲鳴が聞えたが、あれはもしや、おめえの声ではなかったか」  と、この沢へ降りて来た目的に返って、そう訊くと、 「エ。わたしでした」  朱実はうなずいた。  そしてまだなにか、恐怖の夢でも見ているように、この沢の|窪《くぼ》から|突《とっ》|兀《こつ》と空に黒く見えている山の肩を振り仰いだ。      四  そこでその事実を、彼女自身が話すところによると、こうである。  ——つい今し方のこと。  彼女が、この沢の渓流を越え、そしてここからも見える眼の前の——|突《とっ》|兀《こつ》とした岩山の中腹までかかって行くと、ちょうどその山肌の|肋骨《あばら》の辺りになる岩頭に、世にも怖ろしい妖怪が腰かけていて、月を眺めていたというのである。  真面目には聞かれない話のようだが、朱実は真面目になって、 「遠くから見たんですけれど、体は|侏儒《こびと》みたいに小さいくせに、顔はといえば、大人並の女なのです。そして顔は、白いのを通り越して何ともいえない色を帯び、|唇《くち》は耳までキュッと裂けていて、しかも、私の方を見て、ニヤリと笑ったような気がしたんです。——思わずその時、私はキャッと叫んでしまったものでしょう。無我夢中でした。気がついた時は、この沢に|辷《すべ》り落ちていたんです」  と、いう。  いかにも|恐《こわ》かったように、朱実がそう話すので、又八は、笑うまいとしながらもつい、 「ハハハハ。なアんだ」  と、|揶《や》|揄《ゆ》して、 「伊吹山のふもとで育ったおめえが、恐いなんていうと、化け物のほうで顔負けするだろう。|燐《りん》の燃えている|戦場《いくさば》を歩いて、死骸の太刀や|鎧《よろい》を|剥《は》いだことさえあるじゃねえか」 「でも、あの頃は、恐いこともなにも知らなかった子供ですもの」 「まんざら子供でもなかったらしいぜ。その頃のことを、いまだに胸に想って、忘れ切れずにいるのを見ても」 「それやあ、初めて知った恋ですもの。……だけどもう、私はあの人を、|諦《あきら》めてはいるんですよ」 「じゃあなぜ、一乗寺村へなど出かけて行くのか」 「そこの気持が自分にも分らないんです。ただ、ひょっとしたら武蔵様に会えやしないかと思って」 「無駄なこった」  ひどくそこで、又八は言葉に力をこめ、万に一つも勝目のない武蔵の立場と、相手方の情勢とをいって聞かせた。  すでに清十郎から小次郎と——幾人かの男性を通って、|処《しょ》|女《じょ》であったきのうの自分が、もう思い出のものになっている彼女には、武蔵を考えたり想ったりすることも、もう|処女《おとめ》であった頃のように、未来の花を夢想して考えることはできなくなっていた。肉体的にその資格を失った自分を冷たく|諦《てい》|観《かん》して、死にはぐれ、生きはぐれながら、次の道をさがしている迷える|雁《かり》の一羽に似ていた。  だから彼女は、又八から、武蔵が今刻々、死の危機へ近づいている様子を|如《にょ》|実《じつ》に聞いても、泣くほどな気持にはなって来なかった。——ではなぜ、こんなところまで、恋々と|彷徨《さまよ》ってきたかと訊かれれば、その|矛盾《むじゅん》も説明することのできない彼女であった。 「…………」  行くての方角を失ったような眸をして、朱実は、又八のことばを、夢うつつに聞いていた。又八は、その横顔を黙って見ていた。——なにかしら彼女の|彷徨《さまよ》っている所と、自分の彷徨っている所とが、似ているように思われてならない。 (この女は道づれを捜している——)  そう見える白い横顔だった。  又八は、ふいに、彼女の肩を抱えた。そして顔を押しつけるようにして、 「朱実。江戸へ逃げないか……」  と、|囁《ささや》いた。      五  朱実は、息をのんだ。  疑うように、又八の眼をじっと見つめ、 「え。……江戸へ?」  ふと、自分に返って、現実の境遇を見直すように反問した。  彼女の肩へ廻している手に、又八はそっと力をこめて、 「なにも江戸表とは限らないが、人の噂に聞けば、関東の江戸表こそこれからの日本の|覇《は》|府《ふ》になるだろうという話だ。今までの大坂や京都はもう古い都とされ、新幕府の江戸城を|繞《めぐ》って、新しい町がどしどし建っているそうだ。——そういう土地へ行って逸早く割り込めばきっとなにかうまい仕事があるだろう。おめえも俺も、いわば群れからはぐれた迷い|雁《がり》だ。……行かないか。……行ってみないか。……え、朱実」  囁かれている彼女の顔がだんだん熱心に聞いていた。又八はなお口を極めて、世の中の広さや、自分たちの若い|生命《いのち》を|称《たた》えて、 「面白く暮すんだ、したいことをして送るんだ。それでなけれや生れた甲斐はない。もっと俺たちは図太い肚を持とうじゃねえか。線の太い世渡りをしなけりゃあ嘘だ。|生《なま》|半《はん》|可《か》、正直に、善良にと、量見を良くしようとするほど、却って運命ッて奴は、人を|弄《なぶ》ったり皮肉ったり、ベソを掻くようなことばかり仕向けて来やがって、|碌《ろく》な道は|拓《ひら》けて来やしねえ。……え、朱実、おめえだってそうじゃねえか。お甲っていう女にしろ、清十郎という男にしろ、そんな者の|餌《え》になって、食われているから悪いのだ。食う人間にならなけれやあ、この世は強く生きちゃ行かれねえぜ」 「…………」  朱実は心を動かされた。よもぎの寮という家から離れ離れに世間へ巣立って、自分はその世間に|虐《さいな》まれて来ただけであるが、さすがに又八は男だけあって、以前よりもどこか|慥《しっか》りしたところが人間に出来てきたように思われた。  けれど、彼女の頭のどこかに、まだ捨て難い幻影がちらちらしていた、それは武蔵の影であった。焼けた家の焼け跡へ行って灰でも眺めてみたいとする——愚かな執着にそれは似ていた。 「嫌か」 「…………」  黙って、朱実はかぶりを振った。 「じゃあ、行こう。嫌でなければ——」 「だけど、又八さん、おっ母さんは、どうするつもり?」 「ア。おふくろか」  又八は、|彼方《あなた》を見上げて、 「おふくろは、武蔵の|遺物《かたみ》さえ手に入れれば、一人で|故郷《くに》へ帰って行くさ。あのまま|姥《うば》|捨《すて》|山《やま》のようなところに置き去りを食ったと知ったら、一時はかんかんに怒るだろうが、なあに今に俺が出世してやればそれで埋め合せはつく。——そうきまったら、急ごうぜ」  意気込んで、先へ歩いて見せると、朱実はまだなにか|躊躇《ためら》って、 「又八さん、ほかの道を行きましょう、その道は」  と、|竦《すく》んでいう。 「なぜ」 「でも、その道を登って行くとまた、あの山の肩に」 「アハハハ。口が耳まで裂けている|侏儒《こびと》が出るというのか。俺がついているから大丈夫だ。……アッいけねえ。お婆の奴が|彼方《むこう》で呼んでやがる。|侏儒《こびと》の|妖怪《ばけもの》よりゃあ、おふくろの方がよっぽど怖いぞ。朱実、見つかると大変だ、早く来いっ」  ——駈け上がって行く二つの影が岩山の中腹ふかく隠れ去った頃、待ちくたびれたお杉婆の声が谷間の上で、 「せがれようっ……又八ようっ……」  空しく|彷徨《さまよ》い歩いていた。     |生死一路《しょうしいちろ》      一  チチ、チチ、チチ……  |畷《なわて》の|大《おお》|藪《やぶ》に風が立ちそめて来た。風につれて、|小禽《ことり》が立つ。しかしまだその鳥影も見えぬほど朝は暗いのである。  前に|懲《こ》りているので、佐々木小次郎は、 「わしだぞ。立会人の小次郎なるぞ」  こう断りながら、大息を|喘《き》って、|雲母《きらら》|越《ご》えの十町|畷《なわて》を魔のように駈け、|下《さが》り|松《まつ》の辻までやがて来た。  跫音に、 「や、小次郎殿か」  四方に|潜《ひそ》んでいた吉岡勢は、まったく|痺《しび》れの切れたような顔をして、彼の周囲をすぐ真っ黒に取り囲んだ。 「まだ見えませぬかの、武蔵|奴《め》は——」  |壬《み》|生《ぶ》の源左老人の問いに、 「いや、出会った」  と、小次郎は語尾を上げ、その言葉に衝かれ、さっと自分へあつまる視線のひらめきを冷たく見廻しつつ、 「出会ったが、武蔵の奴、どう思ったか、高野川から五、六町ほど連れ立って歩くうちに、不意に姿を消してしもうたのです」  いいも終らず、 「さては、逃げたなっ」  これは御池十郎左衛門だった。 「いや!」  と、その|動揺《どよ》めきを抑えて、小次郎はいいつづけるのだった。 「落着き澄ました彼の|容《よう》|子《す》、また、わしにいった言葉のふしや、その他を考え合せてみるに、姿は消したが、どうも、あのまま逃げ去ったものとも考えられぬ。——思うに、この小次郎に知られては具合のわるい奇策を用いるため、わしを|撒《ま》いたものと思われる。油断は決してなりませぬぞ」 「奇策。——奇策とは?」  無数の顔が、彼を囲んで、彼の一言半句も聞き洩らすまいとするように|犇《ひし》めいた。 「おおかた武蔵の助太刀のものたちが、どこかに|屯《たむろ》していて、彼を待ち合せ、それと合してここへ|襲《よ》せて来るつもりではないかと思う」 「ウウウム。……それはありそうなことじゃ」  源左老人が|呻《うめ》くと、 「しからば、ここへ来るのも、もう間はないな」  十郎左衛門は、そういうと、持ち場を離れたり、樹の上から降りて集まって来た味方へ、 「戻れ戻れ。備えを崩しているところへ、武蔵方が不意に虚を衝いて来ようものなら、出鼻に不覚を取ってしまう。どれほどの助太刀を|率《ひ》き|具《ぐ》して参るかはしらぬが、いずれ|多《た》|寡《か》の知れたもの。手筈を|過《あやま》たず討ち取ってしまえ」 「そうだ」  めいめいも、気づいて、 「待ちくたびれて、心に|弛《ゆる》みの起る時が油断だ」 「部署につけ」 「おう、抜かるな」  いい交わしながらばらばらと分れて、再び、藪の中や樹蔭や、また、飛道具を携えて|梢《こずえ》の上へ影をかくした。  小次郎はふと、下り松の根方に、|藁《わら》人形のように立っている源次郎少年を見て、 「眠いか」  と訊いた。  源次郎は強く、 「ううん」  首で否定して見せた。  その|頭《つむり》を撫でてやりながら小次郎は、 「では寒いのか、唇の色が紫いろしているではないか。|其《そこ》|許《もと》は吉岡方の名目人で、つまりきょうの果し合いの総大将だからの、|確乎《しっかり》していなければいかんぞ。もうすこしの辛抱、も少し経つと、面白いものが見られるからな。……どれ、わしもどこか地の利のよいところで」  と、いい捨ててそこを立ち去った。      二  ——一方、思い合せると、ちょうどその時刻。  志賀山と|瓜生《うりゅう》|山《やま》の|間《あい》ノ|沢《さわ》あたりで、お通から別れ去った宮本武蔵は、 (ちと遅くなった!)  と、その遅刻した差を取り戻そうとするかのように、急に脚を早め出していた。  下り松での出会は、|寅《とら》の下刻と約してある。この頃の日の出はおよそ|卯《う》の刻過ぎであるからまだ暗いうちなのだ。場所が|叡《えい》|山《ざん》|道《みち》で三道の辻に当っているし、夜が白めば、当然往来人もあるからその点なども時間に考慮されていることはいうまでもない。 (お、北山|御《ご》|房《ぼう》の屋根だな)  武蔵は、脚を止めた。そして自分の今踏んでいる山道のすぐ真下に見える|伽《が》|藍《らん》をのぞいて、 (近い!)  と感じた。  そこから下り松の辻まではもう七、八町しかない。北野の裏町から歩き出した距離も遂にここまでちぢまった。この間に月も彼とともに歩いていた。山の端にかくれたのか朝の月影はもう見えなかった。——しかし、三十六峰の|懐《ふところ》に重たく眠り臥している白雲の群れが、|遽《にわか》に、|漠《ばく》|々《ばく》と活動を起して|天《そら》に上昇しはじめたのを見ても、天地は|寂《じゃく》とした|暁闇《ぎょうあん》のうちにすでに「偉大なる日課」へかかっていることが分る。  その偉大なる日課のまっ先に、もう幾つか呼吸する間に、自分の死が、一片の雲よりも淡く、その気象の中から消されてゆくのか——と武蔵は雲を仰いで思う。  雲の抱く|巨《おお》きな万象の上から見れば、一匹の蝶の死も一個の人間の死も、なんらの変りもないほどなものでしかない。——けれど人類の持つ天地から|観《み》れば、一個の死は、人類全体の生に|関《かかわ》ってゆくのだ。人類の永遠な生に対して、よい暗示か、悪い暗示かを、地上へ描いてゆくことになる。 (よく死のう!)  と、武蔵はここまで来た。 (いかによく死ぬか?)  に彼の最大の最後の目的はあるのだった。  ——ふと水音が耳につく。  一気に、ここまで脚を早めて来たので、彼は|渇《かわ》きを思い出した。岩の根へ|屈《かが》んで水をすすった。水のうまさが舌に|滲《し》みる。彼は自分で、 (おれの精神は|紊《みだ》れてない)  ということをそれでも知った。そして直前の死そのものへ対して、少しも卑屈を感じない自己をすずやかに思った。今こそ、自分の|胆《たん》は|踵《かかと》にこもっているという感。  ——だが、足を止めて、一息つくとすぐ、なにかしら後ろで自分を呼ぶものがあった。お通の声である。また、城太郎の声である。 (元より気のせいだ)  そう彼は知っている。 (取り乱して、後を追って来るような女ではない。わかり過ぎるほど、自分の心もわかっている女だけに——)  ということも彼は知っている。  けれどそのお通が後ろから声をふり絞って来るような気持が、なんとしても頭から払えなかった。  ここまで駈けて来る間にも、ともすると振向いてみた。今も、足を止めるとすぐ、意識のうちに、 (もしや?)  と、耳はそれへ傾いてしまう。  時刻に遅れることは、約束を|違《たが》えたといわれるのみでなく、彼として、戦う上に損である。無数の敵の中へ、単騎で斬り入るには、ちょうど月も落ち、夜もまだ明けきらないという、暁闇の一瞬こそ彼にとって利がある。勿論、武蔵もその考えで脚を急いで来たのであるが、また一つには、うしろ髪を引くようなお通のあらぬ声や姿を、心から振り捨てるためにも、ここまで眼をつぶるような気持で急いで来たものであろう。      三  外敵はこれを粉砕するも|易《やす》し、心の敵は|敗《やぶ》るよしなし。——武蔵はふとこの言葉に思い当って、 (くそっ、こんなことで)  と、心に|鞭《むち》を加え、 (|女《め》|々《め》しい!)  お通のことなど、|塵《ちり》ほども胸に止めまいとした。  さっき|袂《たもと》を振り切る時、そのお通に向っても、いったばかりではないかと恥じる。 (男が男の使命に向って、挺身する時は、恋など、頭の隅にもおいていないのだ——)と。  そういいつつ今、果たして自分の頭の中から、お通のことは捨て切っているのだろうか? (なんたる未練だっ)  心の中から、お通の幻影を蹴とばして、そしてそれから|遁《のが》れ去るように、彼はまた、|驀《まっ》しぐらに駈けていた。  ——と、眼の下の大竹藪からさらにずっと山裾へかけて|展《ひら》けている樹林や畑や|畷《なわて》を縫って、一筋の白い道が見えた。 「おっ!」  すでに近い。——一乗寺|下《さが》り|松《まつ》の辻は近い。その一筋の道を眼で|辿《たど》ってゆくと、およそ二町ほど先の所で、|他《ほか》の二筋の道と結び合っている。乳いろの霧の微粒が静かにうごいてゆく空に、|傘《かさ》|枝《えだ》を高くひろげた目印の松が、もう武蔵の目にも見えたのである。  ——はっと、彼は地へ膝をついた。|背《うしろ》にも、前にも、いやこの山の樹木すら、すべて敵かのように、彼の五体は闘志のかたまりとなった。  岩の蔭、樹の蔭と、|蜥蜴《とかげ》のように|素迅《すばしこ》く身を移しつつ、下り松の真上に当る高地まで来たのであった。 (ウム、いるな!)  そこからはさらに近々と、辻にかたまっている人影までが|幽《かす》かに読まれた。ちょうど松の根元を中心にして、十人ほどの|一塊《ひとかたま》りが、霧の下にじっと槍を立てている——  どうっ——と|山《さん》|巓《てん》からふき|颪《おろ》してくる暁闇の大気が、武蔵のからだへ雨かとばかり|雫《しずく》を落し、松のこずえや大竹藪を|潮《しお》|騒《さい》のように山裾へ|翔《か》けてゆく。  霧の下り松は、その傘枝を震わせて、なにか予感を、天地へ告げているようだった。  眼に見えた敵の数はわずかであるが、武蔵は、満山満地がみな敵の居場所に感じられた。すでに死界の中に来ている肌心地だった。手の甲まで鳥肌になっていた。呼吸はおそろしく深く静かに、足の指の爪までがもう戦闘しているのである。ジリジリと、一歩一歩にすすむ足の指が、|掌《て》の指にも劣らない力で、岩の間を|攀《よ》じ登っていた。  ——すぐ眼の前に、古い|砦《とりで》の|址《あと》ででもあるような石垣があった。彼は岩山の腹を伝わって、その小高い地域へ出た。  見ると、麓の下り松のほうへむかって、石の鳥居がある。周囲は喬木と防風林でかこまれていた。 「オ。……お|社《やしろ》だ」  彼は、拝殿の前へ駈けて行くなりそこへひざまずいた。何神社とも思わず無意識にべたと両手をついていた。折も折、心魂のおののきを彼も禁じ得なかった。——真っ暗な拝殿のうちに、一|穂《すい》の|御《み》|明《あか》しは消えなんとしながら消えもせず、颯々と風の中にゆらいでいた。 「——八大神社」  彼は、拝殿の額を仰いで、大きな力を味方にもったような気がした。 「そうだ!」  ここから真下の敵へ|逆《さか》|落《おと》しに斬り入ってゆく自分の|背《うしろ》には神があるとする強味——神こそはいつも正しきものに味方し給うものという強味——むかし信長が|桶《おけ》|狭《はざ》|間《ま》へ駈けてゆく途中でも熱田の宮へぬかずいたことなども思い合わされて、なんとなく|欣《うれ》しい|吉《きち》|瑞《ずい》!  彼は、|御《み》|手洗《たらし》の水で|口《くち》|漱《すす》いだ。さらにもう|一杓子《ひとしゃくし》含んで、刀の柄糸へきり[#「きり」に傍点]を吹き、わらじの|緒《お》にもきり[#「きり」に傍点]を吹いた。  手ばやく|革襷《かわだすき》をかけ、|鬢《びん》|止《ど》めの鉢巻を木綿で締めた。そして足を踏み馴らしながら神前に戻って、拝殿の|鰐《わに》|口《ぐち》へ手をかけた。      四  ——手をかけて。 (いや! 待て)  と武蔵は、手を離した。  |縒《よ》り合せた紅白の色も分らぬほど古びている木綿の綱——|鰐《わに》|口《ぐち》の鈴から垂れている一条の綱—— (|恃《たの》め、これに|縋《すが》れ)  といわないばかりな。  しかし、武蔵は自分の胸に、 (自分は今、ここへ、なにを願おうとしたのか)  をたずねてみて、はっと、手を|竦《すく》めてしまったのであった。 (もう宇宙と同心同体になっているはずの自分ではないか!)  と思う。 (ここへ来るまでに——いや常々から、|朝《あした》に生きては夕べに死ぬる身と、死に習い死に習いしていた身ではないか)  と、われを叱る。  それが今、計らずも、|平常《へいぜい》の鍛錬を、ここぞと思う間際に当って、一|穂《すい》の明りを仰ぐと、なにか、暗夜に光でも見つけたように、欣しげに心は揺れ、手はわれを忘れて、この|鰐《わに》|口《ぐち》の鈴を振り鳴らそうとしている。  さむらいの味方は他力ではない。死こそ常々の味方である。いつでもすずやかに、きれいに|潔《いさぎよ》く、はっと死ねるという|嗜《たしな》みは、どんなに習っても、習いぬいても、容易に習いきれる修行でないことは勿論だが、ゆうべの月から今朝まで歩いて来た己れの身こそ、それを体得し切ったものと、心ひそかに、自分を誇ってさえいたのに——と、武蔵は石の如く神前に突っ立ったまま、じっと|慚《ざん》|愧《き》の首を垂れて、口惜し涙が頬を下ってくるのも覚えぬもののように、 (|過《あやま》った!)  と、悔いを心に噛み、 (——自分では、|玲《れい》|瓏《ろう》な身になり切っていたつもりでも、まだ五体のどこかには、生きたいとする血もうずいていたに違いない。お通のことやら、|故郷《ふるさと》の姉のことやらが——そして|藁《わら》をもつかみたいとする|恃《たの》みが——ああ、無念な! われを忘れて|鰐《わに》|口《ぐち》の綱へ手を差し伸べさせたのだ。——この|期《ご》になって神の力を|恃《たの》もうとしていた)  お通には泣かなかった涙を、武蔵は|滂《ぼう》|沱《だ》と頬にながして、わが身に、わが心に、わが修行に、万恨の無念を持つのであった。 (——無意識であったのだ、|恃《たの》もうとする気持も、祈ろうとする言葉も考えずに、ふと鰐口の綱を振ろうとした。——だが、無意識だから、なおいけないのだ!)  叱っても叱っても、叱りきれない|慚《ざん》|愧《き》なのである。自分が口惜しいのだ。こんな浅い修行をして来たきょうまでの日々であったかと思うと、 (愚鈍め)  |憐《あわれ》むべき自分の素質を考えるほかなかった。  すでに|空《くう》|身《しん》。なにを|恃《たの》みなにを願うことがあろう。戦わぬ前に心の一端から|敗《やぶ》れを生じかけたのだ。そんなことで、なにがさむらいらしい一生涯の完成か。  だが——武蔵はまた卒然と、 「有難いっ」とも思った。  真実、神を感じた。まだ幸いにも、戦いには入っていない。一歩前だ。悔いは同時に改め得ることだった。それを知らしめてくれたものこそ神だとおもう。  彼は、神を信じる。しかし、「さむらいの道」には、たのむ神などというものはない。神をも超えた絶対の道だと思う。さむらいのいただく神とは、神を|恃《たの》むことではなく、また人間を誇ることでもない。神はないともいえないが、|恃《たの》むべきものではなく、さりとて自己という人間も、いとも弱い小さいあわれなもの——と観ずるもののあわれのほかではない。 「…………」  武蔵は、一歩|退《さが》って、両手をあわせた。——しかし、その手は|鰐《わに》|口《ぐち》の綱へかけた手とは違ったものであった。  そしてすぐ、八大神社の境内から、細い|急坂《きゅうはん》を駈け下りて行った。坂を降りきった山裾の傾斜に下り松の辻はあった。      五  のめるような|急坂《きゅうはん》だった。豪雨の日でもあればそのまま滝となるような道に、洗い出された石ころが|脆《もろ》い土にすがっている。  武蔵が、一気に駈け下りてゆくと、石ころや土が、彼の|踵《かかと》を追いかけて|静寂《しじま》を破った。 「あっ」  なにものかが目に触れたのであろう、武蔵は突然、体を|鞠《まり》にして、草の中へ転がった。  草はまだ朝露を一滴もこぼしていない。膝も胸も水びたしになってしまう。かがみ込んだ|野兎《のうさぎ》のように、武蔵の眼は下り松の|梢《こずえ》を|凝視《ぎょうし》する。  |足《あし》|数《かず》にしても、そこまではもう何十歩と眼でも|測《はか》ることができよう。そして下り松の辻の位置はこの坂下よりさらに幾分か低地になっているため、その梢も比較的低く見られる。  ——武蔵は見た。  樹の上に|潜《ひそ》んでいる人影を。  しかもその男は飛道具を持っているらしい。それも半弓ではない、鉄砲らしいのだ。 (卑怯な!)  と、|憤《いきどお》ってまた、 (一人の敵に)  と、|愍《あわ》れみもしたが、さりとて予期していないことではなかった。これくらいな用意は当然あるものと心構えには入れていたことである。吉岡方でもまた、まさか自分がただ一名でここへ臨むものとは考えていないに違いない。そうすると飛道具の備えもある方がむしろ賢いことだし、それも一|挺《ちょう》や二挺ではないものと見なければなるまい。  だが、彼の位置からは、下り松の梢だけにしか発見できなかった。飛道具の者が皆、樹の上に|潜《ひそ》んでいるものという見解を持つのも早計であり危険である。半弓ならば岩のかげや低地にもかくれていようし、鉄砲ならば、この山腹から撃ってもあたる。  しかし、たった一つ武蔵にとって有利だったのは、樹の上の男も、樹の下の一かたまりも、みなこっちに背を向けていることだった。追分から三方へ道がわかれているだけに、彼らは背後の山を忘れていた。  這うように武蔵は徐々と身をすすめた。刀のこじりの高さよりも頭の方を低くして出て行った。そして|遽《にわか》に小走りになり、ツ、ツ、ツ、ツ、ツ——と|巨松《きょしょう》の幹へ近づきかけると、二十間ほどてまえで、 「——あッ」  梢の男が、ふと、その影を発見して、 「武蔵だっ!」  と、叫んだ。  天空からその声が響いたにも|関《かか》わらず、武蔵はまだ、同じ姿勢のまま十間は確かに駈けた。  彼は、その秒間だけは、決して|弾《たま》が来ないということを、胸の|裡《うち》で|計《はか》っていた。なぜならば、梢の上の人間は、枝に|跨《また》がって、三道の方へ|銃口《つつぐち》を向けながら見張っていたからである。樹の上なので、身の位置も直さなければならない、また小枝に|邪《さまた》げられて、銃身もすぐには向けられまい。  ——こう計って、その秒間だけは安全と思っていた。 「なにッ——?」 「どこへっ」  これは、下り松の下を本陣として立ち並んでいた十名ほどの異口同音だった。  次の瞬間には、また、 「後ろだい」  と、|宙《ちゅう》の男がいった。  |喉《のど》の引ッ裂けそうな声でわめいたのである。その時はもう梢の上であわてて持ち直した銃口が、武蔵の頭へ正確に向いていた。  松の細かい葉を通って、火縄の火がチラ——とこぼれた。武蔵の|肱《ひじ》が大きな円を描いたのはその|咄《とっ》|嗟《さ》であった。手のうちに握られていた石は唸りをあげて、線香ほどに見える火縄の光へぴゅっと飛んで行った。  ——みりっと樹の小枝の裂ける響きと、あッと|其処《そこ》でいった叫びとが一つになって、霧の上から地面へ一個の物体を勢いよく|抛《ほう》り出した。勿論それは人間である。      六 「——オおっ」 「武蔵っ」 「武蔵だっ」  後ろに眼を持たない人間である限り、この驚きは当然に見えた。  三道それぞれな所に、水も漏らさぬ前衛の備えを固めていただけに、なんの予報もなく、この中核部で、いきなり武蔵の姿を迎えようなどとは、夢想だにもしていなかった吉岡方の|狼《ろう》|狽《ばい》も無理ではない。  わずか十名に足らないそこの人数ではあったが、不意に大地を|震《ゆ》り上げられたかの如く、味方同士、腰の|鞘《さや》と鞘をぶつけ合い、また、持ち直す槍の柄に味方の者の足もとを|躓《つまず》かせ、また或る者は不必要なほど遠くへ横ッ跳びに身を交わし、そしてまだ驚き足らないように、 「こ、小橋っ」 「御池っ」  と朋友の名を、無用な高声で呼び合ったり、 「抜かるなっ!」  と自分の心胆さえ定まらないのに他を|誡《いまし》めたり、 「な、な、なにをッ」 「く、くッ! ……」  言葉にならない言葉の切れ端を歯の根から力み出したりして、どうにかぎらぎら抜きつれた刀と槍の幾筋とが、武蔵へ向って半円を備えかけたかと見えた時、当の武蔵は、 「|約定《やくじょう》によって、生国|美作《みまさか》の郷士宮本無二斎の一子武蔵、試合に出て参りました。名目人源次郎どのはいずれにおわすか。|前《さき》の清十郎殿や伝七郎殿のごとき御不覚あるなよっ。ご幼少とのことゆえ|助《すけ》|人《びと》は何十人たりとも存意のまま認めおく。ただし武蔵はかくの如く唯一名にて参ったり。一人一人かからるるとも、総がかりに来られるともそれも勝手。いでやっ!」  と、|凜《りん》|々《りん》、こういい放つ。  正しく挨拶されたのも彼らにはまた意外だった。礼儀に対して礼儀を取らない恥は骨身にこたえたらしいが、|平常《へいぜい》のそれとは違って、この場合のそれは十分な余裕というものからでなければ生れて来ない。口の|唾《つば》さえ途端に|渇《かわ》いている舌では、 「遅いぞッ、武蔵っ」 「|怯《おく》れたかっ」  ぐらいなことしかいえなかった。  にも|関《かか》わらず、武蔵が、唯一名にて参ったりという言葉だけは確かに受け取って、そうだ相手は一名なのだと、急に強味が|甦《よみがえ》ってきたらしくも見える。けれど源左老人や、御池十郎左衛門らの老巧は、そういう裏を考えて、それをもってかえって武蔵の奇策となし、|畢竟《ひっきょう》武蔵の助太刀はどこか附近に姿をかくしているものと疑心暗鬼の眼ざしが|忙《せわ》しない。  ——びゅっ!  どこかで|弦《つる》|音《おと》がした。  武蔵の抜きはなった刀の刃風のようにもそれが聞えて、彼の顔へ向って飛んで来た一本の矢は、同時にパッと二つになって、肩のうしろと刀の切ッ先へきれいに落ちた。  ——と見えた視線はもうそこへ置き残され、武蔵の体は髪を逆立てた獅子のように、松の幹に隠れていたそこの蔭のものへ向って一足跳びに躍っていた。 「キャッ。怖いっ!」  立っておれと|吩咐《いいつ》けられた通りに、最初からそこに立っていた源次郎少年は、悲鳴をあげて、松の幹へ抱きついた。  その叫びに、父の源左老人が、自分が真二つに割られたような声で、わあーッと|彼方《かなた》で跳び上がったと思うと、武蔵の刀によって描かれた一|閃《せん》が、どう斬り下げられたのか、松の皮二尺あまりを薄板のように|削《そ》ぎ、その皮といっしょに前髪の幼い首を血しおの下に斬り落していた。     |霧《む》 |風《ふう》      一  まるで|夜《や》|叉《しゃ》の行為にひとしい。  最初から重大視していた目的物でもあるかのように、武蔵はなにものも|措《お》いて真っ先に、源次郎少年を斬ってしまったのだ。  |酸《さん》|鼻《び》とも残忍ともいいようがない。敵とはいえ、物の数ではない少年ではないか。  それを|斃《たお》したからといって先の勢力が微塵も|減《げん》|殺《さい》されるわけでもない。いや、かえって吉岡一門の者を極度に|怒《いか》らせ、全体の戦闘力を狂瀾のように激昂させるにはなによりも役立ったろう。  わけても源左老人は、|哭《な》くかのような形相を作り、 「——しゃあッ、よくもッ」  顔中から|喚《わめ》きを発し、老いの腕には少し重げに見える大刀を頭の上に振りかぶったまま、武蔵のからだへ打つかるような勢いで向って来た。  一尺ほど——武蔵の右足が退がったと思うと、その足につれ体も両手も右へ斜めになり、源次郎少年の首すじを通って返ったばかりの切ッ先がすぐ、 「かッ」  |刎《は》ねて——ぴゅん——とばかり源左老人の下りかけた|肱《ひじ》と顔とを|摺《す》り上げた。 「ウウふっ」  誰の|唸《うめ》きとも分らない。  なぜならば武蔵の後ろから槍を突き出した者が、同時に前へよろめき出し、源左老人と折重なって|朱《あけ》となったし、なお眼を移す|遑《いとま》もなく、武蔵の正面にはすでにまた次にとびかかった四人目の者が——これはちょうど彼の重心点へ踏み出したとみえ、|肋骨《あばら》まで|断《た》ち割られて、首も手もだらんと下げたまま、二、三歩ほど生命のない胴を支えて足だけで歩いていたし—— 「出会えッ」 「此処だっ」  後の六、七名は時々、絶叫をふり|絞《しぼ》って味方へ急を告げた。だが|如何《いかん》せん三道へわかれている味方は皆、本陣とは相当な距離をおいて潜伏しているので、まだ極めて秒間に過ぎないここの異変を少しも知らず、また彼らの必死なさけびも、松風や大竹藪の|戦《そよ》ぎにまぎれて、むなしく宙へ消えてしまう。  保元、平治の昔から、平家の|落人《おちゅうど》たちが|近江《おうみ》越えにさまようた昔から、また|親《しん》|鸞《らん》や、|叡《えい》|山《ざん》の大衆が都へ|往《ゆき》|来《き》した昔から——何百年という間をこの辻に根を張って来た下り松は今、思いがけない人間の生血を土中に吸って|喊《かん》|呼《こ》して歓ぶのか、|啾々《しゅうしゅう》と憂いて樹心が|哭《な》くのか、その巨幹を梢の先まで戦慄させ、煙のような霧風を呼ぶたびに、|傘《さん》|下《か》の剣と人影へ、冷たい|雫《しずく》をばらばらと降らせた。  ——一個の死者と三名の|傷負《ておい》は、息一つする間にこの|緊《は》りつめた|圏《けん》|内《ない》から無視されてしまったのだ。相互がハッと|呼吸《いき》を改めたせつなには、武蔵は自分の背を下り松の幹へひたッと貼りつけていた。ふた抱えもある松の幹は絶好な背の守りかに見える。しかし武蔵はそこに長く|膠着《こうちゃく》していることはかえって不利としているらしい。|眼《まな》ざし[#「ざし」に傍点]は、けわしく刀のみねから七つの敵の顔をひきつけながら次の地の利を案じていた。  梢の声——雲の声——|藪《やぶ》の声——草の声——あらゆるものが|戦《そよ》ぎ|戦《おのの》いている風の中に、その時、 (下り松へ行けっ!)  何者かが、遥かから、声をからして教えていた。  近くの小高い丘の上だ。手頃なところを選んで、そこの岩に腰をかけていた佐々木小次郎が、いつのまにか岩の上に突っ起ち、三道の藪や木蔭に沈んでいる吉岡勢へ向って、 (わういッ、おおういっ。——下り松だっ、下り松へ出会えっ!)      二  鉄砲の音だった、その時、人々は強い音波に耳を|蓋《ふた》された。  かたがた小次郎の声も、大勢のうちの誰かには聞えたはずである。  ——|素《す》|破《わ》っ。  |動揺《どよ》めいた大竹藪や、木蔭や岩蔭や、あらゆる物蔭から|蚊《か》の湧くように躍り出した三道の伏勢が、 「ヤ、ヤ?」 「既にっ」 「追分、追分」 「出し抜かれているぞッ」  道の三方から各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]、二十名以上の人が、地へ臨んで集まる奔流のように疾駆し出した。  武蔵は今——鉄砲の|轟《ごう》|音《おん》と同時に、下り松の幹をくるっと自分の背でこするように動いた。|弾《たま》は彼の顔から少し|外《そ》れて樹の幹へぶすんとあたった。——そしてその前に槍と刀を|交《ま》ぜて七本の切ッ先を揃えたまま|対《たい》|峙《じ》していた、七名も、ズズズズズと彼の動きに釣られて樹の幹を廻ってゆく。  ——と。いきなり武蔵は、七人の左の端にいた男へ、青眼の剣を向けたままだッと駈け出した。その男はしかも吉岡十剣の中の一人だった小橋|蔵人《くらんど》であったが、余りにも|迅《はや》い恐ろしい彼の勢いに、 「——あ、あッ」  浮き声をあげて、思わず、片脚立ちに身を|捻《ね》じ交わすと、武蔵は、空間を突きながら、そのままタタタタッ——と果てしなくなお駈け出して行く。  武蔵の背を見て、 「やるなッ」  と、追い|縋《すが》り、飛びかかり、一斉に斬り浴びせようとした刹那、彼らの結合はばらばらになり、彼らの個体もでたらめに構えを失っていた。  武蔵の|体《たい》が、分銅のように|刎《は》ね返って、真っ先に追って来た御池十郎左衛門の横を|撲《なぐ》った。十郎左衛門は、直感に、 (彼の|詭《き》|策《さく》)  と|覚《さと》って、追い足にふくみを持っていたので、武蔵の刀は、彼の|反《そ》り返った胸先を横へ|掠《かす》めたに過ぎない。  けれど武蔵の刀は、世の常の術者が振り込むように、一|振《しん》一|刀《とう》——つまり斬り損じた刀の力がそれなり空間へ失われて、また二の太刀を持ち直して斬り込むというような——そんな速度ののろいものではなかったのである。  彼は、師というものにつかなかったために、その修行の上で、損もし苦しみもしたろうが、師を持たないために、益もあった。  それはなにかといえば、既成の流派の形に|鋳《い》|込《こ》まれなかったことである。彼の剣法には従って形も約束も、また極意も何もない。|六《りく》|合《ごう》の空間へ彼が描き出した想像力と実行力とが結びあって生れた無名無形の剣なのである。  例えばこの際——彼が下り松の決闘で御池十郎左衛門を斬った時の刀法などでもしかりで、十郎左衛門はさすがに吉岡の|高《こう》|足《そく》だけに、武蔵が逃げると見せて振り返りざま払った刀は、確かに交わし得ていたのである。——それが京流にせよ、神陰流にせよ、何流でもこれまでの既成剣法ならばそれで十分|外《はず》し得たといっていい。  ところが、武蔵独自の剣はそうでなかった。彼の刀には必ず|刎《は》ね返りがある。右へ斬ってゆく刀は同時にすぐ左へ|刎《は》ね返ってくる原動力をふくんでいるのだった。ゆえに彼の剣が空間に描く光をよく気をつけてみると、必ず、その|迅《はや》い光は松葉のように一根二針の筋をひいて走ってはすぐ返して敵を刎ね上げている。  わっ……とさけぶ間に、その燕尾の如く刎ね返った切ッ先にあたって、御池十郎左衛門の顔は、破れた|鬼燈《ほおずき》のように染まった。      三  京流吉岡の伝統を負って立つべき十剣のうちの、小橋|蔵人《くらんど》がまず先に|斃《たお》れてしまい、今また御池十郎左衛門ともあろうほどの者が、つづいて大地へ|俯《う》ッ|伏《ぷ》した。  物の数には入れるわけにはゆかないが、彼らの|命《めい》|旗《き》とする、名目人の源次郎少年を加えると、すでにここの半数は、武蔵の刀にあたって序戦の|贄《にえ》に|曝《さら》され、惨たる血をここ一面に撒いてしまった。  ——その時、十郎左衛門を斬った切ッ先の余勢をもって、彼らの乱れた虚につけ入ってゆけば、武蔵はさらに、幾つかの|敵《てき》|首《しゅ》をつかみ、ここでの大勢を決することができたにちがいない。  だが彼はなに思ったか、|驀《まっ》しぐらに三本道の一方へ駈けた。  逃げるかと思えば、|翻《ひるがえ》っているし、向って来たなと構えを持ち直せば、地へ腹を|摺《す》ってゆく燕のように、武蔵の影はもう忽ち眼前にない。 「くそッ」  残った半数は歯がみをし、 「武蔵ッ」 「|醜《きたな》いぞッ」 「卑怯ッ」 「勝負はまだだぞ」  と|吼《ほ》え——そして追った。  彼らの眼孔は、皆顔から飛び出しそうに光っていた。|夥《おびただ》しい血しおを見、血のにおいに吹かれて、彼らは|酒《さか》|蔵《ぐら》へ入ったように血に酔っていた。血の中に立つと、勇者は常よりも冷静になるし、|怯者《きょうしゃ》はその反対になる。——武蔵の背を見て追いかけてゆく躍起な血相というものは、さながら血の池の鬼だった。 「行ったぞッ」 「逃がすなッ」  そんな叫びを聞き捨てながら、武蔵は、最初の戦端を切った|丁《てい》|字《じ》|形《けい》の辻を捨て、三道のうちでいちばん道幅のせまい修学院道へ向って駈け込んで行ったのである。  ——当然そこからは今、下り松の変を知って、|慌《あわ》てふためいて駈けつけて来た吉岡勢の一団がある。ものの二十間とも駈けないうちに、武蔵はその先頭とぶつかって、後から追って来るものとの間に挟まってしまわなければならないはず。  二つの勢いは、その|藪《やぶ》|道《みち》でぶつかった。味方は味方の雄々しい姿を見ただけだった。 「や。むむ武蔵はッ」 「来ないッ」 「いや、そんなはずはないが」 「でも——」  押問答をしている間に、 「ここだッ」  武蔵がいった。  路傍の岩の蔭からおどり出て、武蔵は、彼らの列が通り越して来た道の中央に立っていた。  ——来いッ。といわんばかりな第二の準備が彼のからだにできていた。|愕《がく》|然《ぜん》と、それへ動きかける吉岡勢は、道幅の狭さに出鼻から全体の力に集中を欠いてしまった。  人間の腕の長さと刀の長さとを加えて、|体《たい》を中心に円を描くとなると、その狭い道幅では、二人の味方が並ぶのさえ危険である。のみならず、武蔵の前に立った者は、ダダダダッと|踵《かかと》を鳴らして後ろへ|退《さ》がって来たし、後方の者は、争って前へ押して来るため、|大《おお》|勢《ぜい》という力の自体が、咄嗟に混乱を起して、味方は味方の|足《あし》|手《で》|纏《まと》いとなるばかりだった。      四  ——だが、衆の力というものはもとよりそう|脆《もろ》いものではない。  一度は武蔵の敏速と、彼の|剥《む》き出しなたましいの圧倒に、 「ひッ、|退《ひ》くなっ」  腰も踵も、浮いて見えたが、 「|多《た》|寡《か》が唯一人」  と、衆が衆の力を自覚し、その強味を負って、先頭の二、三名が、 「うぬっ」 「おれが仕止めるっ」  身を|挺《てい》して行くと、|後《しり》の|者《もの》もそれを見てはいなかった。わっという|喊《かん》|声《せい》だけでも、一個の武蔵よりは遥かに強い。  怒濤へ向って泳ごうとするように、武蔵は闘いつつ後へ後へと押されるのみで、敵を斬るより身を防ぐに急だった。  手許へのめり込んで来て、斬れば斬れる敵すら|措《お》いてジリジリ|退《さ》がって行く。  この場合、二人や三人の敵を斬っても、相手は総体の力からいえば、なんの|痛《つう》|痒《よう》も感じないばかりでなく、間髪を|過《あやま》れば、槍が伸びてくるからである。——太刀の切ッ先には、およそ「|間《ま》」を取っていることができるが、大勢の中にいて、穂先を縮めている槍には「間」を察している|遑《いとま》がない。  吉岡方は、勢いに乗った。  タタタタッ——と武蔵の|踵《かかと》は|後《あと》|退《さ》がりに引くばかりなので、ここぞと飽くまで押したのである。武蔵の顔はすでに蒼白なのだ。どう見ても呼吸をしている顔ではない。木の根につまずくか、一すじの縄でもその足にからめばもんどり打ってしまうことは確かだと思う。しかし、死相をおびている人間の手許へはいって、死出の道づれになるのは誰も嫌だった。そのためにわッわッと刀や槍で押してゆきながらも、無数のそれが皆、武蔵の胸、小手、膝などへわずか二、三寸ずつ切ッ先の寸伸びが足りなかった。 「あッ——?」  不意にまた、彼らは眼前の武蔵を見失って、そこの狭い道幅とたった一人の相手には、|余剰《よじょう》すぎる大勢の力を持て余して、自ら|揉《も》み返した。  ——といってもべつに武蔵が、足に風を起して駈けたわけでも、樹の上に跳び上がったわけでもない。ただ、彼がたった一跳び、その道から藪の中へ身を|反《そ》らしたに過ぎないのである。  土のやわらかい孟宗竹の密林だった。青い|縞《しま》|目《め》を縫って飛ぶ鳥影のような武蔵の姿に、チカッと、|金《こん》|色《じき》の光が|刎《は》ねた。朝の太陽がいつのまにか|叡《えい》|山《ざん》連峰の|山《やま》|間《あい》から、つと|真《ま》っ|紅《か》な|櫛《くし》形の|角《かど》をあらわしているのだった。 「待てッ。武蔵」 「|醜《きたな》し!」 「背を見せる法やあるっ」  思い思いに、大勢は竹と竹のあいだを駈けた。武蔵はもう藪の|外《はず》れの小川を跳びこえている。そして一丈ほどな崖を跳び上がり、二つ三つそこで呼吸をやすめている様子。  崖の上はゆるい傾斜を持っている|山《やま》|裾《すそ》の原だった。彼は一望に夜明けを見た。下り松の辻はすぐ下であり、その辻には、吉岡方の|逸《は》ぐれた人数が四、五十名もいて、彼が今、小高いところに立った姿を見つけると、一斉にわッとここへ寄せて来た。  今の人数の三倍に|殖《ふ》えたものが、真っ黒にこの山裾の原に集まった。吉岡方の全勢力である。一人一人手を繋げば、大きな剣の|環《わ》をもって、この原を包んでしまうこともできるほどな人数なのである。一剣、|燦《きら》|々《きら》と、針のように小さく、じっと青眼にすえたまま、武蔵は遠く立って待っていた。      五  どこかで駄馬がいなないた。里にも山にも、もう往来はあるはずの時刻。  ことにこの辺は、朝の早い法師たちが、|叡《えい》|山《ざん》から下りて来るし、叡山へ上って行くし、夜さえ明ければ、|木《ぼく》|履《り》を|穿《は》いて、肩をいからして歩く僧侶の姿を見ない日はない。  そういう僧侶らしい者だの、|木樵《きこり》だの、百姓だのが、 「斬合だっ」 「どこで」 「どこで」  人が騒ぎ出すと、里の鶏や馬までが騒ぎ立てた。  八大神社の上にも|一《ひと》|群《むれ》かたまって見ていた。絶えず流れている霧は、山とともに、その見物人の影を、白く塗りつぶしてしまったかと思うと、またすぐ視野を|展《ひら》いて見せた。  ——その一瞬の間に武蔵のすがたは見る影もなく変っていた。|鬢《びん》|止《ど》めに締めている|額《ひたい》の布は、汗と血で、桃色に|滲《にじ》んでいた。髪は崩れてその血と汗に貼りついて見える。ために、彼の形相は、たださえ恐ろしくなっているところへ、魔王の|隈《くま》を描いたように、世にもあるまじき物凄さに見えるのだった。 「…………」  さすがに、呼吸も全身でつき始めてきた。|黒《くろ》|革《かわ》|胴《どう》のような|肋骨《あばら》が大きな波を打つ。|袴《はかま》はやぶれ、膝の関節を一太刀斬られていた。その傷口から|柘榴《ざくろ》の|胚子《たね》みたいな白いものが見えている。破れた肉の下から骨が出ているのである。  小手にも一箇所かすり傷を負っていた。さしたる傷ではないらしいが、|滴《したた》る血しおが胸から小刀の|帯《おび》|前《まえ》まで朱に染めているので、さながら満身が|纐纈《しぼり》|染《ぞめ》になってしまい、墓場の下から起ち上がった人間でもあるかの如く、見る者の眼を|掩《おお》わしめた。  ——いや、それよりも|酸《さん》|鼻《び》なのは、彼の刀にあたって、|処《しょ》|々《しょ》に|唸《うめ》いたり、這ったりしている|傷負《ておい》や死人だ。その山裾の原へ彼が駈け上がり、七十名もの人間が、どっと彼へ襲撃して行ったと思う途端にもう四、五名が|斃《たお》れていた。  吉岡方の傷負が斃れている位置は、決して一所にまとまっていなかった。|彼方《あ っ ち》に一名、此方に一名、|距《へだ》たっている。それを見ても武蔵の位置が絶えず動いて、この広い原をいっぱいに足場を取り、大勢の敵をして、その力を集結させる|遑《いとま》のないように闘っていることがわかる。  ——といっても武蔵の行動には、いつでも一定の原則があった。それは、敵の隊伍の横へ当たらないことだった。努めて敵の展開してくる横隊の正面を避け、その群れの|角《かど》へ角へと廻って、|電瞬《でんしゅん》に|薙《な》ぎつける——末端の|角《かど》を斬る——  だから、武蔵の位置からは、敵はいつでも、|先刻《さ っ き》の狭い道を押して来たように、縦隊の端から見ているわけだった。同時に、七十人でも百人でも、彼の戦法からすれば、わずか末端の二、三名だけが当面の|対手《あいて》であるにすぎない。  しかし、いかに飛鳥の敏速があっても、彼にもたまたま|破《は》|綻《たん》が生じるし、敵も彼のためにそう乗ぜられてばかりはいない。どっと、無数が無数の働きをして、同時に前後から|喚《わめ》きかかる秒間も起る。  その時が、武蔵の危機だった。  また、武蔵の全能が、無我無想のうちに、高度な熱と力を発する時だった。  彼の手にはいつか、二つの剣が持たれていた。右手の大刀は血ぬられて柄糸も|拳《こぶし》も|血漿《けっしょう》で鮮紅に染まり、左の小剣はまだ切ッ先がすこし|脂《あぶら》に曇っているだけで、まだ幾人かの人間の骨に耐え得る光をしていた。  だが武蔵は、二刀を持って敵と闘いながらも、まだ二刀を使っているという意識などは全然ないのである。      六  浪と燕のようなものだ。  浪は燕を|搏《う》ち、燕は浪を蹴って、すぐ|他《ほか》へ|翻《ひるがえ》ってしまう。  一瞬でも、静止はないが、双方の|刃《やいば》の下に仆れて、ばたッと大地に|足《あ》|掻《が》く人間のすがたが眸に映るたびに吉岡方の大勢が、 「——あッ」  なんとはなく息をひいたり、 「——ウウム」  と、|唸《うめ》きを合せたり、気が|眩《くら》んでくるような精神を|醒《さ》まそうとするように、 「…………」  ず、ず、ずーとただ土に|草鞋《わらじ》をずり合う音だけをさせて、武蔵を包囲しようとして来る。  ——と、武蔵は。  ほっと、その|間《かん》に|呼吸《いき》をつく。  左剣は、前へかまえて、いつも敵の|眼《まなこ》につきつけ、右手の大刀は横へひらいて、肩から腕——切ッ先まで、|緩《ゆる》やかな水平に持ち——これは敵の|眼《まなこ》の外にあそばせておくというような形。  大小二剣の尺と、両腕をいっぱいにひろげた尺とを合わせると、彼の|爛《らん》|々《らん》たる|双《そう》|眸《ぼう》を中心として、かなり広い幅になる。  敵が、正面を嫌って、 (——右)  と|窺《うかが》ってくれば、すぐ体ぐるみ右へ寄って、その敵を|牽《けん》|制《せい》し、 (左!)  と、直感すれば、ぱっと左剣が伸びて、その者を、二つの剣の中へかかえてしまう。  武蔵がそうして前へ突き向けている短い左剣には、磁石のような魔力があった。その先へかかった敵は、ちょうどモチ|竿《ざお》にとまった|蜻蛉《とんぼ》のように、|退《ひ》く間も交わす間もなかった。——あっといううちに長い右剣が唸ってきて、一|颯《さつ》のもとに、一個の人間を、びゅッと、血しおの花火にしてしまった。後に、ずっと後年にである。武蔵のこういう戦法を「二刀流の多敵の構え」と人が|称《よ》んだ。しかし——今この場合の武蔵は、まったく無自覚でしていることだった。無我無思のうちに全能の人間力が、より以上の必要に迫られた結果、常には習慣で忘れていた左の手の能力を、われともなく、極度にまで有用に働かすことを、必然に呼びおこされていたに過ぎない。  けれど、剣法家としての彼は、まだ至って幼稚だったものといってよい。何流だの、何の|形《かた》だのと、理論づけたり、体系づけている間などが今日まであろうわけはない。彼の運命からでもあったが、彼が信じて疑わずに通って来た道は、なんでも実践だった。事実に当って知ることだった。——理論はそれから後、寝ながらでも考えられるとして来たのである。  それとはあべこべに、吉岡方の十剣の人々を始め、末輩のちょこちょこしている人間まで、皆、京八流の理論は頭につめこんでいて理論だけでは、一家の|風《ふう》を備えたものも少なくない。けれど、|恃《たの》む師もなく、山野の危難と、|生死《しょうし》の|巷《ちまた》を修行の|床《ゆか》として、おぼろげながらも、剣の何物かを知らんとし、道に学ぶためには、いつでも死身となる稽古をして来た武蔵とは、根本からその心がまえも鍛えも違っている。——そういう吉岡方の人々の常識から見ると、もう呼吸もあらく、顔色もなく、満身|朱《あけ》になりながらも、まだ、二本の刀を持ち、触れれば何物も一|颯《さつ》の血けむりとしてしまいそうな、武蔵の|阿《あ》|修《しゅ》|羅《ら》そのままな姿が、なにか、不可思議なものに見えてきた。気は|晦《くら》み、眼は汗にかすんで、味方の血に戸惑うてくるにつれ、武蔵の姿が、いよいよ、|捉《とら》え難くなり、しまいには、なにか真っ赤な妖怪と闘っているような疲労と|焦《あせ》りが全体に見えた。      七  ——逃げろうっ。  ——一人の|方《ほう》っ……  ——逃げろ、逃げちまえっ。  山がいう。  里の樹々がいう。  また、白い雲がいう。  足を止めた往来の者や、附近の百姓たちが、遥かに、重囲の中の武蔵を見て、その危なさに気を|揉《も》むのあまり、どこからともなく、われを忘れてあげた声であった。  たとえ地軸が裂け、|天《そら》を|覆《くつがえ》す|雷《いかずち》があっても、武蔵の耳に、そんな声の届くわけもない。  彼の身は、彼の心力だけにうごいている。眼に見える彼の体は、仮の|相《すがた》でしかなくなっている。  おそろしい心力が、身をもたましいをも、まったく焼き尽くしていた。武蔵は今や、肉体ではなくて、燃え|熾《さか》っている生命の炎だった。  ——と、突然!  わあっッと、三十六峰がいちどに|谺《こだま》をあげた。山崩れのような|喊《かん》|声《せい》なのだ。それは遠く離れて見ていた人間も、武蔵の前にひしめ[#「ひしめ」に傍点]いていた吉岡勢も、同様に大地から跳び上がって、その体の|弾《はず》みから思わず出した声だった。  ——た、た、た、たッ。  武蔵が、不意に、山裾から里へ向って、|野《や》|猪《ちょ》のように駈け出したからである。  もちろん。  七十名からの吉岡勢は、それに手を|束《つか》ねていたわけではない。 「それッ!」  真っ黒になって、武蔵へ追いすがり、追いつきざま、五、六名が、 「——かっッ」 「今になって!」  組まんとするばかり|打《ぶ》つかって行くと、武蔵は身を伏せ、 「ちいイッ」  右刀で、彼らの|脛《すね》を|薙《な》いだ。そして敵の一名が、 「こんな奴ッ」  上から撲り落してきた槍を、カーン、宙へ|刎《は》ねとばすと共に、乱れ髪の一すじ一すじまでが、皆、敵へ向って闘って行くかのように逆立って、 「——ちッ、ちッ、ちいっ」  右剣左剣、右剣左剣——とこもごもに火となり水と走って、食いしばっている武蔵の歯まで、口を飛び出して噛みついて来そうに見えた。  ——わあっ、逃げたっ。  遠い所の|動揺《どよ》めきは、吉岡方のうろたえを同時に|嗤《わら》ったように響いた。武蔵の影は、とたんにもう原の西側の|端《はず》れから青い麦畑にとび降りていたのである。  すぐ後から、 「返せッ」 「待てッ」  どうっと、続いて人数の一部がそこを降りたと思うと、そこでまた、思わず耳をおおうような絶鳴が二声ほど走った。崖の下にへばりついていた武蔵が、自分に|倣《なら》って向う見ずに飛んだ者を、下で待ち伏せていたように斬ったのである。  ——びゅっ。  ——ぶすんっ。  麦畑の真ん中へ、二本の槍が飛んできて、土へ深く突っ立った。吉岡方の者が、上から投げつけた槍である。しかし、武蔵の姿は泥の|塊《かたま》りのように山畑を駈けて跳び、またたく間に彼らとは、約半町ほどな距離をつくってしまった。 「里の方だ」 「街道の方へ逃げた」  という声が頻りと多かったが、武蔵は山畑の|畝《うね》を這って、その人々の手分けして駈けまわるさまを時々、山の方から振返って見ていた。  やっと、その頃。  |朝《あさ》|陽《ひ》はいつもの朝らしく草の根にまで|映《さ》してきた。 [#地から2字上げ]宮本武蔵 第四巻 了 本電子文庫版は、吉川英治歴史時代文庫17『宮本武蔵(四)』(一九八九年一二月刊)を底本としました。 作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、文学作品でもあり、かつ著者が故人でもありますので、そのままとしました。ご了承ください。 |宮《みや》|本《もと》|武蔵《むさし》(四) 電子文庫パブリ版 |吉《よし》|川《かわ》|英《えい》|治《じ》 著 (C) Fumiko Yoshikawa 2001 二〇〇一年七月一三日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 2421行  |快《こころよ》げに昼寝している武蔵のからだの上には、 この部分、html版では行頭から全角空白2字下げになっていましたが、周辺の状態から1字下げであると判断して1字下げとしました。 注 「二の字点」を「々」で代替しているのは、パブリHTML版に従っています。